第132話 灰は灰に、塵は塵に……(前)
第132話『灰は灰に、塵は塵に……(前)』
1946年8月6日
山口県/岩国市
聯合艦隊旗艦『大和』は、柱島泊地に投錨していた。帝国海軍根拠地の1つである同泊地は、幅2キロ程の小さな島、柱島の南西沖合、周防大島と柱島諸島に囲まれた海域に広がる。そこはしばしば、広島県呉港を根城とする聯合艦隊によって利用されており、この戦艦『大和』も例外ではない。柱島泊地中央部に設置された“旗艦ブイ”にその巨躯を繋留し、重い腰を下ろす。そして呉所属の連合艦隊主力艦艇が取り囲むように投錨し、一時の休息を得るのだ。また同時に、そこにいる者達の多くが、優越感を、一体感を、安心感を得る。それは裏庭の瀬戸内海から遥かなるトラック環礁に至るまで、長く苦しく、困難を伴うであろう艦務の激務を労い、不安を打ち消す魔法の光景だった。何しろ、場合によっては50隻を超す艦艇が集結し、柱島泊地に投錨するのだ。その景色はまさに壮観である。
聯合艦隊司令長官に着任した小沢冶三郎大将は幾晩か、疲れ切って眠りに落ちる前、戦艦『大和』艦橋の上部層に位置する防空指揮所に向かい、星空の下に煌めく大艦隊の姿を眺めていた。その時に見る聯合艦隊の威容は、昼のものとはまた異なる。4800キロワットの発電力を誇る『大和』を始め、無数の艦艇の発電機が生み出す電力は光彩を漆黒の海に彩り、壮大なイルミネーションとして投影される。それは無意識のうちに感動と興奮を沸き起こさせるには十分であった。
募る心労と激務の疲労に倒れ、突如として退役の旨を吉田善吾大将が表明してから早1ヶ月。1939年8月の着任から約6年という異例中の異例ともいえる長期間、連合艦隊司令長官の職務を全うした吉田にとって、それは必然的な行為ともいえた。心身ともに疲弊し、その身をすり減らして帝国海軍と大日本帝国に献身してきた彼はもはや、その限界を当に越えていたのだ。『オホーツク海海戦』における失策、『大和会』を脅かす者達への対応、諸外国との外交と、吉田は幅広い問題を抱えていた。
そして同時に、これは既に決まっていたことでもあった。今や大日本帝国の権力中枢を――特に海軍を――掌握し、絶大な影響力を持ちながらも“影”に徹する組織『大和会』は、聯合艦隊司令長官としては歴代最長の就任期間となる吉田の身を案じ、海軍人事に介入し、予備役中将である堀悌吉を新たな聯合艦隊司令長官として任命することを目指していた。既に海軍省は海軍大臣に復職した米内光政が、そして軍令部は新軍令部総長となった山本五十六がその主導権を掌握しており、今や『大和会』は“海軍人事”に関しては完全にという訳ではないが、非常に融通の利いた決定を下せるようになっていたのだ。戦時昇格制度や年功序列制度といった問題にも進展の兆しが見えることとなり、適切な人事配置を行えるようになっていたのである。
そしてその『大和会』の海軍人事の結果、新たな聯合艦隊司令長官に親補される予定だったのが――堀悌吉予備役中将であった。彼は山本五十六の親友であり、こと軍政においては天才的才能を有する人物だった。しかし山本が軍令部総長で、堀が天才であったとしても、予備役だった人間を――現役復帰の話は『日ソ戦争』中にも度々言及されていたが、当人否定のため実行されていなかった――突然、現役復帰の上、聯合艦隊司令長官に着任させるというのはあまりにも前例のなさ過ぎることであり、第一として職権の乱用に他ならないとして反論する声が多く挙がるのは無理もない話だった。そもそもこの話、堀当人は全くとして同意しておらず、彼としては何処吹く風という様子であった。
そもそも堀は予備役編入の1934年から今に至る約10年ものブランクは、克服するのは困難は話であると認識しており、それならば次代を担う人間を入れた方が帝国海軍のためになるとまで考えていた。この考えには、当初、堀の現役復帰を渇望していた山本でさえ、頷くしかなかったのである。足手まといと自認する人間を無理に引っ張ってきても、益にはならない。それが一連の騒動の結論だった。
かくして海軍の3トップの一角、聯合艦隊司令長官のポストは空席となり、『大和会』はその人事を再選定し直すことになったのである。候補は多く挙がった。まずは『海軍三羽烏』の一人であり、『大和会』でも古株の井上成美大将。次いで、『大和会』当主たる藤伊一大将(1946年7月、昇格)である。が、これら2人の候補のうち、藤伊はあくまで“伊藤整一の影”であり、偽りの姿である訳だから、聯合艦隊司令長官という表舞台に登場することは許されなかったのだ。そこで藤伊を始め、消去法的に人事選定が行われ、残ったのが――小沢冶三郎大将であった。
小沢冶三郎大将――史実では1945年5月、帝国海軍最後の聯合艦隊司令長官に親補された彼がまたこうして、司令長官となるのは歴史の運命だったのかもしれない。かつての史実では、1945年5月といえばかの『菊水一号作戦』決行後にあたり、帝国海軍としては終局的時期であった。だがしかし、その頃にはろくな艦艇は残されておらず、聯合艦隊司令長官とはもはや、単なる肩書きに過ぎなかったのだ。先の『レイテ沖海戦』では、空母機動部隊を囮とした華麗なる戦術で戦史を沸かせた彼だが、1945年5月の時点で残された空母など、米海軍にとってはものの数では無かった。
空母航空兵力の集中的運用の必要性を説き、世界初の試みとなる『機動部隊』の生みの親となった小沢。そんな彼が新聯合艦隊司令長官に指名されることは――“時代の変わり目”を意味していた。即ち、『大艦巨砲主義』から『航空主兵主義』への完全転換である。かの米海軍でさえ、合衆国艦隊司令長官のアーネスト・J・キング大将や、太平洋艦隊司令長官のチェスター・W・ニミッツ大将のような海軍トップ達の多くは未だ、大艦巨砲主義を信奉していた。彼らの幻想を叩き壊した『真珠湾攻撃』さえあれば、今頃は米海軍も航空主兵主義に完全転換出来ていたことだろう。しかし、先の『パリ海軍軍縮会議』でもみるように米海軍は依然変わりなく、戦艦に重きを置いていた。保有排水枠70万tという数字を見れば、それも察しが着くだろう。
前大統領のフランクリン・D・ルーズベルトは、空母の必要性に気付く人間の一人だった。しかし、そんな彼の冷静な判断力と将来像を粉々に撃ち砕いたのが――戦艦『Y』の世界公表である。結果、米海軍は『アイオワ級』や『モンタナ級』といった次世代戦艦を次々と建造、EUに対抗したのである。その一方で、大日本帝国海軍が空母を大量建造しているという情報を聞き付け、『エセックス』級空母の大建艦をも並行して続けられるのだから、アメリカの国力は恐るべし。国土、資源、人口、軍事力ではEUに劣るアメリカだが、その経済力や工業力は他を圧倒していた。それが太平洋・大西洋の両洋に大艦隊を常駐させ、南米やカナダ、極東地域における軍備拡張を支えていたのだ。戦車、航空機、軍用車、大砲をまるでコカ・コーラを造るかのように量産する工業大国アメリカ。その力はEUからの締め出しによって多少、衰えていたとはいえ、本気を出せば幾らでも対抗する術はあったのだ。
そしてそのアメリカが、次は大日本帝国を狙っているという噂は『大和会』を始め、帝国陸海軍でも周知の事実であった。1900年代から1920年代までに掛けて行われた米軍の海外軍事介入――即ち『棍棒外交』がメキシコで再開されて早2年。ソ連、中南米と続くその積極外交の次なる犠牲者として選ばれたのが大日本帝国だった。米軍は新植民地となった旧ソ連領、チュクチ民族管区に大軍を常駐させ始め、またフィリピンやアラスカでも軍備増強を継続している。米太平洋艦隊は年々、その予算が増額され、ハワイやサンディエゴといった海軍根拠地から賑いが途絶えることは無かった。また、西海岸や中西部ではB-29『スーパーフォートレス』戦略爆撃機の量産が続けられており、数週間のペースで対日最前線へと到着した。また米海兵隊は、上陸作戦の演習頻度が徐々に増えていた。
これらの事実を見ても、米軍の対日介入の可能性は明白であった。ただほんの小さな火種さえあれば、米国は大日本帝国へと介入する糸口とすることが出来る。だがそれは同時に、EUに喧嘩を吹っ掛けるというに変わりは無かったのだが……。しかし先の『冬戦争』を見るように大国間戦争に積極的ではないEU諸国が、遠い辺境国の日本を手助けするという保証は何処にもなかった。そもそも、欧州のEU諸国は大日本帝国の極東進出を煙たがっていたのだ。圧倒的領土を確保し、対日輸入よりも輸出額の方が上回りそうだという現在の現状は、かつて栄光を欲しい侭にしていた欧州各国としては、信じ難い事実だった。そしていつ、極東の黄猿が反抗するか――という不安を抱いていたのもまた事実であった。そんな訳で、大日本帝国としてもEUに全面的な支援を期待することは諦めていたのだ。
そんな対米防衛線として、本土防衛に携わるのが帝国海軍と聯合艦隊である。四方を海に囲まれた日本列島に対し、侵略手段は空と海からの侵攻口しか残されていない。米軍は、先の『第二次米墨戦争』では陸上侵攻を行い、『米ソ戦争』でも貧弱なソ連海軍など相手では無かった。その結果、侵攻自体は大いに成功しており、むしろ大変だったのは敵陣深奥部への侵攻であった。だから大日本帝国に対する侵攻に多少の不安を米軍上層部は覚えていた。が、実際の所は、米太平洋艦隊を始めとする海軍力、陸軍航空軍を始めとする空軍力を過大評価し、大日本帝国軍の戦闘能力を過小評価し、対日計画を練っていたのだ。これが見当違いなのは明らかであったが、米軍はメキシコ、ソ連での経験から十分に上手く行くだろうと考えていたのである。
唯一として、不安を拭い切れなかったのが“戦車”である。先の『米ソ戦争』では、米陸軍は主力のM4『シャーマン』中戦車を機甲戦力の要として果敢に攻めたが、ソ連軍の重戦車を前に次々と撃破されていたのだ。そもそも米陸軍においては、戦車というのは歩兵支援用の兵器に過ぎず、戦車の集中運用という思想はあっても、重戦車に対抗する重戦車を持とうという考えは思い浮かばなかったのだ。空軍力に富む米軍は、敵戦車の破壊は航空機に任せるという合理的選択を採っていたからだ。しかしそれでは限界があると見抜いた将官は少なくなかった。その結果として誕生したのがM26『パーシング』だが、その性能がドイツ軍の『ティーガーⅡ』重戦車に勝るとは、到底思えなかった。
だが、相手はあの大日本帝国軍である。先の『冬戦争』では一定の活躍を見せてはいるが、機甲戦力は米軍のものの数では無かった。いや、イギリス軍やドイツ軍、はてはフランス軍にも劣るかもしれない。それにその戦車の性能とて、大したものではない。そう決めつけた米軍上層部は、この重戦車問題に関しては特にこれといった対策を行うでもなく、むしろ無視したのである。
かくして米国との対立深まる大日本帝国は、その国防の最前線たる聯合艦隊に新たな司令長官を親補したのである。それが――小沢冶三郎大将だった。そんな小沢が将旗を掲げる戦艦『大和』は、朝方早くに柱島泊地を出発、瀬戸内海洋上にて対空演習を開始していた――。
「艦橋宛電探室より、艦長。電探に感ありッ! 電探に機影20認む」
聯合艦隊旗艦『大和』。その防空指揮所において今、電探室から駆け回ってきた伝令兵の報告を粛々と聞くのは、戦艦『大和』艦長の黛冶夫大佐だった。『ライオン艦長』の渾名を持つこの男は、確固たる制空権下を維持すれば、米海軍と艦隊決戦を行っても勝てるであろうという考えを抱いていた。航空機の必要性を認めつつ、同時に戦艦の優位性を主張するという、大艦巨砲主義者では一線を画した人物だった。史実においては、帝国海軍の戦艦砲命中率が米海軍のそれを3倍ほど上回っているというデータを算出している。また『真珠湾攻撃』においては、空母による奇襲航空作戦ではなく、米海軍に真っ向から挑み、『艦隊決戦』に持ち込むべきであると唱えていた。
だがしかし、そもそもが足の短い戦艦である。空母でさえ燃料補給が一杯一杯だった状況下において、尚も艦隊決戦を繰り広げようものならば、聯合艦隊は燃料不足で帰投することさえ困難だったかもしれない。結局の所、かの『真珠湾攻撃』のような大博打を打つとならば、それ相応の覚悟と指揮官が必要だったのである。そしてその2つを兼ね備えていたのが――かの山本五十六であった。
「奴さんのお出ましだ、手厚く歓迎してやれッ! 対空戦闘用意ッ!!」
戦艦『大和』が配備する三式二号電波探信儀一型――通称『31号電探』は、帝国海軍が開発した艦艇搭載型対空警戒レーダーだ。半径100km以上の探知能力を有し、1943年からの製造で既に1000基近くが実戦配備されている信用性の高いレーダーでもあった。そして今、戦艦『大和』電探室のレーダー画面には、計20個の輝点が上面右斜めを埋め尽くしており、南下を続けていた。
「主砲三式弾、撃ち方始めッ!」
刹那、主砲46cm三連装砲が鈍い駆動音を響かせた後、膨大な爆風圧と蒸気、そして赤と橙と黄金色の入り混じった砲炎の閃光が、その場を支配した。耳を聾する砲撃音と、64000tの巨躯を揺れ動かす強烈な振動。それは世界最強の戦艦『大和』だからこそ味わうことの出来る経験。そして戦艦のイロハを知らぬ新米水兵達にとっての――洗礼。大艦巨砲主義者たる黛は元より、聯合艦隊司令長官の小沢大将でさえ、そのような衝撃を肌に感じるのは、今回が初めてのことだった。
「敵機撃墜ッ! 数2!」
見張り員の張り上げられた声が防空指揮所に轟いた。2機の敵機――即ち雷撃機を模したラジコン型無人標的機の20機編隊のうち、10%にあたる2機を撃墜したという。飛行場を焼き払うだけの威力を持った三式弾としては少々小さな戦果ではあったが、まずまずといった所でもあった。
「撃ち方始めッ!!」
黛艦長の号令一下、『大和』の高角砲はけたたましい咆哮を放った。まるで電動鋸が1000本ほど、同時に駆動しているかのような、とてつもない轟音。計12基の50口径三式12.7cm連装高角砲が一斉に火を噴き、毎分15発もの高角砲弾を空中に吐き出した。そしてこの高角砲弾は、ただの高角砲弾ではなかった。そこには帝国海軍が苦心して量産化に漕ぎ着けた“VT信管”――『無線近接信管』が組み込まれていたのだ。この信管は内部に小型レーダーを搭載しており、15m範囲内で一定の金属物体が通過すると、探知して自ら炸裂する。そしてその炸裂した砲弾が四散させる破片によって、敵機に甚大なダメージを与えるのだ。それはまさに――“意思”を持つ砲弾であった。
その結果として、無人標的機編隊はずたずたに引き裂かれていた。洋上に燦々と輝きを放つ太陽の下、対空弾幕によって黒く染まったその空域には、火を噴きながら錐揉みをする数機の機影が見えた。VT信管が上手く作動し、無人標的機に砲弾の破片を浴びせ掛けたのだ。また『大和』の対空火力は圧倒的なものだった。高角砲の砲弾が雨霰と降り注ぎ、それは途切れる気配を見せなかったという。だがそれで無人標的機は5機も数を減らし、残るはあと13機だった。
「そろそろ“例”のヤツを使ってみますか?」
「……うむ。それが良かろう」
黛のその提案に対し、小沢は静かに頷いた。腕を組み、仁王立ちを続ける彼の姿には、圧倒的な自信と威厳が満ち溢れていた。そしてそれがハッタリではないと、黛は誰よりも理解していた。
「――特型噴進弾『蛟龍』、発射用意ッ!」
言うや否や、戦艦『大和』左右両舷に配備された特型試製噴進弾『蛟龍』計4基は、海軍空技廠の技術士官達の手によって発射準備が進められていく。『蛟龍』は帝国海軍が開発した誘導式艦対空噴進弾である。その祖となるのはイギリスのフェアリー社が開発した世界初の艦対空ミサイル――『ストゥッジ』である。同ミサイルは、1944年初頭には実戦配備され、神風特攻機の迎撃にも使用されたが、1945年にはろくな成果を挙げられないまま、第一線から退けられることとなった。
そしてこの『蛟龍』は、その世界初の艦対空ミサイル『ストゥッジ』を基に、独伊との合同開発によって完成した新型艦対空ミサイルであった。最大射程は20kmと、『ストゥッジ』の12.8kmを大きく凌駕する性能を見せ、最高速度はマッハ0.9を誇る。誘導方式は手動指令照準線一致方式であり、オペレーターは専用操作盤のジョイスティックを操り、目視で敵機に誘導する――というものだった。しかしこの誘導方式は非常に難点が多く、実際には使えない。何しろ誘導を機械ではなく、“人の眼”に頼るのだ。人間にも限界はあるし、個人差はある。しかし、それは大量生産された兵器を用いて行われる戦争においては、あまり好ましくないことだった訳だ。
だがしかし、帝国海軍には眼力の猛者達が多く存在する。例えば世界には、マサイ族やモンゴル民族のように“視力2”が標準的であり、中には“視力7”という際立った視力を持つ者も存在するという。彼らの視力は生まれつきのものと思われがちだが、これはサバンナやステップで家畜を害獣等の危険から守るべく、常時眺視を強いられた生活を送っていることが主な要因である。このように、人間の視力というのはその周囲を取り巻く環境的要因が深く関わっている。
例を挙げるならば、船乗りやパイロットにあたる。仕事柄、彼らは目を頼りにする。だからこそ目を大切にし、視力も自然と向上するのだという。そんな中で際立った訓練を受けているのが、帝国海軍の見張り員達である。史実、レーダー等の科学技術に一切頼ろうとしなかった帝国海軍はこれら見張り員の視力を向上させ、数十キロ先の敵艦を発見出来る様にと鍛えたのだ。それはレーダーの不足と、欧米科学技術への軽視が成せる業であった。
しかしレーダーの必要性を逸早く察知し、事態解決に力を尽くした今物語では、そんな見張り員達の仕事にも対空電探が取り入れられるようになっていた。電探は不備も多かったが、100キロという領域を見渡し、敵を発見するのは人間の力では到底不可能であった。故に、見張り員達に頼りっぱなしだった索敵はレーダーや索敵機が担うこととなったのである。だがしかし、帝国海軍の目視索敵能力は世界最高水準であり、電探技術の発達後も帝国海軍はそれに頼っていたのだ。
そして今回、そんな帝国海軍の猛者を起用する運びとなったのはひとえに、その視力の高さにあった。手動指令式照準線一致方式はその名の通り、手動制御で誘導兵器を操り、目視を頼りに目標物に命中させるという誘導方式だった。この『蛟龍』胴体後端部には曳光弾とマグネシウム式フレアーの2つの光源が装着されており、これを肉眼で捕捉して手動誘導を行うのだ。故に優れた視力・動体視力を必要とする訳である。
その結果として、『蛟龍』誘導制御員に選ばれたのが、帝国海軍航海科でも選り抜きの実力を持った見張り員達や、帝国海軍の戦闘機パイロット達だった。彼らは視力・動体視力ともに類まれなる能力を有し、海軍空技廠の技術員から特別訓練を受け、誘導制御のイロハを学んだ訳である。そして今回、戦艦『大和』に配備された『蛟龍』を制御するのは、そんな猛者達であった。
「射ッッッ――!!」
班長の号令とともに液体燃料に点火された『蛟龍』は、瞬く間に天空を駆け上っていく。白い尾を曳き、胴体後端部に2つの輝点が煌めいた。その4基の特型誘導噴進弾『蛟龍』は姿勢制御翼によって安定姿勢に移行する。そして轟音を上げ、蒼空を駆る4本の航跡は――13機の無人標的機に迫った。
「敵機撃墜ッ! 数1ッ!!」
4機の追尾目標中、1機の撃墜。即ち『蛟龍』は初実戦演習において約2割の命中精度を証明したという訳である。しかしVT信管を用いても約0.045%という命中率だった従来の対空火器のことを考えると、誘導噴進弾というのは革新的な対空兵器だったのだ。
「敵機接近中ッ! 距離5000!」
「三式噴進弾、撃ち方始めッ!!」
『蛟龍』に続き、戦艦『大和』から解き放たれたのは三式12cm28二八連装噴進砲である。これが計1基、『大和』には追加配備されていたのだ。そして今、その28基の噴進弾が一斉に火を噴き、上空を駆け上がり、残る12機の無人標的機に襲い掛かったのである。その光景は壮絶なものだった。けたたましい轟音とともに無人標的機の編隊は白煙に包まれ、機体がずたずたに引き裂かれていく。そんな猛攻の前に生き残った機影は――10を数えた。
「敵機撃墜ッ! 数2ッ!!」
報告を聞いた小沢は笑みを漏らし、賞讃の行動として拍手を送った。
「20機中10機の撃墜……戦力半数の撃滅とは上出来だよ」
このように戦艦『大和』を始め、帝国海軍は対空兵装の強化と拡充を図っている。ライセンス生産されるボフォース40mm機関砲はその生産規模を拡大化させ、確固たる量産体制の構築を実行中だった。また『蛟龍』や『三式12cm二八連装噴進砲』といった噴進兵器も、戦艦や空母といった主力艦から巡洋艦への完全配備へと続き、やがては一部駆逐艦への特別配備にも繋がった。更に対空電探の増産と電探員の拡充も今後の重要な課題として、熱心に取り組まれていた。
――時に1946年、嵐の前の出来事である。
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