第16話 東條の懐刀(前)
第16話『東條の懐刀(前)』
1938年12月20日
東京府/麻布区
これから5ヶ月と12日ほど後の1939年5月11日に、かの有名な『ノモンハン事件』は勃発した。この事件に軍中央部は終始一貫して、不拡大・局地解決の方針を取るが、満州国――現地での絶対的権限を振るった関東軍という存在の為に、1万を超える死傷者を出し、近代戦の要たる重砲、戦車、航空機の多数を喪失する事となった。これらの犠牲拡大の一環には、藤伊邸に現れ、主の前に座る一人の陸軍参謀――辻政信の行動が大きく関わっていたのは、言うまでもない事実であった。
辻少佐は史実に近い形で、関東軍参謀部に席を置いていた。陸軍参謀本部時代、課長の東條英機大佐――後の大日本帝国総理大臣――に従い、士官学校の生徒隊中隊に任命された。そこで彼は本性を露とし、士官候補生をスパイに用いて叛乱分子のクーデター計画を阻止した。いわゆる『陸軍士官学校事件』である。その後、盧溝橋事件が未然に防がれ、対支戦が行われなくなった為、北支那方面軍は結成されなかったものの、史実通りに辻は関東軍作戦参謀の職に至った。
『盧溝橋事件』の折、辻は事件収束の裏に今村均少将が関わっている事を牟田口や一木の筋から聞く所となった。今村は当時、関東軍副参謀長であり、辻の上司に当たる。そして主君と言える東條中将が、その上に位置する参謀長であった。今村の謎の行動に疑問を抱いた辻は、東條と連絡を取り、秘匿任務として事実関係を調査し始めた。
足取りを掴むのは簡単だった。事件前日、1機の九六式陸上攻撃機が内地から満州国へと降り立っていた。搭乗者のリストには今村の親友にして日独間同盟の反対派、山本五十六中将と――“藤伊”、ただ苗字のみ書かれた一人の乗客の名があった。この二人が今村に接触したと思われた。付近の筋からの情報では、今村は二人と面談を済ませた後、物想いに耽って軍務も身につかない状態だったという。辻の調査はそこで行き止まり、東條への報告書には『海軍の謀略』との見解が記された。面目を施した辻はその成功故に、関東軍作戦参謀に任命された。
1938年3月、少佐に昇格した辻は、新京に置かれた関東軍参謀部本部内において、一冊の奇妙な報告書を受け取った。海軍の正式なレターヘッドと、責任者蘭の“藤伊一”中将の名を見て、差出人が競合相手――即ち帝国海軍だと、一目で分かった。
題名は『昭和十三年ニ於ケル張鼓峰ノ防衛態勢ヘノ意見具申』と言うものだった。内容は海軍纏めとする、張鼓峰地域に対するソ連赤軍の侵略行為をシミュレーションした――というもので、最終的な大日本帝国朝鮮軍側死傷者が1000人超という、日露・シベリア出兵の経験からソ連赤軍を過小評価するのが常識的だった帝国陸軍側にしてみれば、誤りだらけの誇大妄想評価と言わしめる内容だった。一蹴するのが常識だった。そして、戦力強化も何もなされなかった。無論、帝国陸軍の強さを信じていた辻も、海軍の戯言だと思っていた。
しかし、8月に入ってから勃発した『張鼓峰事件』が、関東軍を震撼させた。海軍シミュレーションとは若干数違うが、少なくとも1000人超の死傷者が発生した。1938年に入ってからの100件を超える国境間紛争の中でも、最大規模の敗北と言えた。
辻はこの事件勃発に戦慄を覚えた。敗北もそうだが、5ヶ月も前に提出された海軍側の報告書が脳裏を過り、深く刻み込まれた。書類庫へ急ぎ、本棚から湿気を帯びて草臥れた報告書を引っ張り出すと、最後の行、責任者の項目に視線を据えた。
――藤伊一中将。「ひょっとして、『盧溝橋』の一件で今村を口説いた人物ではないのか?」辻はあえて推測を口にした。海軍側報告によれば、1937年9月25日をもって海軍中将に昇格した男の名に、“藤伊一”があった。陸軍筋では、『M4』なる海外製鹵獲中戦車を用い、伊良湖試験場で九七式中戦車『チハ』の脆弱性を指摘し、中戦車更新を1941年頃まで延期にしたという噂があった。一方、海軍筋からは同期も居ない、謎の多い人物――としての様々な噂が絶えず届けられた。
「そうかもしれない……いや、そうだ!」辻は叫んだ。先の盧溝橋の一件に渦巻く海軍の陰謀、その関係者――若しくは張本人かもしれないと、辻は確信していた。多数の鹵獲兵器が内地で話題になっているという話を聞いたが、藤伊の姿が確認されたのも、その時期に近かった。これまで誰もそれを結び付けて考えようとはしなかったが、辻は即座にその結論に至った。
そして1938年12月20日、辻は藤伊との会談を受け入れられた。陸軍次官であり、陸軍航空総監部航空総監を兼務する主君、東條中将の力添えを頂き、実現した事だった。8月に勃発した『張鼓峰事件』の事後報告と今後の国境線防衛に関する意見具申――という名目で帝都へと上京した辻は、東條によって実現された藤伊との会談の為、その足を運んだ。その間、やはり辻は藤伊近辺の情報を集め、人物像の構築とこれまでの経歴について、ある程度の想定を組むに至っていた。
藤伊一。階級は中将。艦隊司令官や海軍内部局の軍務に就いている――という事実は一切無く、どの様な職に就いているのかは誰一人として、知る由もなかった。時折、訪米経験の節を感じさせる噂も耳にしたが、やはり過去は分からなかった。
結果として辻が導き出した答えは――謎だった。無論、身分抹消という点から、海軍特務機関の要職でもしているのではないか、という推測は思い付くが、それなら何らかの職に就いて、偽装するのが常識――というものだった。しかし、彼は職に就いていない。
向こうに行けば事実は直に分かる。辻は考えるのを止め、そう胸の内に呟いた。最終的な面会許可を得ると、翌朝早くに、辻は調達した車に乗って、藤伊の元へ急いだ。
寒暖の差が激しい満州国を離れ、海軍関係者の冷たい視線を浴びながら、辻は家の中へと入った。中に入れば更に風当たりはきついだろうと辻が予想した通り、藤伊の側近である木下攻呉海軍大佐の冷たい視線を浴びる所となった。
どこであろうと、満州の真冬よりはマシだと、辻は胸の内に呟いた。満州国では、この時期は氷点下-30度から-40度にも達する。石炭ストーブ程度では、手先を暖めるに留まる程にきつかった。
辻は木下に案内され、藤伊の書斎へと入れられた。藤伊中将――帝国海軍の謎――はソファに腰掛け、辻に席を進めた。辻は頷き、腰を下ろした。
「で、本日は如何様で。辻少佐?」
辻は頷いた。「先ず、この場をお借り致しまして、当懇談を承諾致してくれました事について、感謝の意を述べたく存じます」辻は芝居掛かった様子で言った。「聡明にして賢明なる閣下は帝国の繁栄と永遠の栄華の為、方々にて活躍しておられる……とか。そんな中、私如きのような一介の陸軍将校に御時間を割いて頂けた事は、私にとっては感激の至りに――」
「前置きはいい」藤伊は言った。「貴様に割く時間は精々1時間だ。本題に入り、要点だけ話して結論を言え。でなければ時間が足りんぞ」
この唐突な言葉に、辻は冷や水を浴びせ掛けられた様な顔を浮かべた。
「しかし閣下。貴方に関して興味深い噂を幾つか聞いていましてね」辻は媚諂うような笑みを浮かべた。「何でも、九七式中戦車の更新に一節、意見を述べた……と」
「だからどうした?」藤伊は動じず、淡々と答えた。
「いえ、私もこれには賛同しております。帝国軍人たる者、鋼鉄の肉体と精神を育まなければいけませんからな。機械に頼る様では、腑抜けた人間になってしまう」やがて辻の言葉に熱が帯び始めた。「日露の先人達には、戦車や装甲車等という物は無かった。しかし、代わりに堅強な脚をもって大地を邁進なされたのです。彼等は数寸も違う程に巨大なロシアの蛮兵達に対しても怯まず、逆に当然の事ですが……圧倒なされた」
「なら聞くが」藤伊は言った。「その日露戦において帝国陸軍は、二十八糎砲を持たずして旅順攻囲戦に勝てたのか?」
「当然ですな。第1回目の総攻撃の折には、確かに帝国陸軍は敗北した」辻は言った。「しかし、その時点でロシア軍には甚大な損害を被らせ、同時に軟弱な精神を持つロシア兵の士気は完全に挫かれていたのです。二十八糎砲がなくとも、第2回目では圧勝したに違いない!」
「敵の機関銃の弾を鋼鉄の肉体とやらで跳ね返せたら、私もそれを信じよう」藤伊は言った。「だが、突撃した兵の多くは、ロシア軍の十字砲火を受けて死に至った。そこで軍司令部は突撃という愚策を捨て、二十八糎砲と塹壕を用いる戦法に変えた。それが勝利の要因だ」
「閣下、日本海における艦隊決戦においては貴方の方が博識は高いでしょう」辻は顔を赤くして言った。「しかし、これは陸の事!関東軍作戦参謀職に就き、恩賜の軍刀を賜った私は全てを承知しております。閣下には是非、海の上にて帝国陸軍の勇躍をご観覧するに留めて頂きたいッ!!」
「それは、海軍の私が陸軍事には出しゃばるな――という事か?」藤伊は言った。「随分と大層な事をして悪かった……とでも言えばいいのかな?」藤伊は腕を組み、辻を睨み付けた。案内役の木下は憤慨して、鼻息荒かったが、藤伊はそれを制止していた。
辻は沈黙したままだった。
「何か言いたい事があるなら――はっきり言ったらどうなんだ!!」
藤伊は憤りをぶちまけた。辻は、先の『水ガソリン事件』の詐欺師本多に似ていると藤伊――伊藤は考えていた。勿体振った話し方、躍動大きい手振り、感情のコントロール……。その点を思うと、伊藤は辻がこの状況を自ら作り出したのではないかと考え始めていた。恐らく、辻は藤伊一の秘密を知りたいのだろう。しかし、藤伊は賢く、話す訳もない。ならば、感情を爆発させて理性を崩させ、その中で秘密を聞き出そうとしているのではないか――と。
考え過ぎとも考えられたし、辻の事を考えればそうとも考えられた。そこもまた、辻が狙っているのだろうか?はたまた、これもまた深読みの深読み、なのかもしれない。
「もういい。最初に言った通り、本題を要点だけ話せ」伊藤は言った。
「では、お聞かせ願いたい」辻は言った。
「貴方は――何者か?」
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