第133話 灰は灰に、塵は塵に……(後)
第133話『灰は灰に、塵は塵に……(後)』
1946年8月6日
大日本帝国/東京都
東京都新宿区、市ヶ谷駅西方に位置する台地、及びその地域に集中して設置された帝国陸軍の重要防衛施設群は、総称して――『市ヶ谷台』と呼ばれていた。江戸時代は御三家である尾張徳川藩上屋敷に始まり、明治維新後はその敷地を利用して首都防衛施設が建てられている。1874年に陸軍士官学校が開校し、1941年には三宅坂から陸軍省、陸軍参謀本部、陸軍教育総監部、航空総軍司令部等、帝国陸軍の中枢施設が次々と移転、または新設されたのである。その中でも首都防衛に重要な意味を持つのが『防衛総司令部』――通称“防総”だった。建物は3階を擁し、地下には厚いコンクリートで覆われた特別防空壕司令部が計3階層も広がっている。それは、首都の空を守る盾にして、仮想敵国からは厄介者の巣窟と忌み嫌われるべきであろう存在。“広域防衛”――即ち『防空』を担う心臓部であった。
第41代内閣総理大臣に就任した東久邇宮成彦王大将に代わり、第3代防衛総司令官となった鈴木率道大将は、そんな防衛総司令部の地上3階、防衛総司令官執務室の長机の前に立ち、自身の席に向かって歩を進めていた。その机の席には『大和会』第1代当主であり、海上護衛総隊司令長官の藤伊一大将と、軍令部総長兼防衛総司令部参謀総長の山本五十六大将という2人の帝国海軍重鎮の姿があった。彼らは天皇直属組織――『大和会』の中核を担う存在であり、同時に『防衛総司令部』の主要メンバーだった。何故なら、防衛総司令部が『大和会』の直隷組織でもあったからだ。
そもそも防衛総司令部設立の背景にあったのは、『大和会』が語る“B-29”の脅威に備え、皇国防空体制を一元化、盤石なものにするためであった。史実、木造住宅群犇めく大日本帝国本土に対し、B-29『フライングフォートレス』戦略爆撃機の焼夷弾が襲い掛かったという“悲劇”は、戦艦『大和』とともに時空転移し、1937年の戦前日本へと逆行した『大和会』メンバーが最も脳裏に焼き付かせ、積極的に取り組もうとする懸案だった。その結果として求められた答えが――大本営の指揮下を離れ、『大和会』が直接指揮できるような『陸海軍協同の防空司令部』だった訳である。
「昨日のトルーマンの米国議会での発言は聞いたかね?」山本は重い腰をどっと下ろし、扇子を右手にパタパタと扇ぎながら、苦い顔を浮かべた。「米陸軍航空軍はアラスカにB-29を500機、配備するらしい……それも来月までにな」
「び……B-29を来月までに……ですか?」
山本の話を聞いた鈴木は、目を瞬かせて唖然とした。鈴木率道――対ソ作戦の戦術家として知られ、いわゆる『皇道派』の主要メンバーに当たるこの男は、史実では統制派に疎まれ、『二・二六事件』以降は表舞台に立つことも無く、閑職送りとされてしまっていた。今物語においてもそれは変わらない筈だった――が、ただ一人、その運命を覆す男が居たのである。それは『帝国陸軍の異端児』こと、石原莞爾である。彼は自称『満州派』を語り、統制派にも皇道派にも属さないと宣言しつつも皇道派に加担したことで知られる。また、石原と鈴木は同期であり、陸大(陸軍大学校)では鈴木が首席、石原が次席という成績で卒業している。
彼が今、帝国陸軍の表舞台たる防衛総司令官という重職を担っているのも、元はといえば『帝機関』参謀総長であり、帝国陸軍内で複数のコネを持つ石原あってのことだった。石原は閑職に飛ばされた鈴木の人事を独自のコネと権限によって操作し、この防衛総司令官という重要ポストを与えたのである。無論、それは石原が手駒として、この鈴木を操ろうと画策してのことだったが、閑職からの脱却を半ば諦めていた鈴木当人にしてみれば、非常に感謝すべきことだったのである。
「間違いないのですか?」
「無論、否定したいが間違いではなかろう……」山本は苦々しく言った。「民主主義国家であるアメリカ合衆国の原動力は国民世論だ。国防の傘の下、B-29をアラスカに500機配備するというのであれば、それは事実なのだろう。そもそも、そんなことで嘘を付いても何の得にもならん」
「決定的な確証はありません」藤伊はそう言い、首を振った。「ですが、アメリカの工業力は恐ろしい。もしアラスカにB-29が大量配備されるのであれば、次はチュクチでしょう。そして残念なことに、本土とチュクチとの距離は実に4000km程度しか離れておりません」
と、藤伊は語る。
「史実のマリアナ諸島からの本土空襲は、やはり2500kmという長距離を航行出来るだけの性能をB-29が有していることにどうしても帰結してしまいます。零戦のパイロット達はこれだけの距離を精神力で耐え抜いた訳ですが、米軍のB-29は優秀な自動操縦装置に加え、与圧室を装備することによって非常に快適な環境を作り出していたと聞きます。これが国力の差というのでしょう」
「五式陸攻にも与圧室はあった筈ですが……」
そう言ったのは鈴木だ。
「確かにそうですが、未だ技術的に未熟な部分が多く、B-29のそれとは比較にならんのですよ。こればかりはどうしようもありません」藤伊は言った。「まあその点については後々ということにして、問題なのはこれからです。『アプヴェーア』からの報告によると、トルーマン大統領は11月までにチュクチ民族管区にも計300機のB-29を配備する計画を進めているらしいのですよ」
そんな突然の報告を聞かされた山本と鈴木の2人は、互いに顔を向き合わせた。
「これはとんだ不意打ちですな」
山本は唖然として言った。
「既にチュクチでは、数百機単位での航空機の運用が可能な大型飛行場の建設が進んでいます。これが10月にも完成すると言いますから、今回の報告は強ち間違ってはおらんでしょう。いや、間違っていては欲しいですが、その可能性は……」
と、藤伊は沈黙し、俯いた。
「即ちアメリカは、史実のマリアナでやったようなことを今度はチュクチでやってやろうという魂胆なのですな?」山本の問いに対し、藤伊は頷いた。
「アメリカが戦端を開くとなれば、やはりそれはチュクチで行うでしょう。我々は暫定国境線――即ち、コリャーク民族管区の米日間の暫定国境線上で何らかの戦火が上がり、それが地域紛争、はては国家間戦争へと発展する筈です」
鈴木は何か呻いて、椅子を前に傾け、身を乗り出した。
「まさか! アメリカと我が国が戦うということになれば、かのトルーマンはEUと強制的に戦火を交えることに……」
「抑止力が有効に働くのは、ある程度パワーバランスが取れていれば、の話だよ」と、山本は語る。「しかし今やソ連が崩壊し、世界はアメリカとEUの二大勢力が睨み合う結果となってしまった。そして残念だが、アメリカはEUの“アキレス腱”を見抜いている――」
「アキレス腱?」
「協調性の無さ、だよ」山本は言った。「EUは同盟組織だ。だからこそ各々の国が独自の権限を有し、独自の軍隊と政治形態と経済を有している。それは統一せねばならんが、何分、EUには時間が無いのだ。それに各国にはそれぞれの思惑がある。英仏にイタリア、ドイツと、独自の思惑があり、それに従って行動するから、統率が取れず、完璧な連携が成し得られないのだ……」
そう呟き、山本は鈴木の顔を見据えた。
「パワーバランスは時間が立てば自己修復される。いつの世も、だ。王が病や寿命に倒れ、民衆が立ち上がり、政権は崩壊する。そして束の間の平和を得て、再び彼らを従えようとする人間が出てくる。それを何と呼ぶかは問題ではないが、歴史は巡るのだ。そして悪政か、はたまた善政が繰り返され、そのサイクルを何度でも繰り返す。分かるか? 結局の所、良くも悪くも歴史は繰り返されるのだ」
鈴木は頷いた。
「しかし問題はやはり、B-29がチュクチに配備されることに集約されます。もしも仮に、11月までに計300機が実戦配備にでもなれば、この本土が爆撃可能圏内にスッポリと収まってしまいかねません。その前に、広域防衛(防空)のラインを引いておかなければなりません。そして何より重要なのは、この帝都防衛の備えを万事整えておくことです」鈴木は言った。「然るにまず、防空戦闘機としても高い性能を持つ五式戦闘機『閃燕』と、噴進戦闘機『橘花』『火龍』の増産と実戦配備を早める必要があります」
「ああ。しかしどちらも、エンジンの製造がネックだと聞くが?」
鈴木は頷いた。「『閃燕』のハ-65はやはり、イギリスのマーリンのライセンス生産品である以上、大量生産出来ないのが実情です。また、噴進戦闘機の『ネ-20』等は絶対数が足りず、製造自体が予定よりも大きく遅れています」
とはいえこの時期、既に噴進戦闘機は計100機近くが帝都防衛のため、配備されていた。更に各航空隊にも順次配備していく予定である。だが、やはり製造の難しさが量産のネックとなっており、それが困難なことであるというのも事実だった。
「私としては、海軍には『震電』を開発して貰いたかったのですが……」
そう鈴木が語る『震電』は史実の1945年、帝国海軍が開発を続けていたエンテ型戦闘機の名称である。エンテ型――胴体前部に両翼を、胴体後部にエンジンを搭載したという奇怪な形式だ。このエンテ型を採用、機体設計に反映し、誕生したのが『震電』であった。
「ああ。それはすまないことをしたな。残念だが、『震電』は廃棄処分となってな」
エンテ型レシプロ戦闘機『震電』は最高速度750kmという大日本帝国軍では破格の速力性能を始め、1万m以上へと至る上昇性能、計4門の30mm機関砲を搭載したという重火力性能を有していた。当時、帝国海軍はこの『震電』を対B-29迎撃の切り札として、大いに期待を寄せていたが結局の所、その試作機が完成したのは1945年6月のことで、実用化されることは無かったのである。
「何故です? レシプロ機としては破格の機体ではありませんか」
「そうだ……。だが正直な所、レシプロ戦闘機としては優秀な機体だが、ジェット戦闘機としては力不足であるのは否めん」山本は言った。「それに技術的限界もあった。どうしても要求性能に届かず、また製造にも多額の金と資材と時間が掛かる。ならば『紫電』を造った方が効率的だったのでな」
そもそもエンテ型、及び推進式という方式は、何も目新しい技術という訳では無かった。帝国海軍の『震電』が1945年に完成した訳だが、それよりも約6年前の1939年には、イタリアのアンブロシーニ社が『SS4』と呼ばれるエンテ型戦闘機の試作機を完成させている。それから2年後となる1941年には、イギリスのマイルズ・エアクラフト社がM.35を、1943年には同じくM.39『リベルラ』を完成させていた。この2つのエンテ型戦闘機はどちらも試作機の域を出ることは無く、廃棄されたのである。またアメリカのカーチス社はXP-55『アセンダー』を完成させていたが、これもまた例に漏れず計画中止となっていた。更に1945年、『震電』と同時期にはソ連のミコヤーン・グレーヴィチ設計局がMiG-8『ウートカ』エンテ型戦闘機を完成させたが、これも試作機のみに終わっている。
そもそもエンテ型は非常にクセのある機体方式である。その機体制御は非常に困難で、これを安定制御することが可能となったのは1970~1980年代のことだった。その頃にはコンピュータ技術が飛躍的に発達し、コンピュータによる航空機の制御が可能となっていたのである。故にこの時代、エンテ型を制御するのは到底無理な話であり、エンテ型が開発段階で自然に淘汰されるというその流れは、何ら不思議なものではなかった訳であった。
『震電』もまた、その例に漏れなかった。1945年2月と、史実よりも早い段階で試作機が完成した『震電』だが、その実用化の見込みは付かず1946年6月に計画は中止、試作機も廃棄され、『震電』は完全に航空史の表舞台から降りたのであった。
「その分、『覇龍』の生産数を増やしている」
山本が言ったのは――四式複座戦闘機『覇龍』のことである。最高速度は740kmと『震電』に拮抗し、上昇性能においても大差は無いが、その航続距離と火力性能は『震電』を遥かに凌駕するものだった。特に火力性能は20mm機関砲4門、30mm機関砲4門の計8門を誇り、数でいえば『震電』の2倍に相当するものであった。また対地攻撃能力を有しており、戦闘爆撃機としても期待が寄せられていた。
「帝都には現在、50機ほどが配備されているのだろう?」
「ええ。『覇龍』は機体性能もありますが、陸海軍の部品の互換性が高いですから、現場でも厚遇されています」
鈴木は頷いた。
「まぁ……問題は生産効率の低さですな」藤伊は顎を擦りながら言った。
山本は唸った。「やはりEUから更に工作機械を輸入すべきでしょうな。イギリス辺りは大丈夫でしょうが、最近はドイツも、南米での戦争を見越してか売却を出し渋っておりますからなぁ……。国内生産が出来ればそれで良いのですが、我が国の工業水準はまだその段階に達しておりませんから」
藤伊は頷いた。「88mm高射砲を生産するには、ドイツの工作機械が必要不可欠ですから、その点は何とか解決策を講じねばならないでしょう」
1939年、『アハトアハト』で知られるクルップ社の88mm高射砲のライセンス生産権を購入し、開発された一式8.8cm高射砲は現在、帝国陸軍の主力高射砲としてその王座に君臨していた。しかしその製造の難しさ故、量産が非常に困難な代物であり、専らドイツからの輸入品に頼っているといった状態でもあったのだ。しかしクルップ社の生産ラインも本国優先になることは否めず、帝国陸軍における絶対数は常に不足していたのである。これは88mm高射砲のみならず、ボフォース社の40mm機関砲にも言えたことである。しかし、ボフォース社もまたEU各国にこの40mm機関砲を卸しており、その輸入数は少なかった。
「うぅむ……新型の五式15cm高射砲の生産を急がせねば……」
鈴木は腕を組み、渋面を浮かべて呻いた。五式15cm高射砲は帝国陸軍の新型高射砲であり、その射程は高度2万m以上を誇った。同高射砲は高高度飛行を可能とするB-29迎撃の数少ない火力の一つで、ドイツから輸入したウルツブルク・レーダーと連動した精密射撃を可能としている優秀高射砲でもあった訳である。無論、このウルツブルク・レーダーも輸入数は少なく、ライセンス生産品もその製造数が乏しいため、五式15cm高射砲の大部分はこのレーダーの搭載が遅れていた。
「五式は帝都防衛の要と成り得る新鋭砲ですから、なるべく数を揃えて欲しいものです……」藤伊は言った。
「えぇ。それは承知しております」鈴木は言った。「しかし、当面は三式12cm高射砲に頼る他ありませんでしょう。幸いにも、“チェインホームレーダー”の配備が既に完了しておりますので、敵機の捕捉体制は万全です。防空戦闘機の拡充と並行すれば、47年に予定されている五式高射砲50基の配備までは、何とか誤魔化すことが出来るかと」
1940年から大日本帝国は、イギリスから“チェインホームレーダー”といったレーダーシステムを購入しており、約6年掛かりで行われた日本各地の主要都市の防空網構築計画に際しては、同計画の核としてその配備が進められていた。そして1946年までに帝都東京、大阪、名古屋、福岡、広島といった主要都市に相当数が配備されていた。現在ではライセンス生産権を取得し、更なる生産を進めている。
「ワット博士の招聘もあって、チェインホームレーダーの配備は順調に進みましたからな」藤伊は言った。「また防空壕の増設計画や、地下鉄の防空化工事もあって、帝都にも空襲から逃げ込める場所は多く増えましたし、これで民間人の避難体制の盤石化されれば、憂いは無いのですが……」
山本は頷いた。「3年前の悲劇を繰り返さんためにも、その点は推し進めねばなりません。この帝都の空に1機のB-29も侵入させぬ……という気概で事に当たるのです」
3年前の悲劇――それを聞いた2人は顔を顰め、俯いた。それは即ち、ソ連空軍による帝都大空襲のことである。帝都は1940年の『東京五輪』前のインフラ整備で防空機能を補完されており、その被害は空襲規模からすると比較的軽微で済んでいた。しかし、空襲により皇居の大部分が焼失するという被害が出ており、帝国陸海軍では昭和天皇の赦しがありながらも数十名の将官が更迭されるという事態に陥っていた。これら将官達は後々、『大和会』の人事介入によって一部が閑職からの復帰を果たしたが、それでもこの事件は大日本帝国史に大きな禍根を残したのである。
「やらせはしません……。私はその魂を掛けて、陛下をお守りする所存です」
鈴木率道――皇道派の志士は力強く告げ、拳を握り締めた。
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