第21話 ノモンハン事件(中)
第21話『ノモンハン事件(中)』
1939年5月27日
満蒙国境上空、高度4000mの高みを駆る戦闘機編隊の正体は、帝国海軍特別第零航空隊――通称『特零空』の面々だった。その日の朝、特零司令有馬正文海軍大佐と乱入した辻政信陸軍少佐の訓示を受け、篠原准尉を始めとする特零空の一同は空に上がった。
特零空はとにかく機種が多種多様。様々な鹵獲機から、帝国陸海軍の新型機。旧式機によって揃えられた寄せ集めの様な航空部隊だった。主力を担うのは――零式艦上戦闘機二一型。防弾設備乏しい危険且つ老朽化著しい機体だった為、これは新規育成の搭乗員達に配備された。次に五二型、そしてF4F。最後に、精鋭パイロット達には2000馬力の怪物、F6F『ヘルキャット』が進呈された。
但し、F6Fは極端に数が少ない。『ノモンハン事件』当時の優良稼働機数は5機であり、これが篠原や坂井三郎二等航空兵曹といった、後のエース達に優先的に配備される事となった。更に後期には、特零空は『統合戦略航空団』と改名され、特別精鋭航空隊が編成されると、噴進戦闘機『橘花』等がエースパイロット達に優先的に配備される様になった。
Me262を基に開発された橘花だが、1939年5月の時点では既に中島飛行機の開発の元、機体自体は完成していた。エンジンとなる『ネ20』はまだだが、今年1月に行われた『ヒトラーとの会談』の中で、その複製設計図がヒトラーによってドイツに持ち帰られている。この会談は海軍主導の秘密会談で、『日独伊三国同盟』に代わる『日独伊三国科学・技術協定』が結ばれていた。これにより、最初にドイツ側に与えられたネ20の設計図を基に、BMW社は史実よりも格段に早く『BMW003』ターボジェットエンジンの開発・実用化に漕ぎ着けた。また、メッサーシュミット社はMe262の早期開発を総統命令として告げられ、史実より2~3年は速く生産を開始出来た。
ネ20設計図到来の余波はそれに終わらなかった。帝国海軍側はBMW003を基とした『革新的ジェット航空機』の構想を打ち立てる様、ヒトラーに進言し、彼はそれに従った。『新生ジェット機空軍構想』なる一大構想を空軍に下命したのである。
『新生ジェット機空軍構想』とは、ドイツ空軍の全航空機を1960年までにジェット航空機に代替し、新世代の先駆けになる――という構想だった。これを実現する為、ヒトラーとゲーリング主導の下、主要航空機メーカー、一般設計技師達に『革新的ジェット航空機』の設計・開発案を出させ、採用されれば空軍によって全面的にバックアップする事を約束した。
構想において具体的に採用されたのは3機種――Me262・Ho229・Ta183だった。1番に選ばれたMe262は、メッサーシュミット社製の機体で、噴戦『橘花』の元となった戦闘機でもあった。ナチスと繋がりの深いメッサーシュミット社が空軍に優遇された事もあるし、今回の採用に『橘花』設計技師であり『大和会』の一員たる山崎功治が関わっていた事もあった。『ネ20』設計図を与える際、帝国海軍側は『革新的ジェット航空機』誕生の際には、一つ残らず日本側に資料・技術者・多少の原材料を送る様、条件として付け加え、更にその中で『橘花』設計技師の助言を反映する様にも告げていた。『橘花』を息子の様に思う山崎にしてみれば、親に当たるMe262の採用助言は当然だったと言える。
2番目に選ばれたのは、Ho229だった。1943年、ドイツホルテン兄弟によって提案されたHo229は、ジェットエンジンを動力とする全翼機であった。それまでに、ホルテン兄弟は1933年には全翼型グライダー、H-Ⅰを飛ばしていたし、その後も無尾翼機で先駆け的位置に居たアレクサンダー・M・リピッシュ博士――ロケット迎撃戦闘機Me163やデルタ翼機の開発者でもある――の薫陶を受け、1936年~1938年の間にH-Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴを誕生させていた。
Ho229の特出すべき点は、高度なステルス性だった。また、アルミニウムといった戦略物資を多用しない様にと配慮されており、1tの爆弾搭載量を誇った。
最後に、採用が決まったのが――Ta183である。フォッケウルフ社製のTa183は、同社の設計部門責任者クルト・タンク博士の設計の下、完成した。
同機開発のきっかけは1939年8月27日。ハインケル社が世界初のターボジェット推進機He178が初飛行に成功した所から始まる。その時点で、ヒトラーはジェット推進の『革新的航空機構想』を各航空機メーカーに伝えていた。ハインケル社はこれをもって1点リードしたと意気込み、これにフォッケウルフ社は危機感を抱いていた。実際の所、ナチスからのハインケル社への風当りは冷たく、戦闘機として一応は採用される事となった同機の発展機『He280』も、試作のみに留まった。フォッケウルフ社はタンクに新世代のジェット戦闘機の設計を促した。こうして完成したのがTa183である。
Ta183は40度の後退翼を持ち、機首に空気取り入れ口があり、ジェットエンジンを胴体後部に収納する新世代の革新的ジェット機であった。同機の機体設計図に感銘を受けた山崎技師は、帝国海軍初の『艦載ジェット戦闘機』の主力候補に挙げ、後に開発が開始される事となる。
話は戻り、満蒙国境上空高度4000m。帝国海軍特別第零航空隊に所属する先任搭乗員の篠原准尉――後の『東洋のリヒトホーフェン』――と相棒を組む花田富男航空兵曹長は、残りの僚機2機とシュヴァルム編隊を組み、ソ連空軍に立ち向かおうとしていた。篠原が駆るはF6F『ヘルキャット』で、花田に与えられた機体はF4F『ワイルドキャット』艦上戦闘機だった。
グラマン社の『猫一族』の嚆矢、太平洋戦争前期には零戦に屠られた苦い経験を持つF4Fだが、『グラマン鉄工所製』の渾名に由来するその頑丈な機体は、驚異的な防弾性を発揮した。零戦の主要兵装たる7.7mm機銃は何の意味も成さず、また強力な破壊力を誇る20mm機銃も命中精度の低さと装弾数の少なさが足を引っ張った。ジョン・S・サッチの『サッチウィーブ』戦法や、F6Fの実戦配備が進むにつれ、その生存率は更に向上していった。
速度性能・上昇性能・機動性能では零戦に劣っていたF4Fだが、今は1939年である。鹵獲機たるF4Fに対し、宿敵の零戦は友軍機であり、ノモンハン上空を飛ぶ敵機はI-153、I-16であった。I-153は最高速度366kmを誇る『究極の複葉戦闘機』である。一方のI-16は同じ土俵となる単葉戦闘機だが、ノモンハン事件時に投入された新型でも最高速度は464kmと、500kmを超え、その他多くの性能面でF4FはI-16に勝っていた。
特に大きかったのは、F4F標準搭載の50口径12.7mm機銃である。4門搭載型(各銃装弾数計450発)と6門型(各銃装弾数計240発)があるが、これは九七式戦闘機の7.7mm機銃2門の火力を遥かに上回る。一方のI-16は7.62mm機銃4門に加え、強靭な防弾板を積んでいた。これで7.7mm機銃を防げたかと言うとそうでもないが、九七式を駆るパイロットは火力の低さを嘆いていた。
これらF4Fの大火力と防御性能から、花田は『要塞花田』の渾名を冠する事となる。
戦闘開始は午前11時ちょうど、ソ連空軍第22戦闘機連隊が姿を見せ、特零空第一、第二中隊の戦闘機編隊は速度を上げた。敵機の数はI-16戦闘機32機、I-153戦闘機12機の計44機。対する特零空はF6F艦上戦闘機3機、F4F艦上戦闘機6機、FU4艦上戦闘機3機、零式艦上戦闘機10機、九七式戦闘機2機の計26機。数では半数以上も敵側に劣るかもしれないが、パイロットの技量と増強された防弾性能、そして機体の潜在能力を考慮すれば18機の差などハンデにもならなかった。空戦前、特零空第一中隊飛行長の淵田美津雄少佐――『トラトラトラ』で知られる真珠湾攻撃の立役者――は、実戦では初めての指示を出した。『撃ち尽くせ!!』
篠原と花田は僚機とともにシュヴァルム編隊を組み、特零空2個中隊は唸りを上げて敵編隊に襲い掛かった。1941年6月に大日本帝国陸軍に伝えられるロッテ戦法、そしてシュヴァルム戦法だが、既にこの時点で『大和会』協力の下、特零空は確立していた。
篠原も所属する第一中隊が先に応射を浴びた。だが、敵の弾はまばらに飛んで来るだけだった。篠原の搭乗するF6F『ヘルキャット』戦闘機には、命中精度の比較的高い照準器が備え付けられており、すぐに目標の中心を撃ち抜く事が出来た。I-153――『究極の複葉戦闘機』はたちまち炎に包まれ、黒焦げになって満蒙国境地域の草原に墜落した。
その頃、ハルハ河を越えた第11戦車旅団所属の機械化狙撃大隊は、BA-6中装甲車を次々とあしらっていく敵の新型戦車の前に、酷く苦戦していた。帝国陸軍新型戦車と勘違いするそれが、M4『シャーマン』中戦車である事はソ連軍は知る由も無かった。BA-6は装甲車ながら、46口径45mm対戦車砲という強力な砲を搭載した車両だった。しかし、75~76.2mm戦車砲を搭載するM4に遠く及ぶ筈も無い。M3『スチュワート』軽戦車にしても同じ事だった。背後には強力な75mm、105mm榴弾砲陣地が築かれ、進撃を望むソ連・モンゴル軍部隊を阻んだ。
また、前線の歩兵には火炎瓶の他、試製の携行式対戦車砲が与えられた。
無名のI-153パイロットが頭を仰け反らせ、血の様に真っ赤な炎に焼き尽くされながら堕ちて行く時、篠原准尉は実戦初の戦果に大いに喜んでいた。続いてやってきたI-153も12.7mm機銃6門の前に沈黙し、撃墜された。
しかし特零空の一員に、敵機撃墜を喜ぶ暇は与えられなかった。I-16戦闘機2機が急降下攻撃で同隊の九七式戦闘機1機を撃墜、飛び去ろうとしていた。
篠原は僚機を連れ、敵機の追撃・殲滅に打って出た。同部隊にはF4Fを駆る花田航空兵曹長。零式艦上戦闘機二一型を駆る無名のパイロット。そして、もう1機のF6Fと、それを駆る坂井三郎が居た。
『天空のサムライ』――後の帝国海軍のエース・パイロットになる男、坂井三郎はこの時、二等航空兵曹だった。編隊長にして准尉の篠原が上位に当たる。篠原は坂井を連れ、I-16の追撃を行った。I-16戦闘機2機に到達した後、篠原と坂井はドッグファイトに移った。当然ながら、F6FはI-16よりも旋回性・速度性に勝る。また、12.7mm機銃は直進性に優れていた。I-16は12.7mm弾の鋼鉄の洗礼を浴びせ掛けられ、成す術も無く撃墜されるしかなかった。
5月27日付の当空戦における両陣営の最終的な戦闘機喪失数は、日本側4機に対し、ソ連側32機という圧倒的な数値だった。(ただ、ノモンハンの地形の問題や、ガン・カメラの普及も進んでいなかったという結果を踏まえれば、その数値は定かではなかった)実にソ連空軍の戦闘機喪失数は、日本側の8倍に達する。当空戦の結果、第22戦闘機連隊は事実上壊滅した。
相手がI-153、I-16だったから――というのは言うまでも無かったが、特零空側も零戦二一型2機と九七式戦闘機2機を失った。パイロットの技量も左右されるかもしれないが、やはり防弾性の問題は否めなかった。事実、零戦や九七式戦闘機に搭載されていた7.7mm機銃が、I-16には中々効き難いという報告が、空戦終了後に帰還したパイロット達から告げられた。
こうして初戦を勝利で飾った帝国海軍特別第零航空隊だが、その前には40名を超えるソ連本国の精鋭パイロット達が迫っていた。
それは実に3日後、5月30日の事であった。
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