第24話 帝機関(前)
第24話『帝機関(前)』
1939年9月1日
東京府/下谷区
雲一つない空の下、濃い青色の不忍池の水を湛える池面を、伊藤は見つめていた。その間も車は走り、上野恩賜公園の景色が後ろへ後ろへと飛んでいく。やがてついに上野恩賜公園の丘の上に、知識人が集う瀟洒な煉瓦の建物が見えてきた。『上野公園』で親しまれ、戦時にも予定通り開館を続けた唯一無二の国立図書館――『帝国図書館』である。道はほどなく孤を描き、穢れ無き蒼空が右手を覆い尽くす中、車は帝国図書館の敷地内へと入って行った。
9月とはいえ1日過ぎたのみにならず、夏はまだ健在だった。日差しがじりじり照り付け、日傘を差した貴婦人や帽を被った紳士達が冷所を求めて館内に急ぐ。
しかし、東京市内の都市化が進む中心地に比べれば、ここの方が涼しい。舗装道路ではなく広壮な緑の海に囲まれ、コンクリート建築物群に代わって手入れの行き届いた、それでもって風通しの良い森に守られている。樹木はどれも幹が太くて逞しい。木々が連なり築かれた影の道を辿り、角を曲がると、目の前に玄関が現れた。伊藤はそこに入った。
館内入口ホール。受付口に伊藤は歩み寄り、専用のカード――を提示して見せた。すると受付に座る職員の顔が険しくなった。
「硬くならんでいい」と伊藤は言い、図書館の奥へと足を踏み入れた。帝国図書館は鉄骨補強の煉瓦造り、地下1階地上4階建ての規模を誇る。それでもアメリカ議会図書館や大英図書館に比べれば小さいものだった。当初計画では東洋一の大図書館――となる筈であったものの、現実は日露戦争・関東大震災と災難の捌け口となり、予算削減はもとより施設破損に至り、蔵書や資料の収集より建物の復興・増築に金を充てる方が先決であった。
伊藤はそんな面の問題を強く感じつつ、地下1階へと降り立っていた。開放的な館内入口ホールや閲覧室の明るいイメージとは裏腹に、地下は本当に味気がない。辺りには古びたカビ臭いにおいが漂い、微かな刺激臭も混じってくる。通路には所狭しと蔵書の山が積まれている。
地下1階、牢獄と書斎を足して2で割った様な比較的大きな規模の書庫室の一角に『帝機関』本部は存在した。帝機関は天皇直属の諜報機関であり、陸海軍共同の組織だった。しかし、世界でも類を見ない程に仲の悪かった両者が手と手を取り合って仲良く出来る筈もなく、設立当初から「1年も持たない」と陰口が囁かれ、挙句の果てには“いつ潰れるか”――という賭けの対象にさえなる始末だった。しかし事態は上手く行っていた。
陸海軍はやはり別れていた。共同組織である筈なのに、当本部室内では陸海ごとに部署の様に場所が分けられ、暗黙の了解の様に両者は『協力』――という言葉を発すとも実行はしなかった。しかし双方には『大和会』色の強い関係者達が有力者として入っており、海軍側は実質『大和会』の手駒――といえるほどに恭順していた。
一方、陸軍側は――辻政信の指揮下にあった。この頃、『ノモンハン事件』で侵攻を図ってきたソ連軍を撃退した辻は、戦線の拡大化を望んだ関東軍内にしてみれば嫌われ者だったが、不拡大化・早期解決を望んでいた陸軍中央部では強く支持されていた。その結果、辻は関東軍から急遽中枢となる同機関へと異動となった。
これを左遷――とみるか否かは重要ではなかった。要は『帝機関』が比較的スムーズに『大和会』の意志によって動き易くなったという事実が存在する事にあった。『大和会』には歴史改変――という一大事業もあったし、その中に含まれる『大いなる陰謀』という目論みもあった。
伊藤の前には、1人のドイツ人が座っていた。
名をエヴァルト・オイゲン・ルートヴィヒ・シュミットというそのドイツ人は、常に肩を怒らせた男だった。階級は少佐。しかしながら、特務機関に属している事、第三帝国総統ヒトラーの手によって直々に特派された事が影響しているのか、1階級は上の筈の陸海中佐でさえ、一端の兵の様に上目使いで接していた。
「何故図書館に諜報機関の本部を置いたのです?」シュミットは肩を怒らせ、疑念に満ちた表情を浮かべながら流暢な日本語で言った。「貴方は余程の本好きか――」
「馬鹿……か?」
伊藤は言った。「元々、一般客は地下への立ち入りを禁じられてる」伊藤は更に続けた。「この施設には予算が足りない。隠密下でこの組織を成立させる為には、正規の予算編成として『帝国図書館用の増築・補強・蔵書購入予算』で計上しておけば良い隠れ蓑になる」
「しかし、突然の予算増額は目立つと思いますが?」
「それはない」伊藤は言った。「東京各地が同じ事だからな。体裁を保つ為、インフラ整備の為、老朽化の進む建物は軒並み改築され、道という道は舗装されている。まぁ、戦時に使用される恐れがあるとして鉄道や空港の建設事業は見張られるかもしれん」伊藤はかぶりを振った。「だが、図書館を米英の諜報機関が監視の対象にすると思うかね?答えは勿論――Noだ」
これには合理的面と同時に、帝国から1人でも多くの文豪や秀才を誕生させたい――と願う伊藤の願いも込められていた。当初計画の3分の1のみが完成したのみの帝国図書館は、そのままでも瀟洒で豪勢な建築物と言える。しかし老朽化著しく、増築を館長は望んでいた。伊藤は戦時中も空襲の被害を受けず、尚且つ金欠だったこの図書館を『帝機関』本部として使う事を提案し、合意させた。諜報機関用の予算の一部を増築費用として回す代わりに、地下1階を丸ごと『帝機関』本部として使用する権利を館長に要請した。館長はそれに同意し、機密漏洩禁止の書類にサインをした。
「成程」シュミットは唸りつつ頷いた。
「それよりもだ少佐」伊藤は言った。「何故君が階級上の人間を従えられるのかが聞きたいものだ。上司をこき使えるのは男の夢の1つだからね」
シュミットは鼻で笑った。「私がここにいる権利がある様に振る舞えば、彼等は対して深くも考えずにそれを当然のように受け入れるんですよ。自信と多少の意志疎通、そしてある程度の肩書きがあれば誰でもやれる事だと思いますがね」
血と鉄によって築かれていく第三帝国は9月1日の今日、ポーランドに対して戦争を仕掛ける筈だった。しかし歴史は改変され、運命の歯車は既に大きく変わっていた。
時に1939年1月、『帝機関』はまだ産声を上げたばかりの頃だった。第三帝国総統、アドルフ・ヒトラーは帝国海軍によって隠密下の秘密会談に招かれた。彼はその場に居合わせたもう1人の男――ベニート・ムッソリーニとともに、未来の旅人――伊藤整一と対面する事になった。
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