第20話 ノモンハン事件(前)
第20話『ノモンハン事件(前)』
1939年5月27日
満州国/ハイラル
朝食後、帝国陸軍の篠原弘道准尉は6年間に及ぶ飛行訓練経験の結果と可能性を問うべく、満蒙国境区域上空へと上がろうとしていた。この篠原准尉は、史実においては卓越した飛行技術と運を持ってしてソ連空軍に立ち向かった。ならば史実通り58機もの敵機を撃墜し、トップ・エースとなるに違いない――但し、8月27日には武運が尽きる所も付いてくるのだが――と考えた伊藤は、陸海軍上層部、関東軍上層部に根回しをし、彼を帝国海軍特別第零航空隊――通称『特零空』に招き入れる事を画策、実行に移した。
この“特零空”は、9年後の鹵獲航空機――『零戦』『F4F』『F6F』を基盤とする特別実験航空隊で、本来は海軍が数十機の零戦・米軍機を実用化すべく、パイロットを育成する為の仮設組織だった。後にこの組織は発展。最新鋭戦闘機、一式陸攻、超重戦略爆撃機を加えた陸海軍統合航空組織――『統合戦略航空団』として、幾多もの戦績を残していく事となる。
やがて、篠原の戦友――第十一戦隊の名パイロットや、第一、第二十四戦隊に所属パイロット達が、そこに加わった。第一、十一、二十四戦隊には、後のエースパイロット14名程が集中して存在する。この頃には、九七式戦闘機にも防弾設備が施されていたので、その数は更に増えるだろうと伊藤は予測していた。陸軍がいつもの『精神論』調子に操縦者の生存性を機体の有無ではなく、操縦者の技量によって決まる――と言わずに、海軍の話に耳を傾けてくれた事は、伊藤にとっては嬉しい兆候だった。聞く耳を持った人間がいるという事だし、ささやかな数かもしれないが、兵を1人でも多く救う一助になる。『夢幻の艦隊』や鹵獲兵器だけを供与していただけでは、帝国陸海軍の鋼鉄よりもダイアモンドよりも堅い意志を収攬する事は出来なかっただろう。
ハイラル飛行場の管理棟前の奥まった静かな一角にて、辻少佐はパイロット一同を集めていた。先日、新京の関東軍参謀司令部本部を抜け出した辻は、帝国陸軍の試製半装甲兵車――帝国陸軍版『M3ハーフトラック』――に乗り付けて、ハイラルに赴いた。これは帝国陸軍中央部が関東軍に配備させたもので、未だ生産数は微少だった。
辻は未熟な若造を相手にする様に、懇切丁寧に話をした。
「諸君!我々は帝国陸軍の勇士であり、帝国海軍の同志である」辻は特零空の隊員達に視線を向けながら言った。「日露戦争の折、死に逝き去った先人達の功績に報いよ!我々は、彼等と同等の位置、歴史上の境遇に今、そしてこれから立ち会う事になった。帝国の正義の鉄槌に改心を見せず、愚かにも不当な越境行為を侵した露助共を罰せよ!我等の前に跪き、許しを乞い、帝国の正当なる権利を認めさせるのだ」徐々に熱を帯び、拳を振り上げようとした一同を、辻は手を挙げて抑えた。「しかし、我々は『報復』という名の愚行は犯さぬ。それは陛下の大御心を否定する――人間として最悪の過ちであり、蛮行である!それを肝に銘じ、事に当って欲しい。話は以上だ」
「しかし、かの作戦参謀殿は噂に聞いた人物とは違うな」
飛行場を歩く中、篠原准尉は花田富男航空兵曹長に言った。この篠原が話す花田は、ノモンハン事件において最も際立った功績を挙げたパイロットの1人だった。去年9月、航空兵曹長に昇級したばかりである。それ以前から、花田はノモンハン事件時の最精鋭――飛行第十一戦隊に配属されていた。史実では、篠原に及ばずとも累計25機の敵機を撃墜したエース・パイロットとなる男だ。
「噂はあてにならない――という事ですよ」花田は言った。「私が見た所、辻少佐殿は優れた教養をお持ちの方だと思われます」
「まぁな。大部隊を越境させた何だと言って浮き足立つ関東軍の将校共より、御上に忠実なだけ別格と見ていいだろう」篠原は言った。「しかし臭うな」
「私ですか?」
「いやいや、そういう意味じゃないんだ」篠原は自身の飛行服を嗅ぐ花田に言った。「辻という男にこの『特零隊』だよ。海軍の鹵獲機だか新型機だか分からん『F6F』――と言ったか?あれ程の性能の機を何故俺達なんかにやるんだ?海軍航空隊に属していても、俺らは実戦経験も無い一介の『陸軍航空兵』何だぜ?なんで高尚な御海軍様が“馬糞”や“獣”如きにこんな最高の戦闘機をくれるんだ?」
その点は、花田も疑問に思っていた。陸海軍の不仲は今日1939年5月20日になっても変わってはいない。ただ、ある程度の協調性や合理的行動に価値を見出し始めた――という程度だ。親友でもなければ、辻の言う様な『同志』とも言い難い関係だった。
「深く考えなさらずに、准尉」花田は言った。「目の前の敵に集中して下さい」と、花田は言い、ハイラルの空を指差した。
篠原は静かに頷き、F6F『ヘルキャット』に掛けられたラッタルを駆け上った。
話は1週間程前、5月20日に遡る。
満州国首都、新京に置かれた関東軍参謀本部内の会議室にて、事は始まった。関東軍参謀長、磯谷中将を始めとする数名の参謀部関係者が一堂に集まり、作戦参謀を務める辻が、一連の満蒙国境間紛争――『ノモンハン事件』の経緯を語った。
「小松原中将隷下、第二十三師団は不法越境を図った外蒙古兵700名の対処の為、1個師団捜索隊、2個歩兵中隊、及び満州国軍騎兵を送り込みましたが、敵勢力とは遭遇せず。これら部隊が撤退の折、外蒙古部隊はハルハ河を越え、陣地の構築と侵攻用意に入ったと見られます」
「では、一早く反撃の用意を整えねばならん!」
そう言ったのは、関東軍作戦主任参謀の服部卓四郎中佐だ。今年3月、中佐に昇級し、作戦主任参謀となったばかりの服部は、史実では辻とともに反撃作戦の積極拡大を主張した人物である。
「しかし閣下。今回の紛争は陸軍中央部では『不拡大』の方針で一貫して決まったと聞きます。それを反対し、行動を起こしたとならば、反旗を翻したに等しい事かと――」
「内地は内地、外地は外地だ」
服部は高らかに言った。「既に100件を超える越境行為を我々関東軍は見過ごしてきている。去年の『張湖峰事件』もある。ここで露助に灸を据えやらねば更なる蛮行を許す事となるのだぞ」
1年前、約1000名の死傷者を出した『張鼓峰事件』はまだ記憶に新しかった。藤伊一中将監修、海軍側から提示されたシミュレーション報告書――とは名ばかりの預言書――の正当性が証明されて以来、服部の様な人間達は歯痒い感覚を常に抱いていた。海軍が想定し、自分達が対処し得なかった事に腹を立てた。そこで、この敗北を塗り替える圧勝を欲していたのだ。
「これは陛下の望まれる事ですぞ。どうか冷静に――」
「丸くなったな辻よ」服部は辻を見て言った。「此処で戦果を挙げれば、陛下とて我々の行った対応策の正当性に気付いてくれよう。露助共も満蒙国境に二度と立ち入らぬ事になろう。そうなれば、帝国と満州国を陥れようとする敵は根絶やしとなり、両国は永久の繁栄を約束される」
「では、閣下は陛下の大御心を否定なさるのですね?」辻は問うた。
「いや――」
「ならば口を挟まずお聞き下さい。軍中央部も、内閣も、そして陛下も……事件の『不拡大』と『防衛』に徹する様、告げております。これを反対するものは、帝国への叛逆の意志を持つ者に他なりません。しかし閣下は、そんな御方ではない」
辻は服部の顔を見据え、話を続けた。「あくまでも交戦を望まれぬなら、それも潔し。しかし、その中において陛下に忠誠を誓い続けるのであらば――此処で潔く腹を切るか、裏切り者として退室なされるがいい」辻は高らかに告げた。「しかし本職は陛下の叡慮に賛同し、事件の収拾に励む覚悟です。閣下にもぜひ、御賛同頂きたい」
そんな辻の言葉は――“魔法”を帯びていた。
ハイラルの一件もそうだが、誰もが辻に正当性と特別な権利があると錯覚するが、辻は『参謀』であり、実質的な指揮権は有していない。無論、この場――この会議においても、それは変わらない。しかし彼の言葉には不思議な魔力があった。よって多くの者は、実際には権利を有さずとも賛同し、従ったのである。
その点に関しては、伊藤も知っていた。
翌日21日
「遂に『ノモンハン事件』が始まりましたな」
場所は変わり東京府。伊藤に対し、山本は言った。
「しかし驚きました。かの辻を仲間に引き入れたとは……」
「まぁ私も最初は躊躇しましたがね」伊藤は言った。「しかし結果は良好だった様です。辻は今回の事件に際し、海軍側の保有する鹵獲輸送艦を利用し、M4・M3戦車、M3ハーフトラック、M7自走砲を満州国に送り、尚且つ零戦部隊や鹵獲機部隊をハイラルに送る様にと要請してきたのです」
「それが良い事なのですか?」山本は首を傾げて言った。「辻めは今度こそ、ノモンハンで圧勝を狙っているのではありませんか?」
伊藤はかぶりを振った。「辻は交渉の内に条件を付けてきました。『防衛』に徹し、事件の『不拡大化』を進めるから――とね」
「奴が?本当ですか?」
「信じていない様ですね?」
「無論、信じられますか」山本はキッパリと告げた。「あれは羊の皮を被った狼ですぞ。圧倒的な未来兵器の力を持って、侵略を画策しているに違いない!」
実際、当初も伊藤はそう考えていた。しかし、それは間違った考えだと結論付けていた。「ならば既に侵略を開始している頃合いかと」伊藤は言った。「だが、関東軍の筋から聞いた噂によると、辻は参謀達の前に『不拡大化』方針を熱弁し、戦線拡大派を押し黙らせたとか」
「所詮、噂に過ぎません。真偽は分からない」
「ならば辻の噂も該当する」伊藤は言った。「対米戦でも対ソ戦でも、対抗しうる国産の戦車を造るとならば、鹵獲戦車は重要な資料になる。だが、あえて辻はそれを温存しなかった」伊藤は更に続けた。「開発を進めるならば、より多くのサンプルが入る。後に失われるであろう数百万人の命を考えれば、サンプルは一つでも多く、丁重に取っておかなければならない。しかし、統計や憶測といった、無機質で冷徹な結果論よりも、眼前に生まれる1万以上の命の喪失を阻止するのを、辻は選んだのです」
「実績作りという事もあります。一概に奴を『英雄』とはいえない」山本は言った。「数百万の人命を救う事は、後の歴史では奉られる行為だろう。しかし、貴方の言う“後者”の説を選べば、今を生きる者達に支持され、奴はより高い地位に着く事が出来るのではないでしょうか?」
伊藤は頷いた。「確かに。しかし奴は未来よりも今を見据えた、昔気質の男かもしれない――と、私は雰囲気で見たのです」伊藤は言った。「雰囲気など最悪の判断材料ですがね。やはり閣下の言う通り、実績作りの為の策かもしれない」
「ならば――貴方は相当に人を見る目が無いと見える」
山本は言った。「だが、そんな方があの盧溝橋の一件を防げた筈が無い」更に山本は言った。「奴から目を離さずに。しっかりと手綱は握ったままにしておいて下さい。奴は生きが良過ぎる。いかなるでさえ、何度でも生き返る不死身の男ですからな」
「ご忠告、感謝します」伊藤はそう言い、笑みを浮かべて頷いた。
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