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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第3章 戦前の大和~1939年
25/182

第25話 帝機関(中)

 第25話『帝機関(中)』

 

 

 1939年1月25日

 東京府

 

 伊藤整一が描写する未来の尖端は、羅針盤が常に北を指し示す様に、扮うことなき――“敗戦”を指していた。1945年のその春、眼前に座る2人の男――アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニは最高指導者を失脚して破滅の道を歩む事となっていた。ムッソリーニは新たな国家勢力、イタリア社会共和国(RSI)の首相――政府そのものはナチスの傀儡であり、名のみの地位だった――として、愛人クラーラ・ペタッチと銃殺刑。それから2日後の4月28日、ヒトラーも後を追う様に愛人エヴァ・ブラウン――29日の時点で結婚した――とともに、自殺して生涯を終えた。

 ヒトラーの後任者として就任したのはカール・デーニッツ海軍元帥だった。デーニッツは、ヒトラーの後継者としではなく、ナチス政権の後継者として大統領になった。第2代総統――即ちヒトラーの後継者――として名が挙がっていたのはヘルマン・ゲーリング国家元帥だった。だが、マルティン・ボルマンの一報によって反逆罪に問われる事となったという。ヒトラーは『大和会』の一員、原の通訳を介し伝えられた伊藤のその話に対し、にわかに興味をそそられた。

 この2人、ゲーリングとボルマンは常にいがみ合い、正反対の立場を取っていた。結局、最終的に軍配を上げ、ゲーリングを蹴落としたボルマンだったが、デーニッツには歯が立たなかった事だろう。ヒトラーの遺書の第1号電文のみを受諾し、ボルマン自身を『ナチ党担当大臣』に任命する第3号電文は、第1号電文によって無制限の権限を得たとして、デーニッツの手によって握り潰されていたからだ。ただ実際の所、ボルマンは5月にはその姿を消している。1972年には遺体が発見されたが別人であるという可能性もあり、海外に脱出したとも言われている。

 伊藤は更に話を続けた。国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードル陸軍上級大将の助けを借りて、デーニッツ率いるフレンスブルク政府はこの絶体絶命の危機を迂回する手段――即ち『無条件降伏』を講じた。1941年6月以来の借りを返そうと報復を実行するソ連赤軍に――ではなく、米英軍に対してだった。少なくとも、ドワイト・D・アイゼンハワー大将には思慮分別があった。

 そんなアイゼンハワーを相手とし、全権を委譲されたヨードルは、ソ連を除く連合軍に対し無条件降伏する事に署名すると通告する。ところがアイゼンハワーは――5月7日までにソ連軍を含めて無条件降伏を行わなければ、既に降伏している北部地区も爆撃すると通告した。

 降伏し、生命の保障を約束されたドイツ国民を守る為、ソ連赤軍との直接戦闘に入りたくなかったからだろう……と、ヒトラーは呟いた。米国は極東・ヨーロッパの2方面での戦争遂行に多額の資金を注ぎ込んでいたし、軍自体が疲弊していた。米軍上層部は極東での戦況も憂慮し、第2の戦闘開始――と何が何でもなりたくなかったのだろう。

 結局、米英仏連合軍に対する降伏は5月7日、フランスのランスで執り行われた。一方、ソ連赤軍とは翌日5月8日に陥落したかつての首都ベルリン――後に連合軍主要4国によって分割統治される――にて、執り行われる運びとなった。そして5月23日、カール・デーニッツら政府要員達は逮捕され、ここにフレンスブルク政府は終焉を迎えた。



 「して貴様は如何にしてタイムスリップしたのだ?」

 ヒトラーは、1945年5月に崩壊したドイツから、伊藤の身の上話に話題を切り替えた。ドイツ・イタリアの降伏を認めてはいる様だが、やはりショックが大きいのだろう。

 その点もあったが、伊藤はタイムスリップの理由をあまり話したくなかった。まず口頭で答えたとすると、やはり――原子爆弾の存在を伝えなくてはいけないからだ。

 史実、ドイツも核開発にはある程度興味を示していた。1940年のノルウェー作戦時には、ヴェモルクにある、世界最大の重水製造工場であるノルスク・ヒドロ社のアンモニア生産工場を掌握した。同社は合成アンモニアを生産する為に水素電気分解を行い、その副産物として重水を入手出来ていたのだ。

 また、この頃には帝国陸軍も本格的な原爆開発を推進する様になっていた。理化学研究所にその開発を委託した陸軍は2万円の予算を出したが――これは九五式軽戦車の価値に比較して約4分の1程度であり、たかが知れていた。(マンハッタン計画は全体予算20億ドルで実に国家予算20%に相当。一方の日本は全体を含めても2000万円程度の予算だった)

 そして日本同様、ドイツでの原爆開発チームに充てられた予算も少なかった。教育科学省からの資金援助も無く、ナチス指導者達からも信用されていなかった。唯一、アルベルト・シュペーア軍需大臣は必要性に気付き、理解を示したが――「ユダヤ的物理学」として、ヒトラーは興味を示さなかった。1943年2月には、6名のノルウェー人レジスタンスが空挺降下し、ヴェモルクにあるノルスク・ヒドロ社の重水工場は破壊されてしまった。その頃には戦争は激化の一途にあり、ヨーロッパ侵攻も目前だった。結果として原爆開発はそこで中断、それまでに費やした時間と100名に満たない研究者達の労力、そして1000万ドル程度の予算は無駄に終わってしまう。

 また、3月頃には帝国海軍も原爆開発を中断、レーダー開発に力を注ぐ様になっていた。実際、その僅か1ヶ月後にアメリカで、2年後には広島と長崎に落とす原爆を造る事となる『ロスアラモス研究所』が発足するとは、夢にも思わなかっただろう。

 結局、それらの成果は「ナチスの科学力は世界一」という幻想とも妄想とも言える過信を結論として出して終わっただけであった。

 

 

 伊藤の語る、壮大なる叙事詩的物語には、最後を彩る衝撃的な描写が必要だった。B-29が日本の空を覆い尽くし、東京や大阪で10万人越えの死者を出す――という佳境以上にだ。伊藤自身は、心臓を止めかねないどころか捥ぎ取ってしまう様な描写――原爆投下というクライマックスは必要とは思っていなかった。時に真実は小説より奇なりという。

 「御上が過ちに気付き、1日でも早く無条件降伏する――なら良いんですがね」伊藤は言った。「しかし現実は甘くはありませんでした」

 1945年8月6日午前8時15分、B-29『エノラ・ゲイ』はMk-1原子爆弾――通称『リトルボーイ』を投下、夏の広島を煉獄に変えてしまった。これにより、最終的に約14万人が死亡。後に複数の後遺症を煩わせ、敗戦後にも猛威を振るった。それから3日後には、長崎にも落とされる。

 「酷いものだ」

 ヒトラーの言葉は原の手で日本語に変換された。

 「えぇ……」伊藤の言葉は重かった。ヒトラーの言葉への疑いからだろう。600万人近いユダヤ人を世界から抹消した男がその様な言葉を口にすれば、誰でも疑うのは当然だ。

 「我々は『大和』と呼ばれる戦艦を救うべく、米国が行った核実験場に潜り込んだのです。原爆が閃光と衝撃を放った後――我々と『大和』は1937年の世に舞い戻っていたのです」

 「うーむ。にわかには信じられん話だな」ヒトラーは言った。

 「全く同感だ」ムッソリーニも続いて言った。「証拠はあるのか?」

 2人のドイツ語は訳され伝わると、伊藤は静かに頷いた。「無論」

 そう言った後、彼は1枚の写真を見せた。

 「見覚えがある」ヒトラーは言った。「我が海軍の重巡洋艦、『プリンツ・オイゲン』だな」

 伊藤は頷いた。ドイツ海軍の重巡洋艦『プリンツ・オイゲン』は、1945年のドイツ無条件降伏後、米軍に接収され、『大和』とともにビキニ環礁の核標的艦として配置されていた。

 「これは去年の8月に進水したばかりの代物だが……」

 「『大和』同様、過去へと戻った1隻です」

 「何!?」ヒトラーは瞠目した。

 「今は呉の海軍根拠地にて、預かっております」伊藤は言った。「帰国の折には、総統閣下に是非お持ち帰り頂ければ宜しいかと」

 「良い土産だ」ヒトラーは嬉々として言った。「我が国は戦力が不足しているからな。重巡クラスが1隻でも加わればより確固たる軍隊を築ける」

 「……して、何故予と総統閣下を呼んだのか。そろそろ話してくれまいか?」

 そう言ったのはムッソリーニだ。

 「では本題に戻りましょう」伊藤は言った。「『対米作戦』に」

 

 

 伊藤の説明を聞く内、嬉々としていたヒトラーの機嫌は徐々に損なわれ、最終的にはふてくされた表情を浮かべるに至っていた。何しろ、それはこれからドイツ再興を図るヒトラーが描いていた『絵』を、根底から否定するものだったからだ。

 「ポーランド侵攻を止め、アメリカ本土に攻め入る……と?」

 「そうです」伊藤は頷いた。「しかし1939年の段階ではありません。更に先です」

 「馬鹿を言うな!」ヒトラーは激怒する。

 そんな中、横で沈黙を保っていたムッソリーニは口を開いた。

 「そのわけは?」ムッソリーニは訊いた。

 伊藤はそれに答えた。まず、米国の介入は避けられない事実であり、何らかの手段を講じても米国はヨーロッパ圏でのナチス・ファシスト台頭を阻止すると推測される。そこで英国と同盟を組み、同時にヨーロッパ諸国とも同盟を組む。そして先手を打って攻撃する。アメリカはポーランド以上の富が期待出来る。独伊陸軍の戦略が『大陸戦』にしても、上陸作戦では英国の海軍戦力を期待出来るし、英国を介してカナダが軍事同盟参加に乗ってくれれば、カナダを拠点として陸上侵攻も可能となる。ヨーロッパ連合軍が東から侵攻、大日本帝国や英豪軍が西から攻め、米本土を制圧する――というのが最終目標だ。また、同盟締結はそれ――米国介入自体の牽制的役割を担ってくれるかもしれないからだとするのが、そのわけだった。

 「しかし英国が同盟を組むだろうか?」ムッソリーニは疑問に思った。

 「大丈夫です」伊藤は言った。「策はあります」

 「策……とは?」



 「後に英国首相となる男――を暗殺するのです」

 

 

 

 「それが“策”――か?」

 ムッソリーニは言った。「冗談を言うな。英国首相を殺害すれば、どうやっても敵対関係になるだろう。同盟締結など、一生掛かっても無理な話になるぞ」

 「えぇ……我々なら」

 伊藤のその言葉にムッソリーニは引っ掛かる所があった。

 「成程――アメリカ人を使うのか」

 伊藤は静かに頷いた。「それならば反米意識を植え付ける事も出来ましょうし、対米戦への大義名分にもなりましょう」

 「しかしその策、稚拙なものじゃないだろうな?」ムッソリーニは言った。「確かにアメリカ人に罪を擦り付けるも良いかもしれないが、それだけで対米戦になるだろうか?」

 「折は見計らっています。罪を負わせるに適任のアメリカ人も1人目星を付けています」

 「だが……」ここでヒトラーが話に入った。「アメリカは広い。それに国民も多い。強大な相手だ――一筋縄ではいかんぞ」

 「Divide.et.impera」ムッソリーニは流暢なラテン語で言った。「『分割して統治せよ』――だ。内輪で揉める種を撒いてやれば、個人主義国家アメリカも崩壊するに違いない」

  

 

 時に1936年、史実ではムッソリーニ率いるイタリア軍がエチオピア戦線で奮闘していた頃だった。今史においては1935年10月3日にイタリアは侵攻せず、ただエチオピア内部で起こる内戦を眺めるばかりであった。その内戦を創った張本人が――ムッソリーニだった。

 1935年からムッソリーニは着々とエチオピア侵攻の準備を進めるとともに、エチオピア国内に争いの種を撒いていた。エチオピアは多民族国家であり、80以上の民族から構成される。ムッソリーニはそれぞれの部族に旧式の銃器や爆弾、そして他部族によって行われた蛮行――という名の偽りの争いの種をせっせと送り込んでいた。各部族はそれぞれ報復行動に移り、7月の時点でエチオピア国内は内戦状態に突入した。

 史実、50万人のイタリア軍を相手取り、善戦したのはこれらエチオピアの現地部族達だった。最初に集まった新兵50万の多くはこの部族から構成された。だが、彼等の多くは槍や弓矢といった原始的な武器しか持たず、新たに持たされたのも旧式ライフルだった。そんな相手に7ヶ月も掛け、500名の死者を出しながらもイタリア軍は勝利した。

 そして今、部族の矛先は――部族に向けられた。複数の部族間の戦闘は約7ヶ月間続けられた。

 遂に1936年2月、イタリア軍が動き始めた。ムッソリーニはあくまでも侵攻行為ではなく、国際連盟――ヨーロッパの先進国の一員として、この凄惨な内戦に“終止符”を着けるという名目の下、エチオピアへ侵攻した。

 この頃、エチオピア正規軍は内戦の終結の為、多くの兵員を投入して失っていた。原因はどこからともなく現れた――旧式のライフル・大砲である。更に何者かによって統率され、近代的な集団戦法を用いる様になった部族もおり、それら部族のゲリラ・近代的集団戦法によって脆弱な正規軍は壊滅、既に2万人以上の戦力を誇るイタリア軍に勝つ術もなく――エチオピアは降伏した。

 ここで国際紛争化を恐れた英仏ヨーロッパ諸国は何も言わず、逆にその判断に賞賛した。史実と違い、高度な医療水準によってヨーロッパ諸国の医療難民を助けていたからだ。また、その点からイタリア軍は内戦に巻き込まれた一般民に医療を提供し、エチオピア内での信用を高めていった。ムッソリーニはエチオピア国内の内戦状態は収まる気配も無い――と告げ、『保護領』に制定する事を世界に宣言した。これにより、エチオピアは事実上のイタリア領となった。



 その後、イタリア軍が取った行動は2つだった。1つは各所防衛――各地の主な町々に常駐軍を置き、治安維持に務める事。そしてもう1つが――最も弱い部族から1つ1つ、確実に潰していく事だった。

 史実とは違い、イタリア軍はそれなりに強かった。ムッソリーニが考案する新たな軍隊育成指針――古代ローマを基本としたもの――を基盤としたからだ。それでも、実戦経験乏しいイタリア軍に対し、戦い慣れした数十の部族に個々に分けて兵を送るのは危険過ぎた。ムッソリーニは、確実に、そして大人数をもって1つ1つ弱い部族から消していき、全体の脅威を取り払った。地道なものだったが、最終的にはイタリア軍全体の士気や経験を上げるのに大いに役立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

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