第22話 ノモンハン事件(後)
第22話『ノモンハン事件(後)』
1939年5月30日
5分ある。パニックを起こしてもいいし、この時間を有効に使ってもいい。
満蒙国境上空、ソ連空軍は3日前の航空撃滅戦において、壊滅を喫した第22戦闘機連隊と国境を巡る陸戦の経過を受け、大規模な戦闘機編隊を満蒙国境上空に送り込んだ。午前8時頃に哨戒を行っていた九七式司令部偵察機が1機撃墜され、ハイラル飛行場に連絡が届けられた。そして急遽、飛行場に配備されていた帝国海軍特別第零航空隊――通称『特零空』が迎撃に向かった。
先任搭乗員、篠原准尉が迎撃の任に着いたのは、いつも通りに当直の国境防空任務を遂行しようとした直後の事だった。F6F『ヘルキャット』に滑り込む様に乗り込んだちょうどその時、飛行場の向かい側で慌しい動きがあった。管制塔や本部舎から警報が鳴り響き、数人の男達が姿を見せたのだ。特零空副長の斉藤正久海軍中佐が先頭に立ち、フライトスーツの男達が後に続いてくる。
「篠原准尉、一仕事頼む」斉藤は告げ、F6Fの重厚な機体を叩いた。
プラット・アンド・ホイットニー社製R-2800『ダブルワスプ』エンジンが息を吹き返し、唸りを上げ始めた。一瞬、前方で離陸作業を進めていた零戦がF6Fに迫るが、急なUターンをして加速し、1本の滑走路を駆けて飛び去った。この滑走路を目指して、四方八方からエンジンの咆哮が集まった。
篠原はF6Fの操縦席に対する若干の不満を、胸の中で愚痴ていた。F6Fは操縦性に優れ、防弾性にも長けた優秀機だが、機体自体は典型的なアメリカ人向けに造ってある。アメリカ人にとって零戦の操縦席が狭かったのに対し、日本人にとってF6Fの操縦席は広かったのだ。ただ、何と言おうが生存性・高速性・攻撃性において九七式戦闘機に圧勝するF6Fは捨て難い。
F6Fが浮き上がり、篠原は深く座席に身を沈めた。これで逃げ道は無くなった。
篠原のF6Fがハイラル飛行場を飛び立ち、花田航空兵曹長とF4F『ワイルドキャット』が後に続いた。両者は空中にて集結し、ロッテ編隊を組んだ。ロッテ戦法では2機1組で1分隊だ。
両者が並べば、その差がよく分かった。1回りほど大きな機影がF6F。その隣の、F6Fと並べば子供の様に見える機影がF4Fである。双方は800馬力の差、時速100km近い最高速度の差、追加油槽や増槽から来る1000km以上の航続距離の差等、性能に圧倒的な差があった。その全ての面が太平洋戦争中期でF6Fを優位に立たせる要因となった。
篠原は防弾フロントガラス越しに向かう先を見ていた。満蒙国境上の空を戦闘機が取り囲み、蟻の様に点々と群っている。ソ連空軍のI-153戦闘機とI-16戦闘機だ。数は総勢48機。3日前の国境上空の戦いでは、相手の数は44機だったので、左程驚きはしなかった。急遽迎撃に向かった特零空も、2個中隊――計25機を上げていたし、篠原は以前の初戦で計9機の敵戦闘機を撃墜した経歴を持っていた。その内訳はI-153が4機、I-16が5機と、同等の全金属製戦闘機I-16の方が多い。
しかし篠原は知らなかっただろうが、相手は3日前の様な低錬度のパイロットではなかった。ソ連本国より送り込まれた精鋭――スペイン内戦時、ドイツ空軍を相手にスペイン上空を駆っていたベテランパイロット達だったのだ。その精鋭48名が篠原や花田達ルーキーに迫り来ていた。
空域に着くと、篠原とF6F。花田とF4Fのロッテ編隊は同中隊の機とともに、満蒙国境上を通過しようと群っている敵編隊の中に飛び込んだ。
1メートルも行かない内に、篠原の人差し指は空いた操縦桿の機銃発射ボタンを強く押し込んでいた。操縦桿に備え付けられた機銃発射ボタンはトリガー式で、零戦や一式戦闘機『隼』の様にスロットルレバーには付いていない。鹵獲機の与えられた有望株は、操縦時の細かな弊害を気にせず、安易な機銃発射操作を可能としているのである。また、装弾量豊富且つ強力なブローニング50口径12.7mm機銃も、防弾板に守られたI-16を狩るには、やはり7.7mm機銃よりは良かった。
12.7mm機銃6門が火を噴き、I-16戦闘機1機が撃墜された。無論、賞賛は上がらない。辺りを見回してみたが、誰も1機撃墜の事など気にかけていない様だった。今は眼前に迫る敵機47機の排除に全身全霊を尽くさなければならない。ただ、F4Fを駆る花田が風防越しに笑みを投げてよこし、お返しとばかりにI-153戦闘機1機に12.7mm機銃弾を叩き込んだ。
I-153戦闘機が錐揉みしながら堕ちて行く中、戦闘は激化の一途を辿っていた。制空権奪取戦が繰り広げられる中、ハルハ河を敵の装甲車両群が渡河し始めていたのだ。ソ連軍のBA-6、BA-10中装甲車は装甲車両ながらも46口径45mm対戦車砲を1門装備している。河を防衛するM4中戦車は敵戦の存在に後退命令がなされ、今は貧弱な九五式軽戦車が防御の要という状況だった。
事態が憂慮される中、SBD『ドーントレス』艦上爆撃機と九六式陸上攻撃機、帝国陸軍の九八式軽爆撃機が飛び立った。陸軍の九八式は、本来1937年に初飛行する筈であった『九七式軽爆撃機』であった。九七式は海軍筋の情報で機体改良がなされ、後の九九式軽爆撃機と同等の性能を有するまでになっていた。
渡河に入る中、篠原は眼前に群るI-153、I-16を睨み付けながら、下を見下ろした。本来の任務では敵の侵攻に備え50kg爆弾を備え付けていたが、突然の敵機襲来によって廃棄処分とせざるを得なくなった。戦闘空域に向かうまでの間に、篠原は重荷となっていた50kg爆弾を満州の荒野に投棄して、この戦場に赴いていた。
『爆撃機到着までに何としてでも制空権を回復せよ!』
特零空第一中隊飛行長淵田美津雄少佐は無線越しに告げた。篠原は未だ残る数十もの敵影を見て反論しようと思ったが、首を振り、ちらっと花田の方に目を向けた。F4Fの重厚な機体が空を優雅に舞い、12.7mm機銃から形成された鋼鉄のシャワーが“究極の複葉機”I-153の脆弱な翼を撃ち抜いた。およそ1939年の空戦には似つかわしくないI-153は翼を砕かれ、螺旋を描きながら徐々に地上へと落ちていった。これを見て、篠原は完全に口を閉じた。
篠原が駆るF6Fは敵味方入り乱れる空域を突っ切っていくと、階段を駆け上る様に螺旋を描きながら、I-16の後ろに張り付いた。銃口からはまだ12.7mm機銃弾が飛び出していない。トリガーを握り押し込むと、それは音叉の様に振動した。銃弾がI-16の機体に降り注ぐ。
しかしI-16と不屈のパイロットは左へ急旋回し、逃げた。
篠原は口笛を立て、攻撃を脱したソ連空軍のパイロットに敬意を払った。前方に躍り出てきたI-153に向かって12.7mm機銃弾を撃ち放つと、体勢を立て直すあのI-16に向き直って頷いた。相手は好戦的に挑発の意を見せてきている。
篠原は挑戦を受けて立った。相手のソ連空軍パイロットの方も、篠原准尉――『東洋のリヒトホーフェン』とF6Fに尻込みせず、本気でぶつかろうと意気込んでいた。
篠原はI-16の方を見た。頭の中で鐘が鳴り始めた。警告なのか、チャンスなのか、意味は分からない。さっと風が流れ、I-16の重い機体が見えてきた。旋回性はF6Fの方が優勢だ。篠原はゆっくりと顔を振り向け、I-16の機体目掛けて12.7mm機銃弾を浴びせ掛けた。
するとまた、突然にI-16が急降下した。重武装と急降下性がI-16の売りだ。コックピット目掛けてM2重機関銃が咆哮するが、I-16コックピットには、座席後方に更なる防弾板を取り付ける――という応急改造が施されていた。当初の高い防弾性に加え、それが補助的役割を担った。しかし、次善策だった事は否めず、12.7mm機銃弾の前には貫通するのも時間の問題だった。
すると、I-16の機体にパッと閃光が煌めいた。やがて機体は火を噴き、不気味で濃密な黒い尾を曳き始めた。I-16を押し返す風の音は、まるで苦悶に呻くパイロットの魂の声の様に聞こえた。
これで終わった。
篠原は振り返ってそこを離れようとしたが、I-16が突然急上昇を始めた。機体は引き起こされ、V字状に戦闘へと立ち戻った。血に紅く染まった風防と執念の表情を見せる血塗れのパイロットを見て、篠原は悪寒を覚えずにはいられなかった。
「終わらせてやる!」篠原は鼻を鳴らして言った。F6Fは急旋回して、I-16の前に進み出た。トリガー式機銃発射ボタンにぴたりと指が添えられ、6門の砲が発射の準備を待つ。
篠原はI-16を掃射した。ソ連空軍パイロットの肩部を12.7mm機銃弾が貫き、鋼鉄の防弾板に当たった。鋼と鋼が擦れ合って悲鳴を上げる。パイロットは素早く操縦桿を操り、I-16はF6Fを離れて飛んで行った。きりきりと旋回し、陽光に煌めきながら。いよいよ火の手は機体全体を飲み込み、錐揉みを始めた。下方に居た日ソ両軍機は驚いた小鳥か何かの様にさっと二手に分かれ、飛び去った。
I-16と突風はなおも、苦悶に呻くパイロットの魂の声が如き音を発していた。
戦闘終結はそれから10分も経たない内の事だった。ソ連空軍側は40機以上の損失を出し、辛くも撤退を開始した。一方、日本側は5機と少ない被害であった。制空権は日本側に委ねられ、爆撃機の到着とともに渡河を目論む部隊は駆逐された。
1939年8月3日。外交努力と戦果の甲斐もあって、『ノモンハン事件』は早期に終結した。この日までにソ連軍は数百両の装甲車、数百門の砲、そして1000名以上の死傷者を記録した。特に甚大なのは航空機で、少なくとも200機近くは失われたとされる。事件の早期終結は、このソ連空軍側の多大な航空機の損害が関わっている事は、言うまでもない事実であった。
同戦役において、篠原准尉が挙げた戦果は史実の撃墜数58機を上回る――71機であった。花田航空兵曹長は53機である。外交・事件における最終局面となった7月のソ連空軍の起こした制空権奪回作戦では、篠原は1日に計13機の敵戦闘機を撃墜し、史実でのエーリヒ・A・ハルトマンの記録12機を上回る、驚異的戦果を打ち立てた。この戦果が日本と世界に与える衝撃は強かった。日本国民にとっての英雄となり、同時にソ連人民にとっての悪党となった。
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