第126話 欧ソ戦争戦勝記念日(中)
第126話『欧ソ戦争戦勝記念日(中)』
1946年4月27日
西インド諸島/ウィンドワード諸島
夜明け前の薄明の中、白みを帯びた水平線の彼方からその艦影を露わとしたのは、フランス海軍が誇る最新鋭戦艦――『ガスコーニュ』級戦艦だった。就役来、フランス海軍旗艦を担ってきた戦艦『リシュリュー』に代わり、旗艦の地位を継承した戦艦『ガスコーニュ』は、基準排水量52,000t、全長256.0m、全幅は36.0m、主砲は新型の45口径40.6cm四連装砲塔3基12門を搭載する、フランス海軍が世界に誇る超弩級戦艦であった。そしてその前部甲板には、フランス海軍総司令官たるフランソワ・ダルラン元帥と、仏首相エドゥアール・ダラティエの姿があった。
西インド諸島ウィンドワード諸島に属する一島――マルティニーク。フランス海外県の1つであり、かのナポレオン・ボナパルトの初妻、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの出身地として有名だ。その県都、フォール・ド・フランス沖合に停泊していたのが、ダルランとダラティエの両名を乗せた戦艦『ガスコーニュ』と、その護衛艦隊であった。
「……来たぞ」
ダラティエは呟き、それに促されるようにダルランの視線が向けられた。ダラティエが指していた薄明の水平線をじっと見据える。何事も無いように見えるが、そこには僅かな綻びがあった。やがてそれは、不透明な輪郭を描き、遂には1つの艦影を生み出した。間違い無い。見紛うこと無きその巨影は、米海軍が誇る超弩級戦艦『オハイオ』――『モンタナ』級戦艦第2番艦であり、米海軍大西洋艦隊旗艦でもある戦艦だった。その巨影を目の当たりにした時、ダラティエは密かに恐れ、ダルランは驚愕を隠せなかった。
戦艦『モンタナ』とその護衛艦隊は、米海軍の裏庭である西インド諸島カリブ海を悠々と航行し、フランス海外圏の1つであるマルティニーク沖に到達した。既にフランス海軍艦隊が到着しており、フォール・ド・フランス沖に停泊している。仏艦隊は警戒を怠らなかったが、既に仏艦隊は詰んでいた。同島の別海域には、空母2隻を中核とする海軍機動部隊が展開しており、潜水艦部隊も広域に配備されて哨戒包囲網を形成していた。またフロリダの陸海軍飛行場では、航空機が出撃を待ち、暖機待機中であった。
そもそも仏領とはいえ、曲りなりにも敵であることも含め、ダラティエは甘かった。ここは仏領でもなければ、アメリカも味方ではない。ここは――アメリカの裏庭なのだ。ダラティエと仏海軍は“客人”としてそこに招かれただけであって、安全などが保障されている訳ではないのだ。
「首相、今回の件ですが……」
ダルランは額に皺を寄せ、低い声でぼそりと呟いた。それを聞いたダラティエは顔を顰め、眉間に皺を寄せて彼の顔を見た。
「全く……また……その話か」
ダラティエはぼやいた。そして業を煮やして彼に顔を向けると、その胸に人差し指を突きつけて、憎悪に満ちた表情を見せた。「いいか? 『欧ソ戦争』で我が政権の地位は揺らいでいる。簡潔に言えば、フランス国民は第2の戦争を望んでいないのだ。分かるかね?」
「それは私も同じです。しかし……」
「しかしも何も無い。私は決めたのだ、君が決めることではない」
ダラティエの顔に浮かぶうんざりしきった表情が、ダルランに四の五の言わせなかった。第一次世界大戦以降、衰退に次ぐ衰退を見せてきたフランスは、経済・政治・軍事といった面において、列強諸国から大きく引き離されていた。大戦後の国力衰退が尾を引き、国民は不況に喘いだ。そんな悲鳴に応えるべく、立ち上がった政権は短命に終わり、それが続いた。それは醜い政治抗争、混沌たる世界経済、移り気易い国民がその要因にあり、それらは結果的に不安定な政治状況に繋がったのである。
そんな中、ダラティエはこの時代のフランスでも、非常に特異な人物であった。これまでに計5回、首相として自身の内閣を組閣し、この他に兼任も含め、17の閣僚経験を持っていたのだ。
第1次ダラティエ内閣は当時のフランスとしては長い部類に当たる9ヶ月間、政権を存続させた。しかし第2次内閣は10日で倒れた。ここには『スタヴィスキー事件』が関わっており、これが当時のフランス政治の現実――閣僚、議員、財界人、司法機関や警察の汚職・腐敗――だった。最終的にこの事件は、右翼の暴動という形によってその不満が具現化された。それに呼応するように左翼が巻き返しを図ると、今度は左右翼の対立が“武力衝突”という形に具現化され、おびただしい量の流血を呼びこむ事となる。この結果、第2次ダラティエ政権は崩壊の目を見ることとなったのである。その一連の騒動はまさに――“戦争”に他ならなかった。
その後、1938年から1940年に至るまで続いたのが、第3次・第4次・第5次ダラティエ内閣であった。ドイツとの対立の矢面に立たされることとなったこのダラティエ内閣は当初、ドイツに対して弱腰な『宥和政策』をとっていた。これは英首相ネヴィル・チェンバレンと同調するようではあったが、当のダラティエ自身は宥和政策には懐疑的であった。むしろ彼としては、宥和政策は戦争を起こさないという根本的問題への解決策――というよりは、戦争において多大な犠牲を出さないだけの戦力補完の時間稼ぎに過ぎなかったのである。これは当時のフランス軍の軍備が整っていなかったことと、『マジノ線』の整備が進んでいなかったことが挙げられる。第一次大戦以降、フランス軍は自国を勝利に導いた究極の戦法――『塹壕戦』を戦略の軸に置き、軍馬と鉄道を中心とした輸送体制を構築した。が、これはまさに“第一次大戦の焼き回し”に他ならないものであった。旧式化した大砲を並べ、塹壕を掘りに堀り、戦車の代わりに騎馬が突撃を行う。制空権の掌握や、自動車普及による機械化を全く無視したフランス軍は、時代に取り残された旧時代の軍隊として、かのドイツ軍と雌雄を決したのである。
しかしそれは、早々と近代軍隊の礎を築いたかつてのフランス軍と比較すれば、見るに堪えない軍であった。前時代の遺物ともいえる要塞防衛線――『マジノ線』に頼った防御戦略と、それを易々と撃破するドイツ軍の迂回戦術。中立国ベルギーを経由し、マジノ線の死角たる仏白国境を突破してフランス領内に攻め込むというそれは、『マジノ線』を一種の崇拝対象としていたフランス軍にとって、あまりにも悲惨で、あまりにも衝撃的なものだった。フランス軍はこの『マジノ線』を中心に戦争遂行計画を立てており、戦力の大部分がこのマジノ線に配置されていたからである。結果、数ではドイツ軍に勝るフランス軍は身動きも取れず、ただ成されるがまま蹂躙し尽くされる祖国の地を眺め、そして敗戦を迎えるのであった。これが史実の1940年、『フランスの戦い』である。
そして今物語――EU(ヨーロッパ同盟)が結成され、対ソ連戦となった『欧ソ戦争』でも、フランス軍はその脆弱さを他国に見せ付け続けた。旧式で装甲も薄く、砲も弱いフランス軍戦車は、強靭ながらも圧倒的な数を誇るソ連軍戦車に対し、何の抵抗も行えずに撃滅された。また技術的に劣る戦闘機や爆撃機は、ソ連空軍の旧式機と良い勝負であった。更に、軍馬や鉄道に頼り切った補給線は長続きせず、フランス軍の進軍速度は非常に遅かったのである。獅子奮迅のドイツ軍や、圧倒的物量に物を言わせるイギリス軍に対し、フランス軍は弱さだけが取り柄という非常に残念な軍隊であったのだ。
だからこそ『欧ソ戦争』においても、フランス軍の損害は尋常ではなかった。元国防相であったダラティエ自身も理解していたことだが、フランス軍にソ連のような大国を相手取るだけの能力は無かった――いや、確かにフランス軍は世界最大の陸軍であった。計100個師団以上の戦力を有し、絶対無敵の要塞防衛線を構築し、膨大な植民地軍も保有していた。しかし、近代的な軍隊ではなかった。第一次大戦では革新的戦車『ルノーFT-17』を開発し、自動車も積極的に導入した。だが第一次大戦後、勝利した理由を履き違えたフランス軍上層部は、近代化の歩みを進めていたフランス軍に待ったを掛け、逆に後退させてしまったのだ。自動車は馬に代わり、戦車は歩兵支援の道具と定義されるようになった。また『塹壕戦』の究極的な答えとして導き出された『マジノ線』は、航空機を始めとする近代兵器の整備を遅らせる要因となり、フランス軍を内側から脆弱にしたのである。
だからこそ……だからこそそんなフランス軍が米軍相手に戦える訳が無いと、元国防相のダラティエは良く理解していた。フランスの最高権力者である彼だが、フランス軍においては何の権限も有さない人物である。そこでフランス軍への干渉を行わず、フランス軍を敗北に導かないための最善策として考えたのが、それであった。即ち――“平和への歩み寄り”である。
「平和を語る上で重要なのは、その意味を理解することだ」ダラティエは静かに語った。「平和という言葉であるから、平和は平和だから良いのだと考える。大抵の人間はそうだろう。だがしかし、その意味を明確に、そして適切に表現することが出来ようか? 『マジノ線』のような“抑止力”の下に生まれる平和。強きが弱きを搾取し、その富の礎の下に築かれる平和。腐敗と不満に満ちた日常生活の中でただ唯一、約束された平和。一口に平和と言っても、十人十色だ。だからこそ人々は、平和という言葉の、存在の意味を理解し、そして考えなくてはならないのだ……」
彼はそう語ると、ダルランの顔を見た。
「私は軍人です。軍人は誰よりも平和を望む職業です。そりゃあそうでしょう? 好き好んで死にたいなんていう物好きはそうはいませんからね。英雄気取りの大馬鹿野郎は別ですが……」
ダルランは炯々と瞳を光らせ、不敵な笑みを口許に浮かべた。
「……かもしれんな」
元国防相経験を持つダラティエは呟いた。彼もまた、国防に頭を悩ませた人間の一人である。ダルランの本音の意味を理解することも、容易である。が、それが余計にショックを与えたのだ。
「だがフランスは歩き出した。もう誰にも止めはできんよ」
そうダラティエは呟き、黎明の空を見上げた。
戦艦『ガスコーニュ』の巨躯を仰ぎ見て、米合衆国第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、呆気らかん声を漏らした。『モンタナ』級に比べられれば確かに小さい戦艦だが、それでも『ガスコーニュ』は世界でも初の試みであろう45口径40.6cm四連装砲という怪物艦砲を備えていたのだ。しかもそれが計3基――前部甲板に2基、後部甲板に1基という組み合わせで鎮座しているのだ。つまり主砲が計12門、トップヘビーになることは否めず、斉射等は問題外だろうが、その投射量は従来の戦艦の比ではなかろう。流石に対『Y』級戦艦を想定し、設計開発されたモンタナ級には敵わないかもしれないが、『アイオワ』級程度であれば十分に圧倒出来るだろう。
■『ガスコーニュ』級戦艦性能諸元
基準排水量:52,000t
全長:256.0m
全幅:36.0m
吃水:11.1m
機関
主缶:インドル・スラ式重油専焼缶×8基
主機:パーソンズ式ギヤード・タービン×4基4軸
出力:197,000hp
最高速力:29.0ノット
航続距離:19ノットにて7,500海里
兵装
45口径40.6cm四連装主砲:3基12門
52口径15.2cm三連装砲:3基9門
45口径10cm連装砲:10基20門
60口径37mm連装機関砲:16基32門
50口径13.2mm四連装機関銃:10基40門
装甲
舷側:330mm
甲板:170mm
主砲防盾:430mm
艦橋:350mm
搭載機:2機
しかし性能諸元からも分かるようにガスコーニュ級は、列強海軍が挙って建造する対『Y』級戦艦に比べると、対抗するには不十分な戦艦だった。そもそも陸軍国家として、海洋戦略に疎いフランスは対『Y』級戦艦の必要性を疑問視していた。かつては仏印や独伊との関係上、仮想敵国の一国として危機感を覚えていたフランスだが、現在は大日本帝国と揃ってEU入りを果たしている。その時点で大日本帝国への優先順位が下がり、特に相手もしなくなったのである。またフランスは、先の『マジノ線』構築で莫大な軍事費を支払っていることもあり、46cm砲搭載の超弩級戦艦を建造する余裕がなかったのである。それにそもそもだが、フランス海軍にはそれだけの建艦技術が無かった。
とはいえ、40.6cm四連装砲というのは、世界に衝撃を与えるには十分であった。従来、列強海軍が戦艦主砲塔とするのは、連装か三連装である。砲を増やせばそれだけ重量を削減することが可能となり、同時に砲塔数が減るので防御装甲厚を増加することが出来るのだ。しかしながら、防御能力を強化したところで、砲塔そのものを砲撃で破壊され、砲撃力を削がれてしまっては意味も無い。何しろ連装数を増やすという事は、結果的に砲塔数を減らすことに繋がる。それはメリットでもあり、デメリットでもある。それ以前に四連装砲は技術的に難しく、好き好んで採用する国はフランスぐらいなものであった。例外としてイギリスもあるが、これは防御性能に難点が見つかり、四連装3基だったのが四連装2基・連装1基へと換装された。いわゆる『キング・ジョージ5世』級戦艦である。
そんな四連装砲技術においては世界随一を誇るフランス海軍が手掛けた新鋭戦艦ガスコーニュは、まさにフランス海軍技術の粋を集め、開発された新境地であった。四連装主砲塔を計3基搭載するという重火力艦となり、しかもその主砲は45口径40.6cm砲だった。新型徹甲砲弾を用いた同砲は最大射程38kmを誇り、その砲威力は20km以内であれば、400mm以上に及んだ。これは『大和』や対『Y』級戦艦にも有効で、且つ、その2つを除いた殆ど全ての列強海軍の戦艦の装甲を貫ける威力であった。
フランス海軍はこのガスコーニュ級戦艦を計3隻、建造する予定だった。前級である『リシュリュー』級3隻と合わせ、2個戦艦艦隊による運用を考えていたのである。しかし戦艦は、この1940年代に至ってはもはや時代遅れと言わざるを得ず、実戦において有力な戦果を挙げる可能性は低かった。これからの時代は航空機なのだ。『欧ソ戦争』でも、『第一次バルト海海戦』や『第二次日本海海戦』でその有用性が実証されていた。が、フランス海軍はその有用性を認めようとはせず、結果として空母と機動部隊の整備、運用は遅れていたのである。
「ボンジュール。ムッシュー・ル・プレジダン(大統領閣下)」
「ボンジュール。ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル(首相閣下)」
エドゥアール・ダラティエ仏首相は、トルーマンが発したフランス語に少々眉を顰めた。独特のヤンキー訛りが抜け切れず、その口調は少し刺々しい。まさに取って付けたようなフランス語で、その後もトルーマンがフランス語で話すことはなく、背後から影のように通訳が現れた。
トルーマンの両脇には、米海軍合衆国艦隊司令長官兼作戦部長のアーネスト・J・キング大将。そして統合参謀本部議長――事実上の大統領個人軍事顧問――のウィリアム・D・リーヒ大将が控えていた。それに対するは仏首相エドゥアール・ダラティエと、仏海軍総司令官のフランソワ・ダルラン元帥である。両者は戦艦『ガスコーニュ』前部甲板に設置された交渉用テーブルに向かい合う形で座り、無愛想な面と作り笑いの表情をそれぞれが浮かべていた。
「本日はお招き頂き、誠にありがとうございます」
トルーマンは口許に笑みを湛え、告げた。
「えぇ。本日は実りある話し合いが出来れば、と考えております」
負けず劣らず、ダラティエも笑みを浮かべる。
「しかしこの戦艦、素晴らしいですね」トルーマンは言った。「我が国でも、四連装砲の研究開発を行ってはいますが、失敗続きでしてね。しかし貴国の技術力は素晴らしい水準を誇っていると、聞き及んでおります。是非、ご教授賜りたく思います」
そんなトルーマンの言葉に、ダラティエは遠慮がちにかぶりを振った。
「誇るべきは貴方がた、アメリカ合衆国海軍でありますよ。まさか『Y』級戦艦に匹敵する超弩級戦艦を、本当に建造してしまったとは……」
トルーマンは頷いた。
「確かに我が国の建艦技術は優秀です。ですが、『パリ海軍軍縮会議』が成れば、これらの戦艦は廃艦または予備役に回されることとなるのです」
『パリ海軍軍縮会議』――1946年中に開催される予定のその国際会議は、EU及び米海軍の艦艇保有数を制限・決定するものだった。その由来は言わずもがな、1922年の『ワシントン海軍軍縮会議』、そして1930年・1935年の『第一次・第二次ロンドン海軍軍縮会議』である。この3つの会議では、列強海軍の戦艦・航空母艦・補助艦艇の保有量を制限するためのもので、“海軍休日”――『ネイバル・ホリデー』に繋がっていく。
そして1946年、史実では大日本帝国が終戦を迎え、『日本国憲法』が制定・施行されたこの年、世界は戦艦『Y』やEU体制によって激化する建艦競争に衰えを見せ始めた。それに歯止めを掛け、膨張した海軍を縮小するのが、今回の『パリ海軍軍縮会議』の目的であった。
また同時に、米国の企てでもあった。即ち、急速な軍備拡張で米国を脅かすEUを矯正し、世界一の海軍国家としての地位を不動のものとする――それが『パリ海軍軍縮会議』の全貌であった。軍縮会議の立案者はウィリアム・D・リーヒ大将。そしてそれに同調する国こそが、EU主要加盟国の一国――フランスであった。
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