第111話 スターリングラードの通り魔(後)
第111話『スターリングラードの通り魔(後)』
1945年2月17日
ソビエト社会主義共和国連邦/ヴォルゴグラード州
混沌と恐怖に満ち溢れた灰色の空。途切れぬ雲の如く、EU空軍の戦略爆撃機が切れ間なき戦列を成し、その眼下に広がる英雄都市スターリングラードを灰塵に変えて行く。そんな中、ソ連空軍のレフ・L・シェスタコフ中佐は、出し抜けの衝撃を喰らった。瞳に映るは、一機のJu87『シュトゥーカ』急降下爆撃機。空戦能力に欠け、ソ連戦闘機乗りにとっての『カモ』――である筈のそのJu87を見て、シェスタコフは体を強張らせた。
――“鴨”が“猛禽”を啄んで……いや、貪っている。
“猛禽”――と彼の言うそれは、自身も愛用しているソ連空軍の主力戦闘機『La-5』だ。『保証付きの塗装済棺桶』と揶揄された『LaGG-3』を改造、発展させた同機は、その性能面においてMe109と遜色無い出来上がりだった。史実では『スターリングラード攻防戦』を初披露の場とし、活躍した。その後、転換期である『クルクス会戦』からその姿を数多く見せるようになり、独ソ両軍の力関係が逆転した1944年末、早々とその生産が打ち切られることとなる。多くのエースから愛され、祖国解放に多大な貢献を成した、まさに『救国の戦闘機』――だった。
一方、Ju87『シュトゥーカ』は近代戦争に新たな1ページを刻んだ、歴史的な航空機だった。“急降下爆撃”――という精密対地攻撃能力を付加したその機体、機甲部隊と併用するという運用方法は、何から何までが新鮮で、先進的だった。しかしそれが同時に、運用者たるドイツ空軍の首を絞めるとは、歴史を知る者しか完全には把握し得なかっただろう。急降下爆撃に固執したヘルマン・ゲーリング国家元帥や、Ju87が開戦初期に見せた多大な戦果を過信する空軍上層部、そしてJu87とドイツ空軍の活躍を疑わぬドイツ国民の手によって、Ju87は“神格化”されたのである。実際、同機は大戦を通じて数多くの連合国軍の戦車、装甲車輛、列車、艦艇を撃破しており、連合国軍に恐怖を与えていた。
その恐怖の中でも飛び抜けていたのが、スツーカ・エース――ハンス・ウルリッヒ・ルーデル少佐であった。彼は史実、ソ連戦車500両以上と800台の車輛を撃破するという人間離れした大戦果を挙げ、ドイツ空軍からナチ幹部、ドイツ国民、そして総統ヒトラーから賞賛を浴びた。そして現代において、その驚くべく戦果は戦争を実際に見たことも無い人間でさえ愕然とさせている。
そんなルーデルは今、Ju87G『カノーネンフォーゲル』を駆り、ソ連空軍のLa-5戦闘機編隊を恐怖のどん底に突き落としていた。本来、狩られる筈の獲物がLa-5の一機を軽々と撃墜してしまったのだ。シェスタコフはその一部始終を見ていた。鈍重なJu87とは思えない柔軟な機動を見せ、La-5の側面に回り込むJu87G。その姿はさながら、獲物を追い立てる鷲の如く。鋭利な鍵爪――Flak18-37mm航空機関砲2門を獲物たるLa-5の脇腹に容赦無く突き立てる。火焔――という名の、鮮紅な血液を噴き出し、La-5は思わずよろめいた。何しろ、相手が持つFlak18機関砲は、口径37mmを誇る大口径機関砲だった。元々はソ連軍戦車を撃破すべく、改良の繰り返されたその機関砲の破壊力は凄まじかった。La-5の比較的強靭な機体外面が呆気無く引き千切られ、無様に炎と黒煙を漏らす。制御を失ったLa-5にもはや、生き残れる可能性は無かった。問題はそこに搭乗するパイロットだが、この時期には多くの戦闘機からパラシュートの姿は消えていた。無論、このLa-5とて例外ではない。撃墜された時点で、La-5戦闘機には何の救済策も取られていなかったのだ。
撃墜すれば、ソ連軍かEU軍のどちらの陣営によって回収される。遺体などはお構いなしである。かつて戦闘機パイロットだったであろう肉片等を素早く片し、機体の解体して、使える部品や資材の類を掻き集める。EU軍にとって、未だ完全な補給線が確保されていないスターリングラードとソ連南部を巡る戦いは、このように現地調達が主であった。また補給の限られたソ連軍にとっても、それは同じである。
ソ連国内に豊富に存在する木材でその機体を構成されるLa-5は、両軍においても貴重な資源の一つだった。『冬将軍』に支配された厳寒なるスターリングラードの街で生き残るための薪、La-5や別の航空機を修繕するための資材、そして時には非常時の食糧として、兵士の腹を満たすこともあった。故に撃墜されたLa-5は、今日も今日とて回収されるのだ。
閑話休題。Ju87Gの37mm機関砲が放った火箭に貫かれたLa-5戦闘機が、白煙と火を噴き、錐揉みしながら真下に墜ちて行くそんな光景。まるで時が止まったかのように、レフ・L・シェスタコフ中佐の瞳に焼き付いていく。しかし戦況は刻一刻と変化する。眼下の光景に目を取られていた彼が顔を上げると、既に戦いは、次の場面へとカットインされていた。
Me262『シュヴァルベ』ジェット戦闘機の機影と、『BI-3』ロケット戦闘機の機影が空域に現れ、激烈な機銃掃射の応酬が始まっていた。あまりの変化にシェスタコフはついていけなかった。プロペラを持たない双方の機影は、橙色の火焔の尾を引きつつ、疾風怒濤の奔りを見せた。高温高圧の排気ガスを噴出させ、爆発的なエネルギーを得て疾駆する双方の機影。そこかしこから爆音が轟き、閃光と衝撃がその場全てを支配した。Me262ジェット戦闘機がR4M『オルカン』55mmロケット弾を突き放ち、BI-3ロケット戦闘機がその身を翻しながら、『NS-45』45mm機関砲2門を咆哮させた。『NS-37』37mm機関砲を発展させたNS-45は、史実では信頼性の無さから制式採用の成らなかった航空兵器だが、EU空軍によって制空権を蹂躙されている今物語のソ連では、1944年に早々と制式採用されていた。
口径47mmという大口径砲弾は、EU空軍の重爆を一撃で撃破する破壊力を秘めていたが、その低発射速度と反動は目標に命中させることを困難にしている。目標が戦闘機ともなれば、その命中精度は壊滅的だった。そして特に、爆発的なロケット推進によって常に衝撃に襲われているBI戦闘機にとってしてみれば、このNS-47との相性は抜群に悪かった。しかも相手は戦闘機――それも、遷音速で飛翔するMe262である。大火力のみが先行するNS-47の攻撃は、明後日の方向へと去って行った。それどころか、重量のあるNS-47は、ただでさえ稼働時間の短いBIのロケット推進機関に負担を与えていた。
「くそッ! もう燃料切れだとぉぉぉッッ!?」
BIロケット戦闘機のパイロット達は、従来よりも短い稼働時間に愕然とした。ロケット推進を得ないBIは、ただの平凡な戦闘機である。更に大重量のNS-47を積んだBI-3は、Ju87にその機動力で負ける始末だった。僅か5分足らずで終わった遷音速の空中戦は一転、阿鼻叫喚の虐殺現場へと早代わりした。命中精度の劣悪なNS-47は無駄弾を空に向けて打ち放つお荷物と化し、先程までは同等に立ち回れていていた筈のMe262は、到底勝ち目の無い敵となった。ソ連空軍ロケット迎撃戦闘機部隊の士気は、容赦なく崩れ始める。鋼鉄と閃光の洗礼が、BI-3の脆弱な機体に降り注いだ。
「もうこれで終わりか……」
ドイツ空軍第7教導航空団司令、アドルフ・ガーランド少将はMe262のコクピットの中で、静かに呟いた。今物語のドイツ空軍で“一人前”――と認められる150機撃墜の王台を突破した彼だが、その戦績に見合わず、未だに少将という階級であった。無論、それが空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥への反抗心から得た結果である。かつて戦闘機パイロットでありながら、戦闘機パイロットを毛嫌いするゲーリング。その中でも、Me262のようなジェット戦闘機のパイロットを特に嫌悪していた彼にとって、反発的な言動の目立つガーランドは、目の上のタンコブのようなものだった。出来るものなら、どこかの空軍基地司令へと左遷してやりたいと常日頃考えていたが、EUでも評判の高いガーランドにそうような仕打ちをする訳にもいかず、結果として階級を上げてやらないというケチな苛めにつとめていた。
味方を次々と撃墜され、唖然とするシェスタコフだったが、一息吐いて、何事も無かったかのように戦闘を再開した。獲物はあのJu87Gである。空を駆るJu87Gは猛然と急降下し、地上のT-34中戦車部隊に向けて、37mm機関砲と250kg爆弾による銃爆撃の往来を続けていた。T-34は火を噴き、沈黙する。気付けば1個小隊規模のT-34が犠牲となっており、シェスタコフとしても看過出来なかった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおッッッ!!」
突撃するLa-5の銃撃に一瞬の途切れは無い。ShVAK20mm機関砲は、銃身も焼けんばかりに撃ち続けた。その怒涛の攻撃を前に、Ju87Gに随伴していたJu87の一機が撃墜され、真っ赤な火を噴いた。
だがJu87G――『ソ連人民最大の敵』ことハンス・ウルリッヒ・ルーデル少佐は、連続する火箭を奇跡のように掻い潜って、みるみる間にLa-5とシェスタコフに迫った。その光景を間近に見たシェスタコフは驚く以上に呆れた。何故、あのJu87でこの銃撃を避けれるんだ、と。
その理由はルーデルだからである。戦争を通じ、その身を犠牲しながらも数多くの困難を乗り越えてきた彼はまさに“不死身”――いや、『魔王』であった。魔王が操るJu87G――魔笛は急旋回から迸る、悲鳴にも似た奇声を発し、シェスタコフに襲い掛かる。La-5の背後を取ったJu87Gは、その主砲たるFlak18-37mm機関砲を咆哮させた。元は対戦車砲だった37mm機関砲が実現する、圧倒的な火力。それは木製のLa-5にとって、破格とも言える威力の攻撃であった。
「ぐッ……ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」
37mm機関砲の射撃はコクピットを粉砕し、シェスタコフの右肩を抉り取った。銃創――というよりも、まるで獣に食い千切られたかのようなその傷口からは、どくどくと紅い血が溢れ出していた。肉が焦げたような匂いが鼻を突き、シェスタコフは思わず嗚咽した。痛み痛み痛み……生まれてこの方、知り得なかった衝撃的な痛みが彼の身体に伸し掛かっていた。四肢は悲鳴を上げ、胃は不気味に痙攣し、歯茎は自然と震えている。血の巡りが悪くなっているのか、全身に寒気を感じる。そもそもコクピットを破壊されていて、しかも外は2月の厳寒なスターリングラードの空である。これに寒さを感じないという方が、異常であるというものだ。しかし、その震えと寒さは尋常なものでは無かった。
「く……くそ……ッ……」
彼はそこで意識を失った。
1945年2月17日のスターリングラードの制空権を巡る大空戦は、EU空軍の勝利によってその幕を閉じた。当初は優勢だったソ連空軍だったが、第7教導航空団の投入と対空砲部隊の配備によって徐々に押され、BIロケット迎撃戦闘機部隊が壊滅したことにより、その趨勢は決した。この戦いで、ソ連空軍側はスターリングラード及びその近域に配備されていた約1200機の戦闘機のうち、800機近くを喪失。エース・パイロット7名が戦死した。その中には、『スターリングラードの白百合』ことリディア・U・リトヴァク中尉や、レフ・L・シェスタコフ中佐の名も連ねられていた。今回の空戦でソ連空軍は制空権を完全に喪失し、ソ連空軍の再建計画は瓦解した。
しかし、『スターリングラード攻防戦』は終わらない。制空権を奪取されたソ連軍はより一層、地下や廃墟にその身を潜ませ、ゲリラ戦を展開するようになった。EU軍は爆撃と物量作戦が功を奏しないことに苛立ちを覚えるようになり、4月には『カフカース地方攻勢』が優先されるようになった。史実のようにこの攻防戦が泥沼化することを恐れたヒトラーの方針決定だ。かくしてスターリングラードからはドイツ軍の戦力が引き抜かれ、防戦一方だったスターリングラードのソ連軍は、漸く立て直しを図ることが出来るようになった。
だが1945年4月、事態は思わぬ方向へと進むこととなる。
ご意見・ご感想等お待ちしております。




