第139話 コマンドルスキー諸島事件(後)
第139話『コマンドルスキー諸島事件(後)』
1947年2月7日
大日本帝国/カムチャッカ半島
カムチャッカ地方州都のペトロパブロフスク・カムチャツキー。1945年1月の大攻勢によって陥落したその街には、当時の侵攻軍主力であった帝国陸軍第十六方面軍(カムチャッカ方面軍)司令部が置かれ、大規模な駐屯地となっていた。チュクチ民族管区、コリャーク民族管区(米国占領地帯。大日本帝国領はカムチャッカ地方として併合)アリューシャン列島、マガダン州と接する同地方は戦略的にも重要な意味合いを含んでおり、カムチャッカに展開する第十六方面軍の戦力は計3個軍10個師団30万名と、満州に次ぐ規模にまで膨れ上がっている。その防衛方針は国境守備であり、これを達成するため、米国と向かい合う国境線上には、急ピッチで要塞防衛線が構築されている。それは先の『日ソ戦争』で、守勢に回った緒戦の教訓が大いに関係していた。中華民国、中国共産党、満州国との『国日共満合作』によって実現された人海戦術、縦深防御戦術、補給線破壊等、あの戦いから帝国陸軍が学び取ったことは大きかった。そこで帝国陸軍上層部はその経験を基に、北方防衛の戦略を組み立てたのだ。
第十六方面軍司令官の牟田口廉也大将は、足掛け2年で築き上げたカムチャッカの北方防衛線に絶対の自信を抱いていた。彼は計5個師団をチュクチ・コリャーク民族管区との国境線沿いに。計2個師団をマガダン州国境線沿いに。そして残る計3個師団を予備兵力として、カムチャッカ地方に配置していた。各国境線には要塞防衛線が構築され、チュクチ・コリャークとの国境線上のものが第1要塞線、マガダン州のものが第2要塞線と位置付けられ、それに見合った兵力が展開されていた。
一方、機甲戦力・航空戦力も相当数が配備されている。機甲戦力については、2個戦車師団が用意されており、その中には最新鋭の五式中戦車『チリ』や、一式中戦車・三式中戦車といった『日ソ戦争』でも戦果を挙げた傑作戦車の数々があり、かつての帝国陸軍のことを考えると、劇的な変化であったといえよう。そして現在、七式重戦車『オニ』――『センチュリオン』重戦車をベースとし、五式試作重戦車『オイ』から4番目にあたる新型重戦車――の製造が既に始まっており、完成次第、これらも北方防衛のため、カムチャッカ地方に送り込まれる手筈となっていた。
また航空戦力については、第四航空軍(カムチャッカ方面)2個飛行師団が配備され、8個飛行団計1717機(戦闘機577機、重軽爆・襲撃機1050機、司偵90機)という大戦力が用意されていた。戦闘機は“大日本帝国陸軍最優秀戦闘機”の呼び名が強い四式戦闘機『疾風』を主力に、旧型の一式戦闘機『隼』や三式戦闘機『飛燕』で足りない部分をカバー。更に最新鋭機である五式戦闘機『閃燕』や、四式噴進戦闘機『火龍』といった機体がカムチャッカ地方の主力都市、軍事拠点に配備され、局地防衛を担っていた。またこの局地防衛は、襲撃機でもある二式複座戦闘機『屠龍』や三式複座戦闘機『轟龍』、そして四式複座戦闘機『覇龍』も加わっており、イギリス・ドイツ等から輸入した優秀な防空レーダー網と連携しての一大防空体制を築いていたのである。
爆撃機に関しては、ようやく量産体制が確立された『空飛ぶ喬木機』こと三式重爆撃機――帝国陸軍版『デハビランド・モスキート』――、高性能且つ量産性に重きを置いた四式爆撃機『飛龍』、そして九七式重爆撃機以下の時期に採用され、製造された旧式軽重爆だった。
また既に初飛行が済み、中島飛行機の専用ラインでその製造が開始されたという『Z機』こと超重爆撃機――『富嶽』の配備の話も持ち上がってはいたが、これは帝国陸海軍の共同運用という形であり、その所属は帝国陸軍航空軍ではなく、『統合戦略航空団』と呼ばれる組織にあった。この統合戦略航空団は1946年末期に新設された組織で、その前身となるのは『帝国海軍第零特別航空隊』――通称『特零空』だった。本来は米軍の鹵獲航空機を運用するために開設された筈の組織だが、帝国陸海軍のエースパイロット達によって固められており、『ノモンハン事件』や『冬戦争』、そして『日ソ戦争』等において飛び抜けた戦績を叩き出した部隊としても知られていた。そんな特零空は1946年、『大和会』主導の組織再編によって『統合戦略航空団』なる“空軍モドキ”へと生まれ変わり、噴進戦闘機や『富嶽』といった戦略レベルでの影響を及ぼすであろう航空機を与えられたのである。無論、今現在大日本帝国が保有している2発の原子爆弾についても、この組織が同爆弾の輸送・爆撃任務を担っていた。
一方帝国海軍(『統合戦略航空団』も含む)だが、『海上護衛総隊』と『第十二航空艦隊』、そして『堪察加警備府』の3つの海軍組織がカムチャッカ半島に設置されており、それぞれの隷下部隊・艦隊がその管区防衛を担っていた。
海上護衛総隊はカムチャッカ-ウラジオストク間の極東領海域航路等をカバーする第二護衛艦隊と、カムチャッカ海上護衛航空隊から戦力が抽出され、配備されている。第二護衛艦隊は護衛空母計6隻を中核とし、戦時急造駆逐艦の『松』型や旧式駆逐艦、そしてブロック工法・電気溶接によって量産性の高くなった海防艦からなる艦隊だ。その主な任務はやはり“通商路防衛”にあり、対潜・対空哨戒に重点が置かれていた。航空兵力を最大の矛と考えているため、戦艦クラスの砲戦力を持った艦艇は『夢幻の艦隊』に属する米旧式戦艦の他には存在していない。ともあれ、カムチャッカの港湾設備の低さ故、第二護衛艦隊の運用がウラジオストクを中心に回っているのも事実だった。それらの旧式戦艦もそこに駐留している訳で、カムチャッカには存在しないのだ。
一方、第十二航空艦隊からはカムチャッカ海軍航空隊。戦闘機を主体とした部隊であり、その主力機は零式艦上戦闘機の後継機、三式艦上戦闘機『紫電』である。しかし一方で、旧式機である零式艦上戦闘機の多くは退役にありながらも、一式13mm機銃の増設や防弾板の付加等による局地戦闘機化、若しくは爆弾搭載能力・機銃火力の強化による襲撃機化――といった独自改修が施されており、かつてのような空母艦載機ではなく、基地航空機としての運用が継続していた。
そして3番目となる『堪察加警備府』は第十六方面軍同様、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに籍を置く警備府である。そもそも警備府とは帝国海軍の機関で、所轄の海軍警備区(この場合カムチャッカ半島-北洋海軍区)の警備・艦隊後方統轄がその大きな役割であった。但し鎮守府に対しては格下の地位にあり、固有の艦艇を持たず、海軍工廠ではなく『工作部』を持ち、鎮守府が本来有している警備戦隊や防備戦隊といった兵力も保有していない。それらの全ては軍令部の指示によって各鎮守府から捻出された艦艇・人員で構成しており、唯一『海兵団』という独自兵力を持つのみである。
この堪察加警備府の場合、艦艇・人員等を融通しているのは最も位置的に近い『浦塩斯徳鎮守府』だった。この鎮守府は1946年2月、警備府から昇格したばかりの鎮守府であり、その経験・技術の質は劣る所があった。とはいえ、ウラジオストクは帝国陸海軍の極東戦略上、欠かすことの出来ない都市であり、その鎮守府は極東地域でいえば随一の規模を誇る根拠地でもあったのだ。カムチャッカや北海道では行えない戦艦・正規空母といった主力艦の整備・修繕を可能とするだけの設備が旧ソ連時代から揃っており、同市を占領した帝国海軍はそれを有効利用したのである。
その後、改修と増強の繰り返されたウラジオストクは東洋でも有数の規模を誇る海軍根拠地となり、その名をEU東洋艦隊に知らしめたのである。現在、そのウラジオストクはイギリスやフランスの艦艇も使用する東洋艦隊の寄港となっており、対中任務に従事していた。
「こちらには反撃に必要な艦艇と、それを護衛する艦隊の用意がある。そちらの――第十六方面軍の状況について、説明して頂きたいのだが?」
そう牟田口廉也大将に面と向かって問い質すのは、帝国海軍海上護衛総隊司令長官の藤伊一大将である。彼は昨日、輸送機によってカムチャッカ半島へと向かい、その翌日の夕方頃には、同地防衛の責任者たる牟田口との会談に漕ぎ着けることが出来たのだ。
「既にベーリング島奪還の為、予備兵力である第六十師団と第八一師団、計2個師団に完全武装を施している最中だ」牟田口は腕を組み、睨むように藤伊を見て言った「準備完了の後、海軍の支援の下、同島を奪還せよ――との任務を下命している。そちらの心配は杞憂と見て貰って構わん」
「杞憂であるかどうかは、こちら側で判断する」
藤伊の隣に立つ海上護衛総隊参謀長、伊藤整一中将は言った。「アメリカはベーリング島に約1万2千の兵を陸揚げしていると聞く。そちらがその2倍、計2個師団で迎え撃つのは、兵法としても誤った判断ではないだろう。しかし、問題が無い訳でもない」
牟田口はその言葉に異を唱えた。
「兵法を持ち出されても困る。そちらは3倍の兵力を以て叩けば良い――なんてことを考えておるのかもしらんが、こちらも予備兵力を削っておるのだ。これ以上削れば、万一の場合に対応が出来なくなってしまう」牟田口は拳を握り締め、言い放った。「あの小島とこの半島、どちらが大切かは一目瞭然の筈だ。それを理解した上ならば、そちらとて妥協してくれるだろうな?」
喧嘩腰の牟田口には、自身の方針に対する絶対的信頼があった。何しろ彼は少佐時代、このカムチャッカ半島に潜入し、騎馬による単独縦断調査に成功している。それ故、選ばれたのが第十六方面軍司令官の人事であった。彼は1945年1月の『カムチャッカ攻勢』時にはカムチャッカ半島侵攻軍主力であったこの第十六方面軍を指揮、見事にカムチャッカ半島を陥落せしめ、大将へと昇格を果たしたのだ。そのため、彼はカムチャッカにおける第一人者としての側面も強く、その侮れない知識もまた、牟田口の自信過剰ぶりに拍車を掛ける要因の一つとなっていた訳である。
「それは無論」藤伊は言った。「だが1つ。予備兵力である2個師団を送り込む場合、防衛線に穴が開いてしまう可能性を聞きたい」
牟田口は頷いた。「防衛線は計7個師団が就いている。チュクチ・コリャークに5個師団、マガダンに2個師団。その場合、どちらかを通じて米軍が侵攻を仕掛けてくることは容易に想像出来る。となれば、要塞線に手こずっているいる間に3個予備師団を増援として送り込むのが定石なのだが、それも困難となってくるだろう。だが、たとえ防衛線が攻撃されたとしても、1ヶ月は持つ筈だ」
「では、もし敵が海から攻めてきたら?」
「その場合は残った予備1個師団で食い止め、国境線に配置した師団の一部を反転、迎撃に向かわせる」牟田口は言った。「その可能性は薄そうだが」
「では、マガダンから敵が攻め上がってきたら?」
再び藤伊は訊いた。
「その場合も、予備兵力を投入する。だが常備2個師団がいる以上、何の抵抗も出来ずに突破されるということは有り得ない」
その牟田口の言葉を聞き、再び藤伊は口を開いた。
「では海と陸――両方から攻めてきたら?」
「両方から? そんな馬鹿な」
そういう牟田口に対し、藤伊は首を振った。「アメリカの国力を侮っちゃあいかんよ。先の『第二次米墨戦争』でも、かの国は数十万名単位の兵力を僅か数日のうちに召集、メキシコに配備した。まさにインフラと人海戦術の勝利だ。それをこちらに使ってこない道理は無い。万が一、そのような攻撃に晒された場合、今のような事態に陥らんとは限らんからね」
「では何か。大本営に増援を要請しろ、と?」
「私は海軍の人間だが、陸軍でも上に伝手を持っているんだ。話は色々と付けてやれると思っている」藤伊は言った。「今回の一件を自分一人の手柄にしたいのは分かるが、このままだと危険を孕んだまま戦う羽目になる。それでは胸くそが悪いだろう?」
暫し考えた末、牟田口は渋々頷いた。
「分かった。その件についてはぜひ頼む」
1947年2月7日。かくして反撃作戦の準備が進められるカムチャッカ半島は一触即発の状態となっていた。海軍側は輸送艦や海上護衛の助力は惜しまぬものの、主力たる聯合艦隊の到着は遅れそうだった。しかしアメリカはその間にも、ベーリング島に容赦無き攻撃を加え、島に潜伏する守備隊を次々と抹殺していたのだ。それに対抗すべく、牟田口率いる第十六方面軍は他方面軍から増援や、地元からの徴兵等によって戦力の増強に励む。
1947年2月――ベーリング島を巡る対立は遂に沸点を超え、戦争に発展するのだった。
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