第124話 世界最強の機動艦隊
【1946年――1942年11月から約2年5ヶ月に及んだ『欧ソ戦争』が終結し、平和な時代への歩みを進めたかに見えた世界だったが、その水面下の動きは戦争に備えたものであった。『ヘルシンキ講和会議』において、かつて世界を三分していた勢力の1つだったソ連が瓦解し、その領土と人民、資産・軍隊をEU(ヨーロッパ同盟)が呑み込んだがために起きた“不均衡”。世界は圧倒的ウェイトを占めるEUと、世界最大の経済力を誇っていた米国によって二分され、世界はそのいずれかの両陣営に加担しなければならなかった。その結果、両陣営の対立はより深刻化し、各国の首脳達は軍備増強という平和に反した行為を、欧ソ戦争終結から1年も経たないうちに行ったのである】
(伊藤整一口述回顧録-第12部1章『欧ソ戦争の結末』より抜粋)
第124話『世界最強の機動艦隊』
1946年1月14日
神奈川県/横須賀
史実の1941年12月8日、米国人の意表を突いてハワイオアフ島の真珠湾を奇襲したのは、空母6隻を中核とする南雲機動部隊だった。その行為は当時、大艦巨砲主義を貫き、戦艦が航空機によって沈められる筈が無いと信じて疑わなかった世界にとって、まさに天佑とも思えるものだった。事実、真珠湾奇襲は数多くの偶然が重なった“奇跡”と言わざるを得ない。北海道の択捉島からハワイ諸島まで、荒波高し北太平洋を迂回しつつ進んだその航路、凡そ6000km以上を米軍に見つからず進み、尚且つ米兵の思い込みが功を奏し、航空機による奇襲攻撃を成し遂げたのだ。これを天佑と言わず、何と言うだろうか? それは結果的に航空機の有用性を証明し、同時に戦艦の無能ぶりを示すこととなった。
だが今物語において、『大和』が戦艦『Y』という名称の下、世界に公表されると、列強各国の海軍は超弩級戦艦の建造を推し進めることとなった。だが勿論、空母の存在を完全に不要であるとは考えてはいなかった。米英海軍は既存の空母建艦技術を柱としながらも、新機軸の技術を取り込み、発展させた。また『ヴェルサイユ条約』で大海軍の保有を禁じられていたドイツは各国空母を参考としつつ、独自の技術を加えた空母の建造に臨んだ。
そして、その空母開発で最も先進国だった大日本帝国とイタリアは、どの国も真似出来ないであろう新機軸の技術を採用した――“次世代の空母”の開発に取り組んでいた。
「――『アングルドデッキ』」
横須賀にある海軍御用達の料亭『小松』の一室で、その時代にそぐわぬ単語を発したのは、『大和会』当主にして帝国海軍海上護衛総隊司令長官の藤伊一中将だった。その単語――アングルドデッキとは、史実では1950年代、イギリスの手によって誕生した斜め飛行甲板である。いくら『大和会』が未来から舞い戻ってきた、と言ってもそれは1946年のことだ。約6年後に周知の技術となるそれを本来、『大和会』の彼らが知っている筈が無いのだ。
「アングルドデッキですか……」『鬼多聞』で知られる帝国海軍の猛将、山口多聞中将は渋面を浮かべ、静かに呟いた。「要は飛行甲板に斜めにして着艦専用の第2の滑走路を作り、艦載機の発着艦作業を円滑とすると……。イタ公の考えることは中々に理解出来んです」
「だが、その実用性は君が1番良く知っておるだろう?」
海相山本五十六は酒の注がれた盃を手に持ち、怪訝な顔を浮かべる山口に不敵な笑みを見せた。実はアングルドデッキを導入するに当たり、とある実験を行っていたのだ。それは空母『蒼龍』の飛行甲板に斜め10度のラインを引く――というものだった。これは帝国海軍に対し、イタリア海軍が行った提案であり、結果的にこの実験は成功した。そしてこの時、その実験に携わったのが、空母『蒼龍』と馴染み深い男――山口多聞中将であった。
1944年当時、第一航空艦隊第二機動部隊(空母『蒼龍』、空母『飛龍』)司令官の職に就いていた彼は、このアングルドデッキ実験の責任者として、実際にその成功を確認した人物だった。彼は帝国海軍においては保守的な部類の男であったが、それ以前にこのアングルドデッキ自体があまりにも異様なものであった。言ってみれば、空母というのは“下駄”である。その下駄の片側に削り、斜めにしたのがアングルドデッキだ。それは従来の空母の艦形からはかけ離れており、保守的な帝国海軍としては認め辛い存在と言えたのである。ところが、現場のパイロットや整備兵はこの斜め甲板を高く評価していた。それに流石の彼も反論出来なくなり、結果として渋々ながらもこの新技術を認めたのである。
「兵達が良いと言うのならば、何も言いますまい」
「善き上官を持って、『蒼龍』の兵達は幸せだな」
連合艦隊司令長官の吉田善吾大将は、微笑を浮かべて言った。「しかし、私も最初はあのアングルドデッキとやらを信用することは出来んかったよ。伊藤閣下もまた然り、誰もがそうだったのだ」吉田は言った。「だから肩の力を抜いてくれ。そして何か不備があれば、遠慮なく言ってくれよ?」
山口は頷いた。「ところで閣下、『二航艦』の人事はどうなりました?」
「二航艦か……。やはり司令長官は小沢に決まったよ」吉田は言った。「五機戦(第五機動部隊:空母『大鳳』『蒼鳳』)司令官は横井、六機戦(第六機動部隊:空母『天城』『焔龍』)には菊池、七機戦(第七機動部隊:空母『翔鳳』『海鳳』)には岡田、そして八機戦(第八機動部隊:空母『鳳鸞』『翔鸞』)には源田を組んだ。新進気鋭の航空屋達だ。航空士官にも、実戦経験の豊富な者と、練度の低い新米を共に組ませ、切磋琢磨させるつもりだよ」
第二航空艦隊――史実では1944年6月に創設され、フィリピン防衛ため台湾各地にその戦力を配備された航空艦隊である。しかし今物語における第二航空艦隊は正規空母計8隻・軽空母計4隻(『神鷹』『海鷹』『蒼鷹』『千歳』)の12隻、即ち4個機動部隊(正規空母2隻・軽空母1隻)によって編制された空母機動艦隊であった。しかし、現時点で就役しているのは空母『大鳳』(同型1隻)、『雲龍』型空母『蒼鳳』『天城』『翔鳳』の計4隻と軽空母4隻であり、残りの正規空母4隻は建造途中の段階だった。
「これで我が帝国海軍は正規空母を計16隻、配備することになる」
正規空母計16隻。それは米海軍に匹敵――少なくとも『エセックス』級建造数が少ない現時点では――する規模の戦力であった。ここに帝国海軍は初めて、米海軍と肩を並べられるまでに至ったのである。しかも、ここには数えられてはいないが、“第七艦隊”の空母『サラトガ』と『インディペンデンス』、そしてエセックス級空母を模した『蜃龍』型空母2隻も存在していた。また、ソ連海軍から鹵獲した空母もある。これらを含めれば、帝国海軍は20隻以上の正規空母を保有していることになるのだ。それでも、『レキシントン』級や『ヨークタウン』級を保有している米海軍には数で負けるのだが……。しかし、帝国海軍の機動戦力が史実よりも圧倒的に多いのは言うまでも無い事実であった。
「ようやく数では拮抗したな」吉田は言った。
「問題なのは、むしろハードウェアよりもソフトウェアです」藤伊は言った。「史実でも、我が海軍はその点をよく理解しようとせず、負けました。ダメージコントロール、レーダー、ソナー、航空機、そしてVT信管に輪形陣。いずれも米海軍が世界最強の機動艦隊足り得ていた要素です。これらを満たさなければ、我が海軍の空母はそれこそ、洋上に浮かぶ只の“下駄”に過ぎないのです」
山本は頷いた。「とはいえ、ハードもしっかりしていければ。我が国はアメリカのように豊かな経済力を有している訳ではない。だから何隻も空母を喪う訳にはいかんのです」
「その結果が『鳳鸞』型……という訳ですからな」
吉田が言う『鳳鸞』型――とは、帝国海軍が誇る新鋭大型装甲空母である。
その性能諸元は――。
■『鳳鸞型航空母艦』性能諸元
基準排水量:47,000t
全長:298.6m
全幅:41.4m
吃水:10.3m
機関
主缶:ロ式艦本式専焼缶×12基
主機:艦本式高中低圧ギヤード・タービン×4基4軸
出力:208,000馬力
最高速力:32ノット
航続距離:18ノットにて10,000海里
兵装
50口径三式12.7cm連装高角砲:8基
60口径ボ式40mm四連装機関砲:20基
60口径九六式25mm三連装高角機関銃:20基
三式12cm二八連装噴進砲:2基
装甲
飛行甲板:95mm
舷側:170mm
搭載機数:80機(常用)
:10機(補用)
――であった。
『改大鳳型』航空母艦(基準排水量35,000t)の拡張発展型たる『鳳鸞』型航空母艦は、帝国海軍として、そして世界として初めて“アングルドデッキ”を採用した大型装甲航空母艦である。その設計自体は英海軍の『イラストリアス』級と、イタリア海軍の“45,000t級装甲空母案”からの影響が強い。また、実験艦でもある装甲大型空母『大鳳』の運用データも視野に入れた設計となっていた。これら3隻の空母から固まった『鳳鸞』型――マル5計画『G14』空母は、500kg爆弾の直撃にも耐え得る装甲、水中防御を、『大鳳』のTNT炸薬換算300kgから400kg相当への強化、噴進砲やボ式40mm機関砲による防空能力の拡張等が挙げられ、その開発が進められた。
その結果、『鳳鸞』型は基準排水量47,000t、満載排水量60,000tという驚愕の規模の空母となり、艦政本部は勿論、軍令部や海軍省の面々までをも唖然とさせることとなってしまった。『マル5計画』ではこの『鳳鸞』型空母計3隻の建造が予定されていたが、これだけの規模の空母を建造出来る海軍工廠は早々無かった。呉は『大和』型や『改大和』型の建造や改修に忙しく、佐世保も手一杯。結果的に残されたのが横須賀等の海軍工廠だった。
が、実はこの『鳳鸞』型、イタリア海軍から“アングルドデッキ”技術提供の見返りとして、計2隻の受注が来ており、帝国海軍は計5隻の建造を余儀なくされていたのである。流石にこれだけの規模のものを5隻も建造する余裕は無く、帝国海軍は各海軍工廠の拡張や新工廠の設置、また民間への委託等でこの問題の解決を図った。
「これで『烈風』の運用が叶いますな」
山口は頬を紅く染め、上機嫌に言った。
「まさしく。まぁ、『烈風』は他の正規空母での運用も視野に入れた機体ですが」藤伊は言った。「しかし問題もありましょう。例えば、艦載機の配備が遅れるとか……」
山本は頷いた。「空母が完成しても、艦載機が揃わないという話はざらではありませんからな。ですが、我が国は9年も前から、その点での打開を目指してきたのです。“女子工業学校”の設立、重工業化政策、欧州からの技術流入、ライン生産の実現です」
それは約9年前となる1937年、『大和会』の伊藤整一と、山本、米内、井上らの『海軍三羽烏』が邂逅した時、始めに話し合ったことである。『真珠湾奇襲』という形で、航空機の有用性を証明してしまった山本は、この9年間をその後悔と懺悔に費やしつつも、米国に対抗出来得る“航空機生産大国”に大日本帝国を足り得させることを強く強く誓っていた。それはあまりにも途方無き挑戦であったことは否めない。世界の富を制覇する米国に対し、アジア辺境の島国が対抗しようとはまさに――“夢物語”。そんなことが実現出来ようとは、誰も思わないだろう。
だがしかし、日本は努力した。死に物狂いで頑張った。その結果、各工業地帯は日夜多数の航空機を生産し、それを次々と前線に送り込めるまでに成長した。そして大国ソ連に勝利したのである。
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