第15話 富嶽はワシントン爆撃の夢を見るか?
第15話『富嶽はワシントン爆撃の夢を見るか?』
1938年12月18日
神奈川県/横須賀
その日、伊藤は海軍航空廠の頭脳の源、機密書類保管室に入り、一通り書類を閲覧していた。それは、伊藤と『大和会』が引き連れてきた『夢幻の艦隊』における、航空兵器に関連する鹵獲品目録だった。1年掛かりで纏められた兵器の名は延々と続き、そこに眠る知的財産は、大日本帝国の技術経験の10~20年を併せても足りない程に高価な代物だった。書類戸棚から取った分厚い目録書類を、横に置かれた一台のテーブルに置き、電気を付けて伊藤は読み耽った。
航空廠が用意した目録の中には、F6F『ヘルキャット』やF4U『コルセア』の様な米海軍最新鋭の“零戦キラー”から、『グラマン鉄工所製』渾名を持つ鈍足堅物機F4F『ワイルドキャット』の様な旧式機もあった。大抵は対空火器、艦載機等、海軍関連の鹵獲品が目立つが、ただ一つ――『米陸軍関連鹵獲品』の項目もあった。
【ライトR-3350サイクロン18】
カーチス・ライト社が開発しているとされる空冷星型18気筒エンジン。同発動機は長距離戦略爆撃機として開発される――『B-29』に搭載されるとの推測。鹵獲品は“燃料噴射方式”を採用したとされる機種で、比較的状態は良好だった。太平洋戦線に配備された余剰品と推測される。『大東亜戦争』時、東京及び主要都市、主要軍事拠点に爆弾を落とすとされるB-29に搭載され、残虐の極みが如き米軍の蛮行に多用された――。
【プラット・アンド・ホイットニーR-4360】
プラット・アンド・ホイットニー社が開発するとされる空冷4連星型28気筒エンジン。鹵獲輸送艦の一隻に積載されていた同発動機は、恐らく事務的ミスで間違って載せられたか、廃棄品として載せられたと推測されるが、後者では状態が良過ぎるので、前者の可能性が高い――。
厚い書類綴りを閉じ、右壁の書類戸棚に目録書を戻すと、伊藤は部屋を後にした。伊藤がこの部屋に赴いたのは、目録の中に記録された2種類のエンジンに興味を抱いていたからだ。
伊藤がこの2種類のエンジン――『R-3350』と『R-4360』に興味を抱いたのは、対米戦略の一環として発案された――『Z飛行機機計画』に向けて、国家規模で事が動き始めていたからだ。連合国軍の爆撃戦略――B-29の無差別爆撃を一早く知った中島飛行機創始者、中島知久平は史実より早く、陸海軍に向けて未曾有の戦略爆撃機『富嶽』開発を提案した。
史実の1942年、中島飛行機創始者である中島知久平は米国との戦争帰結を憂い、『Z飛行機』を立案した。この超大型長距離戦略爆撃機『Z飛行機』は、千島列島から出撃して太平洋を横断、アメリカ本土を爆撃してそのまま大西洋を横断し、同盟国ドイツかその占領地に着陸する――という壮大且つ大胆な奇策だった。更に、ヨーロッパで車輪(離陸時に強制廃棄されている為)・燃料・爆弾を補給した後、再びアメリカ本土を往復爆撃し、戻る――というのだ。
そもそものZ飛行機――後の『富嶽』――のカタログスペック自体が、驚嘆に値するものだった。全長45m、全幅65mと、機体はB-29の1.5倍に匹敵する大きさで、爆弾搭載量は25t。航続距離に至っては19,400km。心臓部のエンジン出力は5000馬力と、行き過ぎた理想が詰め込まれた機体だった。中でも、5000馬力のレシプロエンジンというのは、米国も実用化出来なかった代物だ。
この『Z飛行機』計画の原点となった中島知久平発案の『必勝防空計画』では中島がそれぞれ描いた派生機案もあった。基本的に描いたのは通常の戦略爆撃機『Z爆撃機』で、これが最も無難。
次に、『Z掃射機』がある。これは富嶽原型機からウェポンベイを撤去し、その代わりに胴体下部に数十~数百もの機銃を備え付けるという案だ。主に20mm機関砲96門を搭載するタイプと、7.7mm機銃400門を搭載するという2つのタイプが考え出されており、前者は爆撃機編隊に随行し、敵の戦闘機を上空から攻撃するというコンセプト。後者は敵艦船の対空火器、航空母艦の飛行甲板、地上の歩兵や非装甲車両、列車といった軟弱な敵に対する攻撃をコンセプトとして挙げていた。
またこの他、大型魚雷を20本搭載し、艦船に向けて攻撃する『Z雷撃機』や、200名の兵員搭乗可能という『Z輸送機』、100名程度の搭乗が可能という、『Z旅客機』なんて案もあった。
少しでも頭に良識がある人間なら分かるが、6発型の爆撃機を造る――という時点で、富嶽の実現性は遠のいていた。4発機もまともに量産出来ていない状態だった帝国軍に6発航空機――ましてや5000馬力の怪物発動機を造れるだけの時間も金も技術も労力も無かった。更にZ爆撃機やZ輸送機ならともかく、すぐに空になったり、命中精度も低い20mm機関砲や、貧弱な7.7mm機銃を取り付けたZ掃射機。何故、高高度活動を目標とした筈なのに低空を飛行するリスクを冒してしまうZ雷撃機等、問題外だった。そもそも、開発中に日本軍は制海・制空権を奪われ、爆撃機や掃射機を飛ばせる空は無かった。
R-4360『ワスプ・メジャー』――3000馬力の怪物は、米国の航空機メーカー『P&W』社がB-29の新たな動力として、開発を進めていた空冷4連星型28気筒エンジンだった。R-4360はP&W社の『ワスプシリーズ』の最終機種であり、同社のピストンエンジン技術の最高峰であった。本来は前述した様に、B-29の新しい動力を目指していた。
しかし1945年8月15日をもって戦争は終結。余剰品のR-4360エンジンはB-29の改良機『B-50』に搭載され、やがて未曾有の戦略爆撃機B-36――通称『ピースメーカー』に搭載された。
コンベア社が開発したB-36は、富嶽に勝るとも劣らない戦略爆撃機だった。無論、5000馬力のエンジンは存在せず、代わりに3000馬力のR-4360-25エンジンを6基搭載、更にGE社製ターボジェットエンジンを4基搭載の計10基――即ち『10発爆撃機』という途方もない怪物を生み出したのである。やがてR-4360は型が更新され、3500馬力、3800馬力と上がり、軟弱だったジェットエンジンも力を高めていった。
ただ、爆弾搭載量21t、最大航続距離は16,000kmと、日本の遥か上を行くアメリカでさえ、富嶽のカタログスペックには敵わなかった。
無論、1946年の7月から時を逆行してきた伊藤は、B-36という超大型戦略爆撃機の存在を知らない。Z飛行機――後の富嶽が本当に空を飛べるかと言われれば、渋面を浮かべるのが関の山だった。アメリカ本土爆撃など、論外であった。
しかし、伊藤が読んだ鹵獲品目録の大馬力エンジン『R-4360』を考慮すれば、可能性はあった。海軍の航空廠の技術陣は、R-4360を調査・分析してカタログスペックを纏めた。そこで彼等は、R-4360が3000馬力の能力を誇ると裏付けていた。戦後アメリカの怪物エンジンが役に立つと考えた中島は、深山に生を与える寸前だった中島飛行機の頭脳集団を駆り集めた。
海軍から提供された知的財産――R-4360エンジンだが、開発は困難を極めた。
まずは解明。海軍航空廠の面々は、元中島飛行機の山崎技師の下、『橘花』噴進戦闘機の開発に忙しかった。研究チームもそれに人材を割かれていた。そこで中島の頭脳集団は残った研究チームの人員と資料を基に、R-4360エンジンの技術構造の完全な解明、そしてそれのコピー試作品の開発から着手した。
しかし、おいそれとP&W社の秘術――1946年の知的財宝を見て、同等の物が造れる訳もなかった。確かに中島は、中島飛行機の最も優秀な技術者達を選り出した。だが、それは時間と工業力――8年間と数十倍規模の工業力――との戦いだった。血眼とか、馬車馬になって働くとか、全身全霊を尽くすとか、一つの物事にのみ絞るといった意味合いの言葉は多くある。しかし、その様な精神云々で国産化に漕ぎ着ける程に、事は甘くは無かったのだ。
やがて技術データが揃ってくると、いよいよ設計陣が動き始めた。当初案の5000馬力エンジンは妥協案の3000~4000馬力程度に引き落とされ、補助動力機関として『橘花』計画でも開発が急がれる『ネ20改』の大型改良エンジンが搭載される事になった。
そして神が操ったが如く、新史のZ飛行機『富嶽』は――B-36に酷似していた。
中島は史実より早く、陸海軍と共同で東京北多摩群の三鷹に50万坪の用地を確保していた。ここに後の富嶽開発拠点――三鷹総合研究所や中島が晩年まで暮らす泰山荘が築かれ、超大型戦略爆撃機『富嶽』誕生の地として、後世の歴史に刻まれる事となる。
「しかし、持たざる国が大型兵器を持つべきなのだろうか?」
そう呟くのは、山本だった。航空廠の一角、R-4360エンジンを取り囲む様にして配置された技術陣の作業風景を彼は見ていた。
「前史ではそれが間違いだったのではありませんかね?」山本は言った。「『大和』や『武蔵』の前例は否定できますまい。富嶽もそれの二の舞なってもおかしくないでしょう」
その考えには伊藤も賛成だった。基本的に今の日本は、基礎戦力の基盤を固めるのが先決と言えた。伊藤ら『大和会』が時空転移をしてからというもの、歴史は確かに変わったが、それ故に帝国軍の基本戦力は明らかに弱くなっていた。陸軍では、後の一式中戦車に莫大な予算をつぎ込む為、九七式中戦車『チハ』は少数生産に留められ、満州国に集中配備された。そして一方の海軍では、零戦の設計の抜本的見直しが図られ、1940年までに配備出来るか不透明だった。
「航空主兵主義の世に入れば、富嶽は空の『戦艦』として、抑止力を持つと私は思いますね」伊藤は言った。「原爆開発を進める以上、富嶽の他に米本土を爆撃出来る機種はいませんし」
大日本帝国は密かに原爆開発を進めていた。日独伊三国科学・技術協定により、ドイツから知識を頂き、また1938年という混沌の時代の中、ヨーロッパから追い出されたユダヤ系科学者の多くを雇い入れていた。その多くは後に『マンハッタン計画』に参加した者が多く、レオ・シラードが既に日本側に引き入れられている以上、アメリカの原爆開発は史実より遅れるのは明らかだった。しかし、いつまでもそれが続くかと言えば――違った。
「再来年にはイギリスも同盟関係に入る筈です。そうなれば、状況は改善する」
伊藤は言った。「日本一国では手に負えない事業かもしれませんが、イギリス・ドイツ・イタリア等の国々と共同で進められれば――不可能も可能になる。早ければ、我々が時を逆行した8年後ぐらいには完成するやもしれません」
「8年後か」山本は言った。「爆弾の雨が首都ワシントンに降り注ぐ日は、案外近い様だ」
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