第174話 揺籃の冬(後)
第174話『揺籃の冬(後)』
1947年12月4日
ドイツ/ベルリン
先週にあたる11月26日、イギリスの首都ロンドンにて『英仏首脳会談』が行われ、大日本帝国はますます深刻な状況に陥りつつあった。『太平洋戦争』終結――“日米間講和”という重要な局面において、両者を取り持つ国として期待していたイギリスやフランスといったEU主要加盟国が『原爆』という脅威から警戒感を覚え、EU内での対日包囲網を着々と構築しつつあったのだ。『日独同盟』よりも『日英同盟』を最重要視する『大和会』山本派(帝国海軍派閥)はこの事態を憂慮し、英国に対する配慮として『原爆』の製造技術の提供・支援を検討し始めていた。
これは11月、中立国であるユダヤ自治共和国に対しても行ったプランであり、英国に原爆製造の技術を与えることで対日警戒を解き、『日英同盟』の強化を図る――というものであった。仮にこのプランが功を奏し、英国が対米宣戦布告などをすればそれこそこの危機的状況を逆転することさえ夢ではないだろう。大西洋方面では、海軍力で米大西洋艦隊に劣るドイツ・イタリア海軍の力不足を埋め、更にイギリス本土という対米侵攻作戦のための前線拠点を確保することが出来る。またアジア方面では、シンガポールに駐留する英海軍東洋艦隊の協力を得ることができ、スエズ運河から日本本土に至るまでのシーレーン防衛戦もより容易となってくるだろう。また植民地軍とはいえ、英軍の加勢となれば帝国陸海軍にも余裕が生まれるだろう。現在進行中の『フィリピンの戦い』や、来年開始予定の『HI作戦』でも重要な役割を担ってくれることは間違いない。
――だがしかし、そんなものは夢物語でしかなかった。『欧ソ戦争』を経験した英国世論は対米戦を望んでおらず、英政府もまた『欧ソ戦争』での国力疲弊から完全に立ち直っていない今、米国相手に戦争を仕掛けるのは愚行であるとの見解を持っていた。当面の英国の戦略は対米海軍に向けた本国艦隊の増強(新鋭空母・戦艦の配備)や、今回の騒動も含めて進行中の『原爆開発』、そしてドイツ空軍に対抗した英空軍の増強(ジェット戦闘機・長距離爆撃機の量産)であった。また植民地諸国の治安回復も重要案件であり、これらを達成しない限りは英国も参戦するのは難しかったのだ。
とはいえ、英国との同盟重視は大日本帝国を救う一種の希望である。山本五十六は『日露戦争』における勝利が『日英同盟』の賜物であると評価しており、将来的に同盟関係で不安を抱えるドイツ・イタリアと比べれば、信用に足る国ではあった。また英国はアメリカ、大日本帝国に次ぐ世界第3位の海軍を誇る海洋国家であり、対米戦に勝利すれば名実共に世界最強の『海軍同盟』誕生となる。太平洋・大西洋・インド洋・地中海といった海域での制海権の確保は、広大な植民地勢力圏を保持する日英においても非常に重要だろう。
だがあくまで今重要視すべきのは“対米戦勝利”であり、それを達成するには独伊との絶対的な協力関係が必要である、とも考えていた。今現在の米国の衰退ぶりからして、『日米講和』の可能性は史実に比べれば格段に高いだろう。しかしその講和を望んだために、それを勝ち取るための対米戦争の過程で大きな傷を負い、結果的に辛勝したが『日露戦争』よりも見返りが受け取れないともなれば、大日本帝国国民としても洒落にならないだろう。少なくとも、“賠償金”の有無で世論が激昂した『日露戦争』以上の波乱と混沌を生むのは間違いない。
そんな山本の心中を理解したのか、かの石原莞爾陸軍大将は以下の苦言を太平洋戦争中に告げている。
「対英関係を重視するあまり独伊をおざなりにして……。その結果、戦争で国滅びてその“日英の緊密化”――とやらが達成されるのですかな? イギリスの“植民地”という形で」
それは『日英同盟』を重視する山本五十六への苦言である。石原は『日露戦争』における勝利に英国の力が大いに関わっているのは評価しているが、それは単に英国だから――ではなく、英国という国家がその時代は強大であり、自国の安全保障の観点から『帝国主義』を体現する政策を取り続けていたロシアを危ぶみ、日本という交戦国を支援しただけの話である。
確かに現在の英国もEU随一の国力を誇り、『大英帝国』という名に相応しいだけの植民地領土を保持している。しかし単純な経済力・軍事力だけでいえば、ドイツの方が上回っており、少なくともこの戦争において英国の協力に拘る必要は無かったのだ。だから『日露戦争』における英国の立ち位置も、ドイツやイタリアであれ十分に補うことは可能であった。石原はそんな理由から、英国に傾倒した山本の政策を非難し、戦争状態にある当面は、現状の『日独伊同盟』を重視すべきと指摘。そのためEU内で英国と対立する独伊への配慮、そして英国に対し大日本帝国が“都合の良い駒”として認識されることを危ぶんだ石原は進行中だった英国への原爆技術の提供を中止させた。何故なら独伊とは『大和会』――という組織の存在によってほぼ対等な立場での関係を保っているが、『チェンバレン・チャーチル暗殺事件』でこの背景を持てる筈も無く、また日英間には未だ“欧州とアジア”という壁が聳え立っているからだ。これは英国のみならず独伊にも該当することであり、原爆技術の提供を中止させた一因でもある。
そしてその一方で、策士たる石原はユダヤ自治共和国――という第三国への原爆配備を推進させる。これは原子爆弾を中立国が保有することにより、米国への原爆使用の牽制を図る――という計画だったが、ユダヤ人と相容れないドイツを相手とする無茶な計画でもあった。無論、これは水面下で進められ、その日猶による協力関係は絶対に外部へと漏れないよう徹底された。特にドイツには気づかれてはいけないものだったため、ユダヤ自治共和国政府は『帝機関』による指導の下、防諜機関の設立を進めていった。
1947年12月6日、フランスのパリにてEUの緊急総会が開催される。そこで大日本帝国は現在保有している『原爆』と、それを如何なる経緯で米国に対し投下したか? という質疑応答に答えねばならない。大日本帝国――『大和会』としてはそれまでにEUでの自国の立場を優位とするためにも、他加盟国の囲い込みを進めたい所であった。特に重要視しているのは英国で、大日本帝国政府は『英仏首脳会談』の後にあたり、12月6日のEU緊急総会の5日前にあたる12月1日を目途に『日英首脳会談』の要請を英側に伝えようと考えていた。しかし英側はこれを拒絶、大日本帝国は英仏による“日本外し”の路線を垣間見ることとなった。
結局、大日本帝国はまずシベリア社会主義共和国に飛び、指導者レフ・トロツキーと『日西首脳会談』を開催することとなる。更にその後、フィンランド・ノルウェー・スウェーデンの北欧諸国との首脳会談を連続で行い、そこからオランダへと向かうこととなる。
オランダはEUでも屈指の影響力を持つ国であり、大日本帝国に“民生”――と称して“軍需品”に該当する蘭領東インドの石油資源を取引している重要な貿易国でもある。それだけに両国関係は死活問題に繋がる、ということもあり『日蘭首脳会談』は他国に比べてもより長い時間を掛けて行われている。大日本帝国首相である東久邇宮成彦王は“日蘭関係の維持”を挙げ、『原子爆弾』を単なる兵器ではなく“自衛の手段”として捉えなければならないと説明し、大日本帝国は以降他国による核攻撃を受けない限り、この兵器の使用を未来永劫禁ずると付け加えた。その東久邇宮のプレゼンテーションと、日蘭間における『技術交換協定』――原子力技術を含む――の締結が功を奏したのか、オランダ首相は日蘭間の貿易・外交関係をこれまで通りに続けることを約束したのであった。
かくして大日本帝国の抱える重要案件の一つが解決され、東久邇宮はホッと胸を撫で下ろすが、それも束の間に過ぎなかった。彼ら欧州使節団が次に向かうべき国は、“ユダヤの技術”として原子爆弾を忌み嫌う国――大日本帝国最大の同盟国であるドイツ第3帝国だったからだ。
この『日独首脳会談』の発端は、大日本帝国による原爆投下がなされた1947年11月21日。大日本帝国による『原爆投下宣言』と『原爆先制使用禁止宣言』が世界に向けて表明されて間も無く、第3帝国の中枢を担うドイツ総統官邸が置かれていたベルリンから暗号電が届いたのだ。暗号電の内容は、アドルフ・ヒトラー総統が可及的速やかに日独間の首脳陣による話し合い――『大和会』を絡めた――を行いたい、というもので、これは意外だった。ヒトラーのことであるから、怒りを前面に出した電文かと考えていたのだ。
実際、ユダヤ人とそれに関係する全ての存在を否定するヒトラーにしてみれば、今回の行為は明らかな裏切りとして受け止められても仕方が無い。当面ドイツとの関係を一定の距離に置きながらも維持させようと目論んでいた『大和会』としても、今回の表明は苦渋の決断といえる。原爆の投下と『先制使用禁止』の宣言は確かに米国の原爆使用を封じたが、同時に世界に大日本帝国の“奥の手”を晒す結果となってしまったからだ。それだけに留まればいいが、その威力を危惧した英仏のような“対日政策”への路線変更や同盟関係の危機に繋がっているだけに、今回のそれが米国の動きを封じるためとはいえ『諸刃の剣』であったのは言うまでも無かった。
いずれにせよ、このような事態に突入するのは避けられない事実でもあった。オランダにおける『日蘭首脳会談』の翌日、東久邇宮を筆頭とする欧州使節団は、政府専用機として旅客用に改造された『富嶽』でドイツの首都ベルリンに飛び、総統官邸の置かれているフォス街にドイツの来賓公用車で向かった。総統官邸に入るとSSによる持ち物検査が行われる暇も無く、すぐに総統会議室へと連れて行かれた。
「……少々手荒であったことを許してくれ」
ドイツ第3帝国の総統アドルフ・ヒトラーは、いつも通りの冷厳なアドルフ・ヒトラーだった。表情は少し強張っているが、その冷徹な眼光やむっつりとした口許は、いかにも孤高の独裁者という印象だ。感情に押し負けている様子は無かった。ヒトラーはその後、給仕を呼んで紅茶を出させ、少し早めのティータイムとして振舞った。
「……総統閣下。我々は貴国に対し、事前説明が出来なかった件について、深く謝罪をしたいと思っています」
と、東久邇宮はそんなティータイムの最中に口を開いた。表面上は平静を保っているヒトラーだが、その腸が煮えくり返っているのは間違いないだろう。米国の切り札たる『原子爆弾』を封じたとはいえ、日米間の国力差は以前として開いており、ドイツとの同盟なくして勝利は難しい。そのため、東久邇宮と『大和会』はドイツとの関係維持に全力を注ぐつもりだった。
「……案ずるな。同盟関係であれば、余は維持したいと考えている」ヒトラーはそう言い、紅茶を皿に戻した。「むしろ余は心配しておるのだ。米国が我が国――例えばこのベルリンさえも一瞬のうちに破壊する“凶悪な力”を得たことに……。この問題を解決する上では、我々の関係を維持し、更に発展させていくことが今後、対米戦略の焦点になると、余は考えている。また貴国が持つ“抑止力”が、米国による原爆攻撃を妨げ、米国の戦略を狂わせている点も余は評価している」
1947年4月以降、米東海岸戦線は膠着を続けていた。『雪原の狐』ことエルヴィン・ロンメル陸軍元帥はドイツ総統命令を基づき、“キューバ死守”を実行した結果――徹底抗戦の末に1947年7月11日、壮絶なる戦死を遂げた。“英雄”として讃えられていた彼の死はドイツだけに留まらず、世界中に衝撃を与えることとなった。ベルリンでその国葬が執り行われた際には、EU各国軍の元帥・大将が集い、追悼の意を表した。
そして彼の指揮するドイツ国防軍ドイツアメリカ(DAK)総司令官の後任には、『ヒトラーの火消し屋』ことヴァルター・モーデル陸軍元帥が抜擢される。モーデルは『欧ソ戦争』においてもソ連軍の圧倒的な人海戦術を退けた『防御戦の天才』として知られる人物だが、それだけに今回の対米侵略戦争においては勝手が違い過ぎて成果を挙げられずにいた。結局、ドイツ国防軍はロンメル元帥の死の直後に撤退命令が下され、キューバは陥落。ドイツ国防軍・イタリア軍は南米へと全面退却している。そして『米墨戦争』以降メキシコをほぼ植民地化していた米国には、米墨連合軍をメキシコ経由で南米に進出させるだけの余力が残っていた。つまり独伊軍は、米軍による侵攻をいつ受けてもおかしくない状況にあったのだ。
そんな折、突如としてカムチャッカ半島を襲った米国の『原子爆弾投下』は世界各国――当然ドイツにも衝撃を以て迎えられた。ヒトラーはこの凶悪無比な兵器をドイツに対しても使用されることを恐れ、再度の大規模な対米攻撃を国防軍総司令部に要求することとなった。そんな背景から国防軍が水面下で対米侵攻計画の見直しを急ピッチで進める中、大日本帝国によって『アラスカ原爆投下』が行われる。これも米国の原爆投下同様、世界に衝撃と波紋を巻き起こしたのである。無論、この事実にヒトラーは憤慨したが、同時にドイツ防衛と対米戦に“利用”することが出来ないか、と考えたのだ。
「少なくとも現在、米国に対抗し得る原子爆弾を保有する唯一の国は、貴国だ」ヒトラーは言った。「そして21日に表明した『先制攻撃禁止』を含めた宣言は、米国に対してその使用を躊躇させ、動きを封じたことになる。この状態を維持するためには、貴国との同盟関係強化が必要であると、余は考えている。何せ米軍はカムチャッカ半島を陥落させつつあるという話ではないかね?」
11月の『ペトロパブロフスク・カムチャツキー原爆投下』による同都市の壊滅は、結果として帝国陸軍カムチャッカ方面軍の壊滅へと繋がった。同市に設置されていたカムチャッカ方面軍総司令部が原爆の爆心地となったため、総司令官の栗林忠道大将以下、幕僚達が全員戦死し、カムチャッカ方面軍の指揮系統は崩壊した。また同市に配備されていた陸軍兵力・航空兵力の大部分が原爆投下による攻撃によって喪われ、更に“放射能汚染”という二次被害によって数万の兵士の命が喪われたのだ。この結果、帝国陸軍は翌年1月にはカムチャッカ半島から完全撤退することとなり、日本列島はいよいよ米軍による『本土侵攻』の脅威に晒されることとなったのである。
「それは我々も危惧しています」東久邇宮は言った。「しかし南方では米国の植民地フィリピンを着々と陥落させつつあり、戦局は以前として五分五分。そこに来年予定の『HI作戦』を始動させれば、米国を講和交渉のテーブルに引きずり込むことも可能なのです」
「……東久邇宮首相、貴方は米国とまだ講和する気でいるのかね……? 無駄だよ」
と、ヒトラーは少々呆れ気味に言った。「今回の戦争自体、米国が仕掛けたものだ。米国が何の成果も挙げず、このままおめおめと講和するとは思えんな……」
そのヒトラーの考えには、東久邇宮も同意さぜるを得ないのは確かだった。しかし大日本帝国も既に大きな痛手を払っており、国力差を鑑みるとこれ以上の長期戦は米国有利といえる。だからこそ短期決戦構想の核として計画されたのが『HI作戦』なのだ。
「戦争は行う以上、勝たねば話になりません」東久邇宮は言った。「しかしその“勝ち”に拘り過ぎて逆に敗北を招くのは、かの伊藤閣下が歩んできたという史実の教訓でもあるのです、総統閣下。講和もまた我々にとっては、立派な“勝利”なのですよ」
それだけ米国が強大な国家なのだ。ソ連との戦争で発展を遂げた日独伊といえど、その国力を合わせても米国に劣る部分は少なくない。そんな規定外の国家を相手取り、講和を勝ち取ったとすればそれはれっきとした“勝利”と言えるだろう。少なくとも『大和会』はそう考えていた。
1947年12月4日の『日独首脳会談』は両国の同盟関係を再確認する機会となったが、同時に『対米戦争』における両国の認識の違いを如実に表す場ともなった。大日本帝国が短期的電撃作戦による“講和解決路線”で向かうのに対し、ドイツ第3帝国は徹底的な対米侵攻作戦を始めとする“強硬な対米交戦姿勢”を貫く決意を見せた。それは大日本帝国による原爆投下以降、にわかに生じ始めた日独間の亀裂の始まりであり、全てはここから進行していくのだ。
「――今回はまさに実りある会談であった」
そう締め括るヒトラー。それに対し、東久邇宮は握手で返した。
「私もそう思います」
「うむ。しかし時に貴方は“原爆”とは『自衛の手段』であると主張していましたな?」
東久邇宮は表情を曇らせながらも、頷いて答えた。
「ええ、それが?」
「……いや、余もそれが正しい使い道であると考えておる。で、あるからこそ、我がドイツも貴国の姿勢に則って、『原爆開発』にドイツの総力を注いでいこうと考えておるのだ」
ドイツの核兵器保有――それは『大和会』が最も危惧する事態だった。これまで『ユダヤの技術』として冷遇されてきた原爆研究・開発が国家規模で動けば、技術水準でEU随一を誇るドイツならばそれほど時間を掛けずに完成させることも可能だろう。
実際、『原爆開発』は開発国の国力に合わせてその計画に費やす時間も変わってくる。1937年から秘密裡に始まった大日本帝国の原爆開発は、結果として約9年の歳月を掛けて完成した。それは技術力・資金力の面で大日本帝国が劣っていたが故の長大な開発期間であった。その一方、多くの面で大日本帝国を上回る米国は、史実から1年程の遅れはあったものの、約4年で原爆を完成させ、世界で初めて実戦投下に成功させている。これは米国の圧倒的な国力の賜物であると言わざるを得ない。その点で、今やイギリスさえも追い抜き、世界第2位の国力を有するまでに成長したドイツであれば原爆製造はおろか、その開発期間も米国に相当する短期間に抑えて完成させるのも可能だろう。そうなれば核開発に一早く取り組み、世界初の核保有国として優位に立つ大日本帝国の立ち位置も失われてしまうことになる。そして、そんな大日本帝国の努力を無駄に終わらせないためには、米国は除いたとしてもそれ以外の核保有国を圧倒する量の核兵器を製造し、維持しなければならなくなる。
実の所、『大和会』が危惧するのはその点だった。空母の運用同様、原爆もまた製造・維持に莫大な金を費やす。そんな代物を少なくとも米国に次ぐ数だけ保有するというのは、根っからの無資源国家である大日本帝国には荷が重過ぎる話だったのだ。原爆製造に傾注した結果、陸海軍に分配すべき予算が無くなってしまった――ではまさしく洒落にならない訳である。
――かくして1947年、日米の原爆投下を背景とする世界各国の核開発競争は激化の一途を見せ始めていた。イギリス・フランスによる共同原爆開発、ドイツによる国家計画としての原爆開発に加えてオランダ、イタリア、シベリア社会主義共和国、ユダヤ自治共和国等の国々もまた、共同や独力での原爆開発に乗り出し始めたのである。




