第26話 帝機関(後)
第26話『帝機関(後)』
1939年1月26日
広島県/呉
翌日、伊藤の話の是非を問うべく、ヒトラーとムッソリーニ両人は呉軍港に向かった。内密の為、現地の海軍関係者の多くも2人の存在は知らなかった。そこで当然だが、呉視察の折に帝国海軍主催の秘密会談が露呈する恐れが重々あった。その為、ヒトラーとムッソリーニは成金の日本人資産家が着そうな雰囲気のスーツに身を包み、帽子を手に呉へと足を運んだ。だが、それでも情報流出は懸念された。
伊藤は呉湾内に聳え立つ超弩級戦艦『大和』を指差して、基準排水量や全長全幅といった性能諸元や、天空を仰ぐ45口径46cm主砲についてを教えた。それは大日本帝国の国家機密である、と伝え、1945年4月直前に燃料を失い、戦後まで生き残った――と説明した。
「こんな戦艦を……」ヒトラーは呆気に取られて呟いた。付近には、私服のSS隊員が1人付いている。見る者に恐怖と絶望――ユダヤ人には死――を覚えさせる髑髏の徽章が付いた軍帽と、漆黒の制服は着ていない。そんな事をすれば「ここにナチが居るぞ」と大声で叫んでいる様なものだからだ。一方のムッソリーニも、護衛は1人付けていた。
『大和』の紹介を済ませた後、一行はドイツ海軍重巡洋艦『プリンツ・オイゲン』に向かう。艦影が見えて興奮気味のヒトラーが歩くのを急ぐ中、ムッソリーニは伊藤を呼び止めた。
「先に行って頂きたい。私はこの男と話がある」
ムッソリーニは言い、ヒトラーは承諾した。
「英語は話せるな?」
伊藤は頷いた。米国では2年間の駐在経験を持ち、レイモンド・A・スプルーアンスとも親交があった。その経験上から英語は達者で、終戦後には旧友との再会の為にと猛勉強をし、『大和』奪還計画の為にとその後も勉学を怠る事はなかった。
「なら良い」ムッソリーニは流暢な英語で言った。彼自身も史実では母国語を始め、英独仏3ヵ国語をマスターしていた。今史でもそれは健在だった。
2人は積み置かれた資材の上に腰を下ろした。「コーヒーは?」ムッソリーニは訊ね、伊藤は呆気に取られた様に口を開けた。伊藤は慌てて頷く。彼は立ち上がると、10mほど離れた位置で待っていた従兵の元まで歩いていき、持っていたピクニックバスケットを受け取ると戻ってきた。
「イタリアをどう思う?」そう言いながらピクニックバスケットの中を探り、魔法瓶と果物とビスコッティを見つけ出した。ビスコッティは『2度焼いた』という意味のイタリア語で、イタリアの代表的な焼き菓子で、固焼きビスケットを指す。厳密にはイタリアのトスカーナ地方の郷土菓子で、地方では『カントッチョ』と呼び親しまれている。「かつてイタリアは偉大で強大無比の大帝国だった。腐敗し、助長し、膨大化した共和制ローマは元老院の暴走と、身の程を弁えない愚かな国民の手によって衰退の一途を辿っていた。それを救う唯一の道が――カエサルが提唱した『帝政ローマ』だった」
彼はそう言い、テルモス社製の『サーモス(熱)』魔法瓶からマグカップにコーヒーを注いだ。「その後、カエサルは道半ばにして生涯を終え、最終的に帝国は破滅した……」
「しかし今や時代は変わった」伊藤はマグカップを持ち、コーヒーを口に含んだ。
「果たしてそうだろうか?」ムッソリーニは言い、ビスコッティをコーヒーに浸した。アーモンドの香ばしい匂いと、ほのかに残っていたコーヒーの湯気が立ち昇る。「貴様の言う未来、そして今の事を考えれば、今やこの時代は『独裁者対民主主義』の全面戦争と言えるではないか。ドイツもイタリアも日本も、細かい所は違えど1人の人間が国家を支配する『帝政』に他ならん」
彼は頷いてビスコッティを口にした。「イギリスとの同盟を組めば、真の戦いとなるな。何しろイギリスも『立憲君主制』に他ならんから、その点で言えば今回の戦争は『君主制対民主主義』の戦い――とでも言うべきだろうか?」コーヒーを飲み、彼は自分の質問に自分で答えた。「まぁ、フランスが恭順すれば共和政が加わってしまうからな。惜しい所だ」
「閣下はイタリアを帝政ローマ帝国にでも還すおつもりで?」
「それが当然の帰結ではないだろうか?」ムッソリーニは言った。「知っての通り、イタリアの男というのは――弱い。戦争を祭り事か何かと勘違いし、命を繋ぐ銃弾や武器よりも、女や酒を要求する連中だ。その遠因にあるのは、やはり共和制ローマ時代の腐敗した元老院のせいだろう」
「そうとも限らない」伊藤は言った。
「いや」ムッソリーニはかぶりを振った。「『パンと見世物』の様に、古代共和制ローマの元老院は贅を与え、国民に媚を振っていた。汚職、内部紛争の末に財政は圧迫、膨張したローマ帝国は最早限界点に達しようとしていた。奴らはそんな風船の様なローマ帝国に『贅沢』という空気を送り込んだ張本人だ」
ムッソリーニは桃を握り締め、伊藤を見据えた。「だからこそ、予は帝政ローマを基本に全てを変えようと決心した。そしてイタリアの男に3つの“約束”をし、軍隊を強固なものとした」
「3つの“約束”?」
ムッソリーニは桃をバスケットに戻した。「簡単な事だ。『女』『飲食』そして――『命』だ」ムッソリーニは言った。「1つめの『女』は、かつてのローマ帝国同様、女から主権を剥奪し、生産の道具のみにその位置を定める。そうすることで均一的に女は供給され、約束は保障される」
「横暴だ」
「同様に男もだ。そもそも独裁国家に1人1人主権が約束された国などあるか?」ムッソリーニは訊いた。「答えは言うまでもなく――Noだ。それは最早、独裁国家ではない」
国民に主権など無意味なものだと、ムッソリーニは言った。民主主義国家は多半数の国民の顔色を見て、いちいち媚を売る様な選択を行っていかなければならない。その点、独裁国家は独裁者1人の決定によって万事全てが迅速に運ばれ、政治はより効率的に進む。
「2つ目は分かるな」ムッソリーニは言った。「3つ目の『命』は、これまでやってきた事だ。医療水準の向上と――最終的な永遠の命の約束だ。どれだけ勇猛な兵士も、病や寿命には勝てない。かつてのローマ帝国の軍団もそうであったし、かのアレクサンドロス3世も同様だ。最も人が欲しがるもの――即ち命の保障とあらば、誰もが納得するだろう――こんな太古の文明を復活させようとする戯けた指導者にもな」
「何故、話したんです?」伊藤は訊いた。「私の様な一介の人間に」
「どう思うか知りたかったんだ」ムッソリーニは言った。「答えてくれまいか」
「……完全におかしいと、人は言うでしょう」
ムッソリーニは顔を顰めた。「世間に訊いてるんじゃない。貴様にだ」
「時代遅れの妄想――暴走したマキャベリズム……とでも言いましょうか?」伊藤は考え込みながら言った。「貴方ほどの御人だ。他にイタリアを再起させられる術はいくらでもあったでしょう。しかし、何故このような案を?」
「まず1つ訂正だが、マキャベリが説いたのは君主に対する絶対的な権限ではない。自己制御の下、高邁な思想の下、君主は国家の危機に際し、手段を選んでいてはいけない――という事だ」ムッソリーニは尖った口調で言った。「ヒトラーは民族主義的観点から、ユダヤ人を絶滅させようと目論んでいる様だが、予は違う。予が望むのは統一化された民族体――1つの帝国だ」
更にムッソリーニは続けた。「即ち――民族主義的、帝国主義的、全体主義的な単一のアイデンティティから形成された1つの帝国だ。野蛮な民族と高度に発展した民族、この2つを混ぜ合わせ、単一の民族として再構築する」ムッソリーニは肩を怒らせた。「そうする事で双方の欠陥を廃した、新たな共通要素や思想が生まれていく。そうして帝国は頑強となり、統合された精神の下――皆が1つとなるのだ」ムッソリーニは小さな笑みを漏らした。「それが当然の帰結というものだ」
伊藤はため息を吐いた。ムッソリーニは完全に変貌してしまっていたからだ。
「貴方には驚かされるばかりだ」伊藤は呻いた。「その崇高?なる思想を理解に及ばない私の頭をお許し下さい」伊藤は反撃した。「しかし気付くべきだ。そんな利己的な思想と政策では、イタリア千年の繁栄は訪れる事は無いでしょうし、国民からも疎んじられる」
「マキャベリ曰く『君主は愛されるよりも恐れられよ』」ムッソリーニは言った。「忠言には感謝する。しかし信念を曲げる気もないし、祖国を衰退させる気もさらさらない」
ムッソリーニは立ち上がってバスケットを掲げた。「今は敵に集中しよう。謀略によって成し遂げようとする大事業にもだ。その為に欲しいものがある」
「何です?」
「あの『大和』と空母」
「それは……フェアじゃない」
「そうかな?」ムッソリーニは言った。「敵愾心を持つのはヒトラー総統閣下であろう?ヒトラーも薄々は感じていた様だが、通訳の男が敵意を剥き出しにしていたぞ」ムッソリーニは更に続けた。「最も、予は小物だった様だから対象にもなっていなかったらしい。だったら、秘蔵の物を寄こして頂いてもいいのではないかな?」
「しかし……」
「我が海軍は機動艦隊の創設に心血を注いでいる」ムッソリーニは言った。「元々は地中海やドーバー海峡を制するべく、洋上移動基地としての側面の強い5万t級装甲空母の建造を予定していたのだがな、貴様の提案の為に白紙に戻さねばならなくなった。そこで、空母建造経験の豊富な貴軍に是非、技術者や設計図を送って頂きたい」
ムッソリーニは笑みを漏らした。「さすれば、貴様の志に一貫して協力しよう」
1939年9月1日
東京府/下谷区
それは厳寒の日から始まった事であった。その日、日独伊三国科学・技術同盟が締結されるとともに、三国間の謀略同盟も締結された。三国は対米英諜報活動を共同で行い、それぞれが情報を出し合って最高の成果を導き出す。
「総統閣下はポーランド侵攻を取り止めになった」
帝国図書館地下1階、陸海軍統合諜報機関『帝機関』本部にて、ヒトラーより送られた特使――エヴァルト・オイゲン・ルートヴィヒ・シュミットは言う。彼は腕を組み、眼前の伊藤を見据えた。
「今度は貴国の番だ。総統閣下は“結果”を望んでおられる」シュミットは言った。「して、貴国はその結果をお出し頂けるのでしょうか?」
伊藤は唸る。「無論です」
「どうしてそういえる?」
「既に期は来つつある」伊藤は言った。「種は芽を生やし、時は水を与え続ける。イギリスが反米意識を持ち、軍事同盟を持ちかけてくるのは時間の問題だ。
1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻という歴史は改変された。結果としてヨーロッパを波瀾の世に引き摺り込む第二次世界大戦は頓挫したが、英国首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンが首相の座を降りる事は変わらなかった。
しかし、それが如何なる形で降りる事となったかは――また別の話である。
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