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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第2章 戦前の大和~1938年
12/182

第12話 聖火の道は帝都に通ず

 第12話『聖火の道は帝都に通ず』

 

 

 1938年8月16日

 東京府/荏原群


 伊藤が最後に駒沢ゴルフ場としての姿を見る事が出来たのは、去年の暮れの事である。現在、建設作業が急ピッチで進められる駒沢ゴルフ場敷地には、複数の競技場の骨組みが立ち、空に向かって伸び続けていた。史実では駒沢錬兵場として、軍国色に塗り替えられたこの土地も、改変された“新歴史”の中では、1940年に控えた夏季オリンピックの会場建設地として、国際協調とアジアの地位の確立を目標に、完成が急がれていた。

 史実、1940年度の東京夏季オリンピックは、日中戦争の煽りを受けて中止された。長期化する中国戦線を見越した陸軍は、「戦略物資の確保の為鉄鋼を用いず、木材か石材を使え」などと無理な注文を出した。また、杉本元陸軍大臣もオリンピックの中止を発言したり、河野一郎といった議員らの猛反対もあり、結局1938年7月15日の閣議を持って、正式に開催権を返上する。この結果は、当時にして90万円もの五輪関係費用と国際関係を溝に捨ててしまう様なものだった。そして、解散権返上から数えてその1ヶ月後に当たる8月16日、日独友好関係を深めるヒトラーユーゲント訪日が実現する。


 

 

 『目指すは体育青少年!!』


 その様なフレーズが流行り出したのは、今日1938年8月16日からの事だった。その日、大日本帝国には盟友ドイツ――第三帝国の青年団、ヒトラーユーゲントが訪日していた。陸軍主導の下、行われた訪日歓迎のムードだが、史実程には国民も熱を上げていなかった。これもまた、海軍と政府内に対独意識を広めた謎の提督、藤伊一中将――伊藤と『大和会』による工作の賜物と言えた。対独親米英を謳う彼は、日独伊三国同盟締結の阻止の為にも、日本国民にドイツの歓迎ムードを作らせてはならないと考えていた。そこで彼は『大和会』の一員であり、元陸軍対独情報士官であった原茂也の収集した数枚のフィルムや写真を、各地にて公開する事にした。中身はヒトラーユーゲントの活動である。

 伊藤はその中に何があるかは知らなかったが、それを見てようやく気付いた。それは、全裸で海辺を駆け、無邪気に触れ合う青少年少女達の映像だった。ヨーロッパであれば、開放的なレクリエーションの一環と言って済ませられるだろうが、日本では訳が違う。不謹慎、淫ら、野蛮等の単語で片付けられ、ドイツの国民性のイメージダウンに繋がってしまうだろう。それが原の思惑だった。

 他にも映像はあった。例えば、ヒトラーユーゲント同士の殴り合いである。ヒトラーユーゲントは軍事教練ではなく、スポーツ活動や山林での交流を行う。言わばキャンプである。しかし、その中には必ず戦争を意識した行動が含まれていた。その中でも顕著な例が、殴り合いだった。『身体による交流』と位置付けられ、青少年同士が本気の殴り合いを展開した。やがて1940年頃になると、これまでのキャンプ気分から一線を脱した、軍事教練キャンプ(通称WE)が設置され、ヒトラーユーゲントはこれまでのスポーツを用いた精神向上の場ではなく、兵士としての訓練を施された。


 この上記のフレーズが生まれたのは、ヒトラーユーゲント訪日の影響が一重に大きかった。手本にする――というよりは、4年前のベルリン五輪で、開催国にして計89個ものメダルを獲得したドイツへの対抗心の現れの意味合いの方が要因としては強かった。その当時、日本は18個という大量のメダルを獲得した。その数は先進国にあった筈のイギリス・オランダを上回り、確かに日本国民も歓喜に湧いた。

 しかし、国民は更なる躍進を欲した。アジア初のオリンピック開催国として、欧米諸国に一泡吹かせたいという欲があった。伊藤等が流したドイツ不信の噂もまた、その思想を後押しした。

 

 

 駒沢の五輪主会場では、何もかもが揃っていた。重機、工作機器、外国人建築家、車など、普段であれば軍備拡張の懸念から渋られる大量の先端技術の日本への輸出も、『国際協調の場、スポーツの祭典の構築とアジア繁栄の為』という名目の下であれば、何とか許された。出し渋っていた米英はようやく、更なる工作機械、石油、鋼鉄の輸出を許可し、日本に送り届けた。ただ、それらの多くは帝都のインフラ整備のみならず、陸海軍や一般産業の増強に使われた。

 「零式輸送機の開発が始まったと聞きましたが?」駒沢町を駆け抜ける一台の黒塗りの車。その車内には、伊藤と山本五十六中将の姿があった。伊藤は山本に対し、『零式輸送機』の開発の進捗具合を訊ねていた。

 「金星は既に現存の稼働器がありますからな。それを基に開発した金星四三型の量産が早くて来年頃に始まれば、零式と言わず、九九式輸送機として海軍にも納入されるでしょう」山本は嬉々として言った。「五輪が始まる頃には、国内線や東南アジア方面の空路から成る国際線で存分に成果を発揮する事でしょう」

 零式輸送機とは、大日本帝国海軍の主力輸送機である。三井系列の新設企業である昭和飛行機工業は当時のベストセラー旅客機、ダグラスDC-3のライセンス生産権を取得、国産化された機体が、この零式輸送機であった。

 1937年6月5日、設立された昭和飛行機工業だが、その経験の無さと設備不足が仇となった。ライセンス生産の権利を獲得したものの、その時には大規模な工場すらなかった。一から施設を建て、1938年頃から工場は稼働を始めたはいいが、DC-3の国産化には未だ及んでいなかった。3年という開発期間を経て、完成したDC-3国産機は『零式輸送機』と名付けられ、海軍に納入された。

 今歴史において、零式輸送機の開発は比較的スムーズに行きそうだった。『橘花』開発にも関わっていた山崎功治技師は中島飛行機時代、この零式輸送機一一型の開発に少なからず絡んでいた。横須賀の海軍航空廠の『橘花』開発と並行して、零式輸送機の開発にも携わった。

 零式輸送機の開発はなるべく急がされていた。その一因にあったのは、東京五輪である。日本での開催を望まない「地理上の不便さを解消する為」「アジアへの交通の便を良くする為」として、日本は米国に旅客機用にと航空揮発油と工作機械の輸出を求めた。それに並行し、『真の国際空港建造』(その当時はフランス領インドシナへ向けた国際線の運路が活発化し、それに併せて『東京国際飛行場』と言われていた)と称し、東京飛行場の拡張工事も進んでいたが、全ては後の日米間戦争に備えたものだった。海軍内でも有数の航空輸送プラットホームである零式輸送機は必要不可欠であり、なるべく早い量産が求められた。そして、東京飛行場の拡張は、後々に造られる予定である『富嶽』戦略爆撃機や各種軍用輸送機用の、設備補填の作業であった。圧倒的な潜水艦を送り出せる米海軍に対し、空は安全な輸送路の一つである。故にそこから何らかの可能性を見出す事は必要だろうと伊藤は考えていた。

 また、この頃には東京オリンピックに向けた、東京-ヨーロッパ間、東京-アメリカ間直通便計画の一環として、長距離旅客機・輸送機の名目で『キ74』『キ77』等の開発も、史実より早く始まっていた。

 

 

 こうして、米英から資源・工作機械、技術等を輸入し、東京オリンピックに向けた東京市開発は工業力の増強とともに進んだ。1940年、オリンピックによる経済効果の恩恵を受ける頃には、日本国内のインフラは整えられ、大日本帝国軍は潤沢な資源と精密機械を蓄える事が出来た。聖火の火種が満州国を通過し、日本列島へと持って行かれる時には、既に廃れつつあった対日意識も立ち戻るが、後に勃発する劇的事件により、対日意識は忘れ去られ、別のある国が同様の立場に立たされる事となるが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 更に日は戻り、その同年、1940年2月。冬季札幌五輪も開催され、盛況の中閉幕する。

 

 二つの五輪を迎え、見事に成功させた大日本帝国は工業力の大きな躍進と、諸外国からの信頼を勝ち取った。潤沢となる経済で基盤を盤石のものとし、伊藤らによる技術革新を遂げた大日本帝国は――もう一つの1940代を歩んで行く事となる。

 

 

 

 


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