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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第3章 戦前の大和~1939年
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第27話 産めよ殖やせよ国の為

 第27話『産めよ殖やせよ国の為』

 

 

 1939年9月30日

 東京府

 

 その題名に充てられた言葉はまさしく史実の9月30日、厚生省(後の厚生労働省)が発表したスローガン『結婚十訓』に違いなかった。この厚生省のスローガンは、豊かになり文明化が進む代償として生じた大日本帝国内での少子化の改善や対米英戦争に備える為のものだが――ナチスドイツの『配偶者選択10ヶ条』を基とし、軍部の男尊女卑の賜物――殆ど、役には立たなかった。

 海軍大臣官邸の奥まった部屋の一角で、伊藤や山本や米内は話をした。中にはあの辻政信陸軍少佐も加わっていた。1度は伊藤ににべもなく同行を断られた彼だが、執念と口先は一級品で、米内海軍大臣とのお目通りが叶った――という次第である。一方の米内は、後に起こすとされる辻の蛮行やら何やらを山本から聞かされていたので終始冷たく接した。

 「しかし未来の総理大臣たる東條のみならず、米内閣下にも媚を売りにくるとは……」山本は侮蔑した視線を米内と語る辻に向けながら言った。「どれ程の野心の塊なのだろうか?権力の亡者とでも言うべきでありましょうか?」

 「奴の望み通りをさせてておいた方が都合が良い」伊藤は言った。「“毒をもって毒を制す”――とはよく言ったもの。陸軍の東條一派との架け橋にもなってくれているからして、『帝機関』は大きな成果を上げているのだ。一重に奴のお蔭だ」

 と、伊藤は陸軍少佐辻政信の忠義に対する感謝の意を述べた。実の所、それによって辻をこの場に連れてくる事になった。伊藤が言う様に、辻は海軍と陸軍間の重要な『架け橋』となっており、同時に秘密を知る男でもある。時々それを仄めかし、伊藤に牽制の意を示してくる辻だが、当の伊藤の背後に帝国海軍、内閣、そしてかの神聖不可侵の御方――が付いている事は重々承知していた。自分は小物であり、その気になれば伊藤に跡形も無く消される事もである。

 関東軍を離れた辻は、人が変わった。対米英開戦派や対支那開戦派には形のみで、2度と仕えなかった。それら派閥を離れた辻は、伊藤の協力者の群れに加わった。『大和会』の一員でありながら、最大の敵である東條派の一員でもあり、帝機関――昭和天皇の直属諜報機関――の重鎮でもある辻は、あらゆる勢力へ自由に介入することが出来た。

 


 「今回の『結婚十訓』は、陸軍による所の働きかけが強いと見たが……」米内は辻を睨み付けながら言った。「如何なる事であろうか?未だ陸助共はドイツの盟友の座を狙っておるのか?」

 この極めてナチス的な解釈が濃密に盛り込まれた『結婚十訓』は、ナチスの歪んだ優生思想を強く反映したものである。以降、大日本帝国軍部はナチスの政策に惹きつけられた。1940年には『国民優生法』公布、1941年には『人口政策確立要綱』が決定される。

 ナチスは1939年~1941年の間、『T4計画』という優生学思想にとって都合の良い政策を取っている。これは『役に立たない人間』――即ち、身体障害者や精神障害者を『灰色のバス』に乗せて『処分場』まで運搬、ガス室に入れて『安楽死』させるという政策である。T4計画は1941年8月には総統命令で中止されるのだが、殺害はその後も続けられた。

 また、それ以前からナチスは『優生断種法』という法律を施行している。1933年に制定されたこの法律は、T4計画にも該当された身体障害者や精神障害者に断種(手術で生殖器官を切り取って生殖機能を排除する)を義務付けた。この法律が前述した『国民優生法』――遺伝性精神病や遺伝性精神疾患の人間に対して不妊手術を施す――の基となった事は言うまでもない。

 しかしながら、この断種法はナチスや日本のみの法律ではなかった。むしろ、ナチス・日本のそれは断種先進国ともいえるアメリカ・カナダ・メキシコの二番煎じといえる。特にアメリカは1907年のインディアナ州で世界最初の断種法が定められて以来、最終的には1937年までに32州がインディアナ州に追随した。

 特にカリフォルニア州では、精神疾患者は断種を行った者だけが施設に出られるとを定め、精神疾患者以外に梅毒患者や性犯罪者にも断種手術を行っていた。1921年の全米での断種件数3233件の内、カリフォルニア州の断種手術は2558件にものぼっていた。このカリフォルニア州の断種法はドイツにも伝えられ、後にナチス政権をそれを基に断種法を制定していく。

 このように、断種法は決してナチスや日本のみの非人道的法律という訳ではなく、世界において先進した法律であった。逆に日本国内では、断種法に対する是非を巡って、法案が内閣に提出される前から賛否両論があった。マスコミ等は断種法を時局に適った政策として歓迎する一方で、各界の有識者には反対論者も多かった。ナチス断種法を模倣した政府案は不評だったのだ。今史では更に断種法への世論の風当たりは強く、1940年に『国民優生法』が成立する可能性は薄かった。

 ただ、実際の所『国民優生法』が本格的に力を見せるのは戦後1948年の事、『優生保護法』が施行された頃からであった。


 「かもしれません」辻は言った。「しかし早い内に、その一派は影響力を失っていくでしょう。東條閣下は本件には『陛下の大御心に従う』との見解を示しています」

 「では東條が陸軍を抑えるとして……」米内は唸った。「勝負はやはり来年か」

 1940年1月、その月には『米内内閣』組閣が控えていた。これは『大和会』主導の歴史改変への下準備が済み、いよいよ本格的な改変事業に乗り出す訳である。しかし開戦反対派筆頭の米内が予備役軍人となった形で総理となり、内閣には山本五十六を海軍大臣に任命する――という大きなビックサプライズが数多く世間に公表されてしまう為、動乱の20年代の再来は否めなかった。

 「言うまでもない事だが、厚生省や軍部の馬鹿共は今回の『結婚十訓』をナチスのものだとしてただ模倣しただけで、支援策をろくに出していない」米内は言った。

 当時のドイツには『結婚資金貸付法』という法律があった。これはお金の無い者が結婚する時に資金を貸し付ける――という制度で、1000マルク(現在の価値にして200万円)が無利子で借りられた。そして、この貸付金は子供が1人生まれるごとに返済金の4分の1が免除され、4人の子供を生めば全額返済免除となった。その結果、たった2年で出生率は20%上がったという。

 しかも、この結婚貸付金は現金ではなく、特定の商店での買い物に使える『需要喚起券』という証券で支払われた。これはその名の通り、需要を喚起させる為の策で、案の上、消費増加と産業の活性化を引き起こした。この点は現代の『子ども手当』が見習うべき所だろう。

 加速する少子化に歯止めをかけつつ、経済発展を狙ったこの1933年制定の法律の他、ヒトラーは母子援護センター設立、育児用具(食料品、ミルク、衣類、寝具)の無料提供、母親の為の保養施設設立・温泉や景勝地といった観光地への保養旅行の推奨等保養制度、健康・育児・教育相談、家事援助など、手厚過ぎる少子対策を作り、取り組んだ。それらが驚異的数値である『2年で出生率20%増』という結果を生み出したのは疑いも無い事実であった。

 「しかし何故、多額の賠償金や不景気に悩まされるドイツにそれほどの余裕が……」と、辻は考え込む。確かにどん底のドイツがこれほどの事が出来るのだろうか?

 「そこだな」米内は言った。「次に総理となった時、私が目指すのはそれらを可能とした――国民総背番号制の制定だ」

 ドイツの高度な社会保障を確立していたのは、国民総背番号制によって強固なものとなった源泉徴収だった。国民総背番号制は脱税・節税の防止となり、源泉徴収制度が効率的な税収集を確立した。それによって膨大な量の税収を手に入れることとなった。

 同制度に倣い、史実の1940年4月――時に米内内閣時代に日本でも源泉徴収を開始していた。ドイツの場合――つまりは大規模な公共事業や社会保障の為ではなく、対米英戦や継続する日中間戦争の戦費の為である。元は戦時中の時限立法であった筈の源泉徴収制度だが、アメリカやイギリスが追随する様に効率的な税金徴収法であった為、戦後日本にも残る事となる。

 また、他にもヒトラーは『配当制限法』や大規模な減税も行っている。配当制限法は、企業は6%以上の配当が許されなくなり、6%以上の利益が出た場合には、公債を購入することが義務付けられていた。しかし、当時のドイツで6%以上の利益を得る企業は殆ど軍需企業に限定されていた。ヒトラーはそのような形で利潤に笑いを隠せない軍需企業に強烈な一撃を加えたのだ。ヒトラー率いるナチス政権は、暴利を貪る企業を許さなかったのだ。

 「ドイツから学ぶべき点は多い」米内は言った。「インフレ整備を続ける我が国としては、あのちょび髭男のやった事は役に立つ。奴はユダヤ人を皆殺しにし、世界に喧嘩を売った男だが……当初は不況に喘ぐ労働者達には優しい男だった」

 ヒトラーは公共事業をかつてない規模で行っていた。ヒトラー以前は3億2000万マルクに過ぎなかった公共事業費は、たった1年で20億マルクに膨れ上がった。そしてヒトラーは、それら公共事業の支出の多くを労働者達に振り分けていた。最大規模の公共事業である『アウトバーン』建設事業――高速道路――では、建設費の内46%を労働者に振り分けた事で知られる。アウトバーンはその後、ドイツ陸軍の物資輸送網――お得意の電撃作戦等に多用された――や、ドイツ空軍の代替滑走路等、軍事的な面で広く使われる事となる。

 「戦争を後回しに出来たとして、国力増強に何年費やせるでしょうか?」辻は訊いた。

 「5年か6年……といった所か」伊藤は言った。「しかし来年には国際的な事件が起こってしまう。それが戦争に火を着けば、猶予は残されない」

 

 

 来年1940年は『大和会』にとって勝負の年である。冬季・夏季両五輪が開幕し、経済面での活性化は期待出来るが、大日本帝国には工業力増強、少子化問題解決、法整備、工業化に伴う国内食糧自給率低下の解決等、依然多くの問題が残されている。

 

 それら多くの難題に対し、伊藤は全ての責任を取る覚悟を決めていた。

 

 

 






 


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