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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第2章 戦前の大和~1938年
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第13話 水ガソリン詐欺事件

 第13話『水ガソリン詐欺事件』

 

 

 【この経験は、結果的には私にも山本閣下にも、上手く作用したと確信している。何故なら、海軍は私が想像していた以上に『精神論』を重視し、『化学』に疎い組織として変わっていなかったからだ。本多維富という魔術師は居なかったが、預言者は居た。本多は『水』から『油』は造れなかった。しかし、海軍が進むべき道を示したのだ】

 

 (伊藤整一口述回顧録-第6部第1章『水ガソリン事件』より抜粋)

 

 

 1938年9月21日

 東京府

 

 伊藤は、薬品と欺瞞の入り混じった臭いの充満する実験室内で、眼前に居座る無礼な男を見張った。ビーカーを持ち、芝居掛かった弁を弄する“自称町の化学者”――は、言うまでもなく、化学者ではなかった。伊藤はそれまで噂と信じて疑わなかった話を思い浮かべながら、『奇跡』を実演しようとしているこの男の姿を、渋面を浮かべながら見据え続けた。

 

 事の発端は1938年、実業家辻嘉六の元に一人の男が現れた所から始まった。男の名は――本多維富。自称『町の化学者』を謳う本多は、気味の悪い笑みを浮かべ、「水を原料に石油」を造るのに成功した」――と言った。辻は戯言だと思ったが、面白いので実験をその場で実演させてやった。

 辻は只の実業家ではなかった。日本化学産業の代表取締役にして、政界の黒幕的存在だった。原敬存命時には深い親交があり、立憲政友会の黒幕だった。亡命中の孫文を援助した事もあった。戦時も戦後も戦前も、生があり地に2本足を着けて、脳を働かせている時は政界を影から操り、常に黒幕に徹して表舞台にはあまり立とうとしない人物だった。そんな男だが、本多の口達者ぶりによって騙されたのか、それとも目が節穴で水入りの瓶を石油入りの瓶にすり替えた事に気付かなかったのか、とにもかくにも本多の実験は成功し、辻は信じ込んでしまった。そして、辻は本多に対し、資金提供を約束した。そして、辻は本多が造ったガソリンを乗用車に使い、方々に自慢して回った。

 伊藤がその余波を受けるのに、そう時間は掛からなかった。政界に広まる噂の波は、米内との懇談時に到達した。米内は意気揚々と伊藤に告げた。「近衛総理から聞いたのだが、何でも『水』から『石油』を造ってしまう天才が居るのだそうな」と、米内は嬉々として言った。「これは帝国千年と言わず、永久の繁栄を約束されたのではないか?」

 伊藤は渋面を浮かべ、引き攣った笑顔を見せる以外に何も出来なかった。この頃、事件は既に動き始めていたからだ。米内は海軍省の内部部局、『軍需局』局長の氏家機関中将にその男の事を伝えていた。史実通り、氏家はそんな噂を信じようとはせず、それを『詐欺行為』だとして、軍需局では受け入れるべきではないと結論付けられた。やがて本多が軍需局を訪れ、実験の申込みを申請したが、軍需局はこれを拒否し、相手にしなかった。

 予想を裏切られた本多は次に、海軍航空本部へと向かった。その名の通り、航空機や航空兵器を研究・開発し、航空要員の育成に励むこの組織であれば、航空機用にと、この嘘が信じられ、大量の予算を騙し取れると考えたからだろう。

 まず、本多は海軍航空本部教育部長の大西龍治郎少佐――後の前代未聞の奇襲作戦『真珠湾攻撃』の立役者にして非人道的奇襲戦法『特攻』開発関係者――に近付き、弁を振るった。大西はこれで本多を信用し、航空本部長豊田貞次郎中将や、海軍次官山本五十六中将等に働き掛けて、海軍管理下での実験が承諾された。それが今日、伊藤の眼前で繰り広げられていた。

 

 

 当時、海軍内に居た頃、伊藤は今回の実験ではなく、別の実験についての噂を聞いた事があった。史実では続きがある。何度も言う様に、本多は『水』を『石油』に変えられるとしたが、それを信じる者は居なかった。しかし、何には信じる者が居た。それが大西、石川、豊田、そして山本等である。この中でも、石川信吾大佐は異色な存在だった。横須賀軍需部総務課長という職に着き、軍需の面を知っていた彼は、本多の発見に感銘を受けていた。それが尋常なものではなく異常で、常軌を逸していた――といっても過言ではなかった。

 史実では、今回の第1回目の実験は――成功しなかった。本多はすり替え不可能と判断したのか、体調不良を訴えて実験を中止、逃げ帰ってしまう。これに元々疑心暗鬼の目で見ていた海軍関係者達は本多を詐欺師と結論付けたが、石川は違った。

 「実験が失敗したのは、彼を信じていない人間があの場に居たからです!」そう言ったのは、何を隠そう石川だった。海軍きっての政治将校だった彼は、対外交渉ではその才能をいかんなく発揮した。しかし、その口達者な彼も、元々自然の法則に逆らっている本多のペテンに際しては、旧海軍らしい科学軽視の精神論を飛ばす事しか出来なかった。



 「見世物はここまでですな」

 伊藤は背後を気にし、顔中に汗をかく本多を見て言った。「この男は化学者でもなければ魔術師でもない……詐欺師だ。我々が居眠りでもするのを待っていたようだが、どうやら今日は駄目だと判断されたらしい。お引き取り願いましょう……」

 「なッ……」本多は後ずさりした。「何を申されるかと思えば。私が詐欺……、詐欺師とは!!」

 明らかな動揺の色に気付いた山本は、ようやく我に帰った様だった。史実では最後まで山本は騙されていた。実験に立ち会った山本は大福饅頭まで持参し、詐欺師本多に食わせて応援していたほどに、この実験に傾倒していた。

 山本五十六の『名将』神話に大きな傷を付けるこの事件は、最終的には呆気なく終結した。翌年、海軍航空本部で行われた実験は昼夜3日間掛けて行われた。30名程の監視員達が衰弱の色を見せ、居眠りした後、本多の手によって確かにビーカー内の『水』は『石油』に変貌していた。軍需局から派遣された渡辺監視員は、こんな事もあろうかと実験用ビーカーの全ては番号付けして記録していた為、これはすり替えられた物と見破られ、本多は警察に引き渡された。

 事件後、大西は詐欺の詐術を見破った関係者達に謝り、全ての人間に侘びの手紙を書いて送った。しかし、山本は謝りもしなかった。やはり、エリートであり、中将であるが故のプライドの問題なのだろう。訪米経験を持ち、かのハーバード大学で勉学に励み、航空機の有用性を一早く気付いた人物だが、自然科学に関する知識は殆ど持ち合わせていなかった。英語は達者で、外交交渉ではわざわざ通訳を付け、相手の態度や表情を見たり、駆け引きの時間を延ばす等、優れた軍政家だった。しかし、それと同時に彼は、水から石油が造れると本気で考えていた人間でもあった。

 史実より早く、事件は解決した。藤伊中将――伊藤整一中将――の進言により、山本・大西らは本多を追い返した。ただ、石川だけは相も変わらず「実験は成功する筈だった。誰かのせいで潰れた」と発言し続けた。史実と違う点は、実験が成功しなかった。(水入りビーカーを石油入りにすり替えられなかった)為、史実では「成功」と言っていたが、「成功する筈だった」と改変された点である。そして史実通り、大西は謝罪したが、山本が頭を下げる事はなかった。

 

 

 

 伊藤が暴いた驚くべき事実を前に、まだいささか不機嫌であった山本は、黙然と伊藤の後を通り過ぎ、車に乗り込んだ。慌てて伊藤も乗り込み、車は発進した。

 「……私も馬鹿なものだ」

 山本は言った。この言葉の後に、何かの言葉が継ぎ足される事は無かった。伊藤としては、今回の事件での山本の行動は、『資源確保』への危機感が原因――と、頭の中では考えたかった。しかし、『大和会』の戦後反省会において、多くの民間科学有識者や元海軍関係者達と話していた過去の記憶を振り返ると、海軍の科学軽視は酷かった事は否めなかった。伊藤はこの時、海軍内に蔓延る「精神論」は現状として、タイムスリップした後でも変わっていないと確信した。

 

 

 1938年9月22日

 東京府/青山南町


 その翌日の晩、山本と将棋を一手打った後、伊藤は大日本帝国の新資源について、その場に居た米内、井上を含めて話す事にした。これを話そうと思ったきっかけは、無論昨日の『水ガソリン詐欺事件』である。ただ、過ぎた事を話しても仕方が無いかもしれない――しかし、陸海軍内の溝を埋めない事には絶対に戦争に勝てない事は、戦後の『大和会』戦争反省会において、長く論じられた。実の所、昨日の事件はこれが最初ではない。実際には7年前、陸軍も同様の詐欺に遭っていた。陸軍関係者は海軍にて実験が開始される折、7年前の資料を提供しようとしたが、これを大西大佐は「海軍は海軍のやり方で決める」と一蹴していた。

 「残念だな、やはり嘘だったか……」米内は言った。「しかし、我々にはまだ希望がある。人造石油だ。当面はそれの早期量産化を願おう」

 去年1937年から、大日本帝国では『人造石油製造事業法』が定められた。1913年、フリードリッヒ・ベルギウスによって開発されたベルギウス法が生まれた時点から、人造石油は知られ始めた。他にも、フィッシャー・トロプシュ法もある。ヒトラーの下、ドイツでは人造石油がそれまで以上に造られ、量産化が進められた。努力の末、1940年の時点で年産350万t規模の石油を精製するに至った。

 その例に倣い、日本も人造石油の開発に乗り出した。三井財閥がフィッシャー・トロプシュ法の特許譲渡契約を正式に交わし、ドイツから技術がもたらされた。1940年頃には各工場も次々と完成し、開発が進められたものの、フィッシャー・トロプシュ法での製造は中々難しかった。それに、そもそもフィッシャー・トロプシュ法で造られた油は、航空機に使える代物ではなかった。ドイツでは精製ワックス・潤滑油・油脂等に使用され、航空燃料には殆ど使っていない。

 一方、ベルギウス法は日本ではあまり採用されず、更に優れた水素添加法については、1945年1月。ドイツは終戦間近、日本は敗戦の道の佳境に入った時点で、日本に特許実施権が与えられた。水素添加法では、96オクタン価という高精度の航空燃料を精製出来た。残念ながら、技術・資金・時間等の問題が重なり、日本では実用化されなかった。

 「FT法は航空機には使えんのか」山本は唸った。

 「使えない事もないでしょうが、低オクタン価では先が見えています」伊藤は言った。「この際、本土と満州国に造る人造石油施設は、ベルギウス法か水素添加法に統一した方が良いでしょう」

 「とはいえ、水素添加法は確立もされておらんではないか」米内は言った。「如何にして引き出すのだ?技術協定を使うのか?」

 伊藤は頷いた。「しかし、不安な点もありましてね」

 「何です?」井上は言った。「それに見合った技術なら、帝国には幾つかあるのでは?」

 「そうですが、本当にドイツが合意するかどうか……」

 基本、96オクタン価のガソリンを精製出来る水素添加法は、高オクタン価の航空揮発油を望む帝国海軍にとっては必要不可欠なものだった。

 

 

 無論、最終目標は100オクタン価ガソリンの国内量産化だが、その精製技術は現在、米国の手中にあって、日本には届かぬものだった。

 

 

 

 




 

 

 

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