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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第1章 戦前の大和~1937年
11/182

第11話 菊花の蕾は各地に実る

 第11話『菊花の蕾は各地に実る』

 

 

 1937年11月16日

 広島県/呉

 

 伊藤と森下の乗る車両は、午前中半ばに呉軍港内に到着した。港内に位置する呉海軍工廠で停泊する戦艦『大和』は回収された当時、戦時中の武装撤去作業により、3基の45口径46cm3連装砲しか持たなかったが、現在ではその本来の姿を取り戻しつつあった。航空戦力への対応能力を求めた“藤伊一”海軍中将――伊藤整一の『整』を除いたアナグラム名――は、途中で復元計画を変更した。他鹵獲戦艦から失敬した防空レーダーを元に新型電探を搭載し、副砲跡は新型の高角砲で埋め尽くすという計画だった。高角砲も信頼性たるものが求められ、砲弾に関してもVT信管の開発が進められた。鹵獲戦闘艦の対空火器等の中には、そのまま砲弾が詰まっているものもあり、海軍はその砲弾から信管のサンプルを大量に入手出来た。工業力の増強と並行して信管開発は進められていき、最終的には国産を達した。

 この突然の計画変更に憤りを露にしたのは、海軍上層部だった。昭和天皇、そして米内等の後援で中将階級を戴いた伊藤だが、無論藤伊中将などという海軍提督は誰も知らなかった。更に彼が海軍内に席を置いた瞬間から航空主兵主義を主張したのも、大艦巨砲主義渦巻く海軍内で苛立ちを覚えさせる要因の一つだった。決まっていた筈の『大和型戦艦』建造計画――マル3計画までもが、伊藤の差し金で中断され、大和型戦艦第1番艦『大和』建造が中止。建造費1億円以上は宙に浮いた。

 謎の提督藤伊一について、当時の海軍内では色々な噂が流れたが、中でも顕著な例は山本・井上・米内と繋がっているという噂だった。度々、それら三人との会合、接触が目撃された。そして航空主兵主義を謳う彼を大艦巨砲主義者達は主に『三羽烏の腰巾着』と呼んだ。その事に関して伊藤は何を言うでもなく、沈黙を守り続けたが、身内や三羽烏達には「嘘ではない」と呟いた事もあった。伊藤自身は特に気にしていなかった訳である。

 

 

 彼にはもう一つ、『Mr.海防』という渾名もあった。通商路等、陸海軍の海上の生命線防衛に傾倒した事から付けられた名である。戦争中、海上護衛は軽視されていたが、見直すべきだと伊藤は考えていた。だが、何もそれがその行為自体を軽視してはいないと彼は考えた。

 『短期決戦』を提唱した山本五十六聯合艦隊司令長官は、米英諸国に勝利するには主要海戦にて敵主力艦隊を粉砕する事が重要だと考えていた。圧倒的な国力差、工業力の差を米国留学時代から嫌という程見てきた彼は、帝国海軍が保有する駆逐艦、潜水艦の数では中途半端な海防しか実行出来ないと考えた。一方、アメリカは主要海戦と海防、双方に十分な数の戦力を送り込める。ならば、海上護衛に回す戦力の大半を主力艦隊に回し、数で優位に立って主要海戦に勝利する他無いと彼は考えた。短期決戦という構想を掲げた以上、そうなるのは当然と言えば当然の事だった。

 しかしいざ戦争が始まると、アメリカは長期化させようと画策し、計画は破綻した。かのミッドウェーで大敗を喫し、太平洋上の制空・制海権を奪取されると、帝国海軍は通商路のありがたみを痛感する事になる。長期の戦争の可能性を覚えた伊藤は、それを憂慮した。

 そして『海上護衛隊』構想が挙がったのは、藤伊一中将台頭の直後であった。

 

 

 「しかしまた『大和』を動かせるとは……」森下信衛少将――現在の名は木下攻呉(きのした・こうご)海軍大佐――は、この戦艦『大和』の姿を見るや否や、嬉々として言った。「艦橋でピカドンの奴めを見た時には、もう叶わぬ夢かと思いました」

 伊藤は笑みを浮かべ、子供見たく燥いでいる森下の顔を見据えた。海軍屈指の操艦能力を誇る森下は1944年のレイテ沖海戦にて、神業とも言える技術で幾多の危機を乗り越えた経験を持つ。その能力を伊藤は昭和天皇に売り込み、伊藤同様に仮の籍と名を手に入れた。また、二人だけではなく、『大和会』の全員は歴史改変という偉業を達成する為には利便上必要であろうという、昭和天皇の粋な計らいにより、新たな戸籍と名を頂戴していた。森下はその中でも、新生『大和』の乗員達に訓練を付けるという、重要な役割を担っていた。

 「今は海で存分に暴れられんがね」伊藤は言った。「まぁ我慢してくれ」

 森下は嬉々として頷いた。

 

 

 1937年11月23日

 神奈川県/横須賀

 

 終戦直後の日本で開発されていた軍需品の中で最も高価だったのが、大日本帝国海軍初のジェット戦闘機『橘花』だった。ボディは中島飛行機の製作所で、ジェットエンジン――噴進機関、タービンロケット『ネ20』は此処、海軍航空廠(後に空技廠)で造られていた。各工場は、部品調達合理化の為、零戦や銀河の部品を流用し、過酷な状況でも量産出来る体勢を整えていた。零戦製造の2分の1の生産工数で造られた橘花は、陸軍のジェット襲撃戦闘機『火龍』とともに、各地に送られた。

 伊藤は、零戦や銀河の部品を流用せずとも、十分に量産が出来る戦況に至っておきたいと考えた。現在、航空廠では荒唐無稽な戦闘機の開発に力を注いでいる。名を『橘花』という。

 航空廠施設内の建物に入った伊藤は、山崎功治技師と再会を果たした。山崎は『大和会』の一員であり、当時は中島飛行機の技術者であり、『橘花』の生みの親の一人であった。彼は戦後、焼却炉に入る運命であった機体設計図を見た。それは山崎が関わった努力の結晶であり、人生の印だった。その時、彼は密かに設計図を写し、同時に隠した。本来の設計図は処分され、灰に還る中、その設計図は生き残り、今航空廠に鎮座している。

 後に彼は橘花の心臓部、『ネ20改』の設計者と会い、それを話すと設計者は感銘を受けた。彼自身も同じ事をしていたのだ。既に大きな勇躍を見せていた橘花は国家機密に値し、敗戦間近には『ネ20改』も連合国軍に渡る前に、全て廃棄される運命にあった。設計者はネ20改を息子の様に思い、やりきれなかった。そして山崎と同じく、自身の設計図を書き写した。二人は複製図をまた写し、共通の秘密という意味を込めて、双方に複製図の複製図を手渡した。

 山崎が『大和会』に入るきっかけは横須賀での『大和』一般公開の時だった。GHQのプロパガンダ投射機の如く、片言の日本語を話す米国人には見向きもせず、彼は超弩級戦艦『大和』に目を奪われた。その後、プロパガンダ投射機は『大和』の末路を伝え、冷やかな笑みを浮かべた。

 それから数日後、彼は『大和会』の存在を知り、伊藤整一の家を訪れる事となる。

 

 

 風雨を経て古びた『橘花』は、航空廠の一角にあった。それは、空母『天城』に載せられ、ハワイへと送られる筈だった1機である。当時、米海軍は『橘花』という日本海軍が開発したジェット戦闘機に胸が躍る気持ちであった。ドイツ方面におけるMe262はソ連や米陸軍が持っていき、海軍は殆どあり付けない状態だった。

 しかし――橘花は違う。大日本帝国海軍によって開発されたそれは米海軍直轄下において回収され、本土へと送られた。

 だが、実際の所はその後も橘花の技術に海軍はあり付けなかった。1回目に、輸送艦による本土への旅は大嵐によって幕を閉じた。橘花は艦船ごと転覆し、海に消える。2回目は、艦艇自体に問題が生じ、橘花は海上投棄を与儀なくされた。

 そして3回目こそが、空母『天城』による輸送だった。ビキニ環礁での核実験前、標的艦はハワイに集まった。海軍内ではこの時に、橘花を標的艦の1隻、強固で不幸な空母『天城』に載せるべきだと考えた。この不幸とは、呉軍港内の境遇や前に同じ名を持っていた空母の不遇に由来する。橘花はその時、載せた艦艇を何らかのアクシデントに導く『不幸の戦闘機』と称され、運ぼうとすると日本人の祟りで船が沈められると噂された。それを意識したかどうかしれないが、米海軍上層部は「不幸には不幸」という具合に天城に橘花を2機載せ、ハワイへと出発させた。そして1機は既に載せた時から損傷を受けていた。積み込み時のアクシデントが原因だった。結局、橘花1機がハワイで研究の対象となり、もう1機は零戦五四型とともに、核実験処分である。



 1937年に舞い戻った後、天城に載せられた橘花は横須賀の海軍航空廠へと送られた。山崎がそれに動向し、機体設計図と『ネ20改』の設計図を開発陣に見せた。彼は機体開発の責任者に命ぜられ、とりあえず動力源の開発も進められた。

 しかし、動力源となるネ20改は設計図はあるものの、当時の技術水準では理解にも苦しむものだった。これは橘花のみならず、『夢幻の艦隊』の鹵獲艦艇、鹵獲機全てに該当する。未だ、鹵獲兵器の仕分けも進んでおらず、驚異的なテクノロジーにいちいち驚嘆し続けていた。各地に技術解明の為のプロジェクトチームは造られたが、当面の見通しでは全ての兵器の構造を解明するだけでも1年、そこから国産するには最低でも2、3年は掛かるだろうと伊藤は考えていた。

 「閣下、久方振りです」

 山崎は言い、自分の前で口を開ける技術者達の前を通り過ぎて伊藤の元に向かった。

 「彼等は開発陣だな?」伊藤は言った。

 「未だ分からない事が多いので、講義を……」山崎は言った。「9年分の知識ですからね。なるべく最善を尽くして一から教えているのですが……」

 「まぁ気長にな」

 そうは言ってみたものの、伊藤は今の日本には一刻の猶予も無い事を知っていた。最低でも4年後に迫る嵐に対し、それを乗り越えられる家――工業力の構築には金・時間・労力が必要となる。その内、金は圧倒的に足りないし、時間の猶予もない。それに、低賃金では技術者達の意欲が低くなるのは明白であり、金が無ければ労力の質も減る。

 時間は前述した女子工業学校に絡んでくる問題だった。伊藤も後々気付いたが、この案には圧倒的な問題点があった。つまり、時間である。本来、職人は最低でも8年、一般には10年働いて一人前になる。しかし、この女子熟練工育成はどうか?女子工業学校などという突拍子も無い案が国会を通過するだけでも、2、3年は掛かるだろう。しかし、ターニングポイントとなる年までは後4年である。それは、かつての歴史にも訪れた悲劇――即ち、ようやく慣れてきた時には、日本は既に駄目だった――の再来ではないだろうか?零戦パイロット達も戦争中期には錬度は熟していたが、その頃には支える枝――大日本帝国――は腐り、その枝ごと落ちてしまっていた。女子熟練工もそんな例に漏れず、半人前になった頃には終戦――という結末を迎えているかもしれない。そんな考えが伊藤にはあった。



 結果を言えば、全てに金が絡んでくる。資源も人員も技術力も乏しい今の大日本帝国では、先行きはやはり暗かった。


 しかし――決して闇黒という訳ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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