第127話 欧ソ戦争戦勝記念日(後)
第127話『欧ソ戦争戦勝記念日(後)』
1946年4月28日
東京府/港区
その晩、伊藤整一は南青山町に佇む一軒の邸宅の前に立ち、感慨に浸っていた。『山本』という表札、灯火管制の敷かれずに煌々と光を灯す家々、陸軍に接収されずに停車する自家用車等々……。それらは約8年前、“伊藤整一”という個人として、そして『大和会』当主として、大日本帝国海軍中将――山本五十六その人に会談を挑んだ時の事を回想させる。『海軍三羽烏』の残る二羽、米内光政と井上成美ととともに、明け方まで大日本帝国の将来を賭けて、語り合ったことを思い起こさせる。思わず伊藤は吐息を漏らした。疲労、不安、恐怖、怒り、安堵、哀しみといった、様々な感情を秘めたその吐息は、夜半の南青山町に解き放たれた。あの時は――必死だった。とにかくあの悲劇的な未来を回避すべく、西に東に、南に北に奔走してきた。かの昭和天皇の御前にも参上することが許され、米内や杉山元といった陸海軍の重鎮達とも接点を持つことができ、いつしか『大和会』は大日本帝国を裏で支配する、まるで戦後初期の科学空想小説に出てきそうな“秘密結社”に成長した。
かくして伊藤は、悲劇的な未来を回避する術を手に入れることが叶い、ソ連に勝利した大日本帝国は躍進した。旧ソ連極東領――沿海州、樺太島、ユダヤ自治州、アムール州、ハバロフスク地方、マダカン州、コリャーク民族管区、総計122万3600㎡もの領土を獲得し、そこから潤沢な資源・人材を確保することが出来た。また、極東に目を向けたEU諸国――イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダといった国々が進出、資源開発から農地開拓に至るまでを支援し、数多くの企業が参入した。これにより、大日本帝国は経済的恩恵を受けることとなり、満州国復興や帝国海軍の維持費を賄うことが出来たのである。また海外企業の技術流入により、工業水準も飛躍的に向上した。
そんな、“勝った”1946年の日本だが、その将来は暗雲が立ち込めていた。対米戦を視野に入れ、急速な拡大を見せていた帝国海軍が、国庫に負担を掛け始めたのである。
「『八八艦隊計画』」伊藤は言った。「思い返してみれば、帝国海軍は一度、その危機的状況を身を持って体験していたのです。ところが……これは……」
伊藤は言葉に詰まり、眼前に座る山本五十六海相の不安げな顔を見た。
「空母は必要です。しかし、ソ連に勝利したからといって、大日本帝国はまだまだ極東の辺境でしかありません。身を弁えぬ者は悉く歴史の影に消し去られてきた。前例は多い。であるからこそ、その点を考え、今後の『大和会』は対米・対独戦略を練っていかねばならんでしょう」
1946年4月、『大和会』は米仏が『パリ海軍軍縮会議』の開催を目論んでいることを知っていた。ドイツの、『アプヴェーア』からの諜報網に引っ掛かった情報だが、信用に足る情報であった。アプヴェーア情報筋によると米仏は27日未明、『パリ海軍軍縮会議』に先駆けての会談を仏領アンティル、マルティニーク島沖で行ったという。会談の場となったのは、フランス海軍の戦艦『ガスコーニュ』。その甲板上にて開かれた会談は、1946年6月を期日に『パリ海軍軍縮会議』を開催し、EU及びアメリカを含めた列強海軍の艦艇保有量を決定するというものであった。
「うむ……ではやはり、閣下の提唱する『八八航空艦隊計画』は白紙の方向で見直さねばならないでしょうか……?」
伊藤は頷いた。
「戦艦は、空母という庇護下においてその真価を発揮するのです」伊藤は言った。「パリ軍縮会議が開かれるとならば、『八八航空艦隊計画』も撤回しなければならんでしょう。そうなると、必然的に建造予定の『超大和』型についても、建造を中止せざるを得んでしょうな」
山本は顔を顰め、琥珀色のウイスキーの中を転がる氷を眺めた。
『八八航空艦隊計画』――それは正規大型空母8隻、正規中型空母8隻を中核とし、常備戦力として2個航空艦隊を編制、維持していくという計画であった。いわば史実の1920年代に推進された『八八艦隊計画』――戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中核とした艦隊計画――の空母版である。しかし同計画は『八八艦隊』同様、莫大な建造費と維持費を要し、帝国海軍内部でも賛否の分かれる計画であった。同計画は『マル5・マル6計画』において下地が付けられ、大型空母については『大鳳』型、『鳳鸞』型。中型空母については『雲龍』型が候補に挙がった。『大鳳』、『雲龍』については史実でも建造を行ったため、比較的安易に事は運んだが、『鳳鸞』型については“アングルド・デッキ”を採用した未知の装甲大型空母である。帝国海軍はこれを計5隻、建造する予定であったが、あまりの建造費の馬鹿高さと『欧ソ戦争』の戦争推移がソ連側の敗北に傾いているのをみて、3隻に削減された。また『雲龍』型についても、当初15隻の建造が予定されていたが、最終的には6隻になり、現在では建造中の2隻も計画中止の是非を巡って議論がなされていた。
「フランスがパリで海軍軍縮会議を開くとならば、EUの緊急議会を開催し、常任加盟国5ヶ国以上の賛成と、主要加盟国及び準加盟国の過半数票が必要となってきます。それだけの票を集めるとなると、それなりの根回しが必要となる筈ですが……」
「どうやら、それも既にフランスは進めているようなのです」
「何と……!」
驚嘆する山本に対し、伊藤は話を続けた。
「イギリス、オランダ、スペイン、ベルギーが賛同し、イタリアについてもその方向に傾いているとか」伊藤は言った。「聞けばヒトラーも、『Z計画』の縮小を渋々容認するような旨を抱いているようです。それだけドイツの経済状況が劣悪なものなのでしょう」
EUの常任加盟国は英、独、伊、仏、蘭、西、白の7ヶ国から成り、そのうち5ヶ国の賛成票さえあれば、動議は可決するという。さらに欧州主要加盟国、準加盟国、オブザーバー国の過半数の賛成があれば、EU常任加盟国の1票としてその可否が認められる。つまり常任加盟国7ヶ国中、4ヶ国だけしか可決、若しくは否決を選択しなかったとしても、この1票によって可否を決定付けられるというのである。これは列強諸国なりの心ばかりの慈悲だった。が現実は非情で、各主要加盟国が宗主国を務める植民地国の多くは、その宗主国の言われるがままに動かねばならなかったのである。
このEUの否可決システムは、ドイツやイタリアといった枢軸国に対し、身勝手な行動を起こさせないためのいわば“セーフティ”であった。たとえ独・伊が共謀し、否可決票を投じたとしても、英寄りの残り常任4ヶ国の票がそれを許さない。たとえスペインが枢軸側に寄り、3票投じられようとも、その動議が通過することはなく、そこで堂々巡りを繰り返すだけ……。いや、植民地の数に勝る主要目加盟国の決定に従い、準加盟国以下の過半数賛成1票も動く訳だから、これで独伊の横暴は許されないのだ。EUのこの否可決システムは、『国際連合』よりも英仏の意思決定がよく通過しそうなシステムであった。これは『国際連盟』の失敗を基に、創られていた。
「米国との宥和政策を取る英蘭が同意するのは分かります。だが何故、ドイツが?」
「ヒトラーはどうやら、端から『パリ海軍軍縮会議』を認めることは無いようです。彼が企んでいるのは、『Z計画』の遂行。これはカナリス提督の推論ですが、ヒトラーは今回の『パリ海軍軍縮会議』で自国に提示された条件を呑みつつも、その条約施行下において秘密裏に『Z計画』を推進し、軍縮条約で衰退したEUと米国海軍を圧倒する艦隊を、来たるべき時までに揃えておく気なのだと……」
「それが真実だとすれば、我々も黙ってはおれませんぞ!」
山本は声を荒げ、叫んだ。
「無論。ですから、予備役という形で数隻は存続させるべきでしょう……」伊藤は言った。「それに、我が海軍には『第八艦隊』があります。そこに艦艇所属を変更させ、一時的に匿うのが妥当かと」
そんな伊藤の提案に対し、山本は低く唸るも同意した。
『第八艦隊』――1942年、『第七・第八艦隊計画』において創設された同艦隊は、戦艦『大和』とともに逆行してきた元原爆標的艦を核に、欺瞞作戦や通商破壊戦に役立てられる為、活動してきた。現在では『欧ソ戦争』も終結し、第八艦隊はなりを潜めてはいたが、ここで俄かにその名が挙がったのである。但し、第八艦隊は“影の艦隊”である故、華々しい戦果や賞賛の嵐とは無縁であった。
1946年4月28日
ドイツ/ベルリン
首都ベルリンフォス街に聳え立つ新総統官邸。その内部にある広さ400㎡の総統執務室では、ドイツ第3帝国総統アドルフ・ヒトラーがキャベツ混じりのポテトサラダを食べ、アメリカの穀物生産量増大と戦争の関連性を結び付けるイギリス・デイリーテレグラフ紙の2面記事を読んでいた。朝食と新聞をワゴンで運んできた給仕が挨拶を済ませ、総統執務室の扉が閉め切らないうちに、ラインハルト・ハイドリヒSS上級大将とヴァルター・シェレンベルクSS中将は、ヒトラーに1枚の封筒を差し出した。
「『ヨルムンガンド作戦』についての経過報告書です」
封筒には“極秘”の赤判が捺してあり、作戦名欄には『ヨルムンガンド』という言葉が綴られている。ヒトラーは徐にその封筒を手に取り、紐を解いて開封した。中からは十数枚の書類が取り出され、ヒトラーはその1枚1枚に目を通した。各書類には“南米”や“フアン・ペロン”、“アルゼンチン”、“反米”、“戦争”という単語が躍っており、それが如何に物騒な内容であるかが理解出来た。
「愚かにも、フランスはアメリカの口車に乗せられておる」ヒトラーは厳かに語り始めた。「海軍の軍縮とは、言って見ればEUの海洋進出を阻み、アメリカが北南米大陸の全土併合を推し進める上で、邪魔者を遠ざけておくための詭弁に過ぎんのだ」
ハイドリヒは頷いた。「アメリカは機を見計らっているものと私は考えます。恐らくは総統閣下の仰る通り、北南米大陸の支配と軍備再編にこの時期を費やし、来たるべき時に備えているのでしょう。今回の海軍軍縮会議もそれに関連したアメリカの戦略の1つに過ぎません。ですから我がドイツ第3帝国は、その来たるべき時に備え、戦力拡張と“あの問題”の解決に努めなければならないのです」
2人の会話を横で聞いていたシェレンベルクは、沈黙を続けていた。
1945年4月、『欧ソ戦争』の勝利以来、ドイツは急速な国力増強ではなく、先ずは戦争とドイツ復興のために背負った多額の負債を返済すべく、経済の安定化を図った。華々しいパレードや祭りが各地で開かれる一方、ドイツ財務省はソ連領内で獲得した多くの資産を、EUやアメリカ、日本への借金返還に向けて、配分していたのだ。とにかくドイツは、ソ連から取れるだけの資産を取り尽くした。金塊や絵画といった略奪品は、スイスフランに換金され、借金の返済に用いられた。また現地ロシア人の家々からは家具、材木類、食糧、家畜、農作物、農耕具が接収された。更には眼鏡や衣服といった装飾品から、はては金歯に銀歯までもが没収されたのである。その略奪行為は悲劇を極め、多くの人間が問答無用に虐殺されていった。その問題は戦後、EU内でも物議を醸したが、“偶発的な戦争犯罪”として処分される所となった。中には“組織的戦争犯罪”の線を唱える人間も居たが、決定的証拠が無いということから、その発言は何ら効力を発揮することはなかったのである。
そして年を明け、1946年。過剰なインフレや物不足が解消され、ドイツの経済基盤は安定化の兆しを見せ始めていた。ここでヒトラーは遂に、これまでその実行は勿論、発言までもが禁止されてきた『対米戦略』の単語を改めて発し、ドイツ諜報機関の多くが“あの問題”と同様に、この問題に時間を費やすようになったのである。
「総統閣下。南米戦略についてですが……」
ここでようやく、シェレンベルクが口を開いた。
「アルゼンチンでは6月にフアン・ペロンが大統領就任を果たします。世論調査によると、ペロンの当選は確実のようです。何しろメキシコの一件で南米諸国は、アメリカの露骨な南米戦略を見てしまっている訳ですから、これは妥当な判断なのでしょう」
フアン・D・ペロン。史実では1946年6月、大統領に就任することとなるこの男は、親独派でファシズムに傾倒し、枢軸国に友好的な男だった。1944年には陸軍大臣兼副大統領の地位に着き、露骨な枢軸国寄りの政策を取っていたことから、アメリカとしては好ましからざる男であった。1945年にはメキシコの一件に続き、史実同様に軍を扇動してクーデターを起こそうと画策したが、その一件は事前にクーデター勢力の監視を続けていたSD(親衛隊情報部)による情報提供で、未然に阻止されていた。もしそのまま続けば、アメリカはクーデター政権の打倒と称して、軍をアルゼンチンに進めていたことだろう。しかしその一件は穏便に解決された。そしてそれに大きく関わっていたペロンは、アルゼンチン国内では米国を打倒し得る唯一の男――英雄として祭り上げられ、大統領当選も時間の問題であった。
「それに昨年のクーデター騒動で奴の株は上がっておるからな」ヒトラーは言った。「ペロンが大統領に就任すれば、ようやく南米戦略は第2段階に移行出来る……」
ハイドリヒは頷いた。「ブラジルとウルグアイの政府が我々……いや、正確にはEUといった方が良いでしょうが、同盟締結を約束しております。これで反米国家が3ヶ国、アメリカの足元に誕生した訳です。如何でしょうか、総統閣下?」
「うむ……南米を貫くアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの“反米連合”か。誠に素晴らしいではないか……」ヒトラーは感嘆を挙げ、拍手をした。「これで対米戦略の嚆矢は完成した。問題はこれからだが、この3ヶ国に向けた武器輸出と軍事顧問団の派遣は進んでおるのか?」
ハイドリヒは頷いた。「既に余剰となったⅢ号、Ⅳ号戦車が輸送艦に積まれ、ドイツ各地の港湾を出発しております。またソ連軍の鹵獲兵器の多数も、3ヶ国に卸す予定です。また軍事顧問団についても抜かりはありません」ハイドリヒはそう言い終えると、神妙な面持ちを浮かべた。「それで総統閣下。私としましては、かのロンメル元帥をアルゼンチンに派遣したいと考えているのですが」
「ロンメルをか?」ヒトラーは思わず聞き返した。「おの男は我がドイツ軍の至宝だ。それを対米戦の嚆矢たるアルゼンチンに送るとは……」
ハイドリヒはかぶりを振った。「総統閣下はロンメル元帥の人気を御承知しておりますかな?」
「勿論だ。今やロンメルはドイツの……いや、世界の英雄であろう」
「では総統閣下。奴が総統の座を狙っているとは考えませんか?」
「な……!? 奴が総統の座を……!?」
ハイドリヒは頷いた。「決定的証拠はまだ発見出来てはおりません。しかし、私には分かるのです。あの男はいつか、閣下の身を脅かすということを。あれだけの崇敬と賞賛を浴びながら、次の地位を望まんとはとても私には思えないのです。そう……人間とはそういう生き物なのです」
「……まさか……そんな……」
ヒトラーは震えていた。
「しかし銃殺刑にする訳にも参らんでしょう。ですから、ロンメル元帥をアルゼンチンの軍備顧問団長として、南米に派遣するのです。いや、それだけではございません。どうせなら元帥を、今度結成するドイツ軍の南米義勇軍の総司令官に就任なされば宜しいのです。そうすれば、元帥は米国との戦闘によって“名誉の戦死”――を遂げるやもしれませんよ?」
「…………」
ヒトラーはあまりの事に沈黙していた。その表情には精気が無く、絶望に蒼く染まっていた。一方、ハイドリヒは卑屈な表情を浮かべ、ヒトラーを見据えていた。そこには悪魔の面影があると、横に立つシェレンベルクは内心呟いていた。
「……良かろう。全てはロンメル次第だ」
そんなヒトラーの言葉を聞き、ハイドリヒは不敵な笑みを漏らした。
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