第96話 覇号作戦(後)
第96話『覇号作戦(後)』
1944年5月4日
大日本帝国占領地域/沿海州
戦艦『大和』の司令長官室からは、軍港ウラジオストクの街並が良く見えた。旭日旗とEUの象徴旗が共に掲げられた街――ウラジオストク。かつてソ連海軍太平洋艦隊が母港として極東圏のパワーバランスの一部を掌握していた筈のこの街は現在、大日本帝国の占領地の一角に過ぎなかった。大日本帝国軍の前線拠点として用いられている一方、恒久的な支配を視野に入れた“皇国化”や軍施設の拡張等が行われており、軍と民の間の溝は深まりつつあった。これに『大和会』の今村均陸軍大将や石原莞爾陸軍大将が猛反発し、地域での最低限の自治権を黙認したのは、後の歴史に有名な話である。
午前6時を過ぎて、奇妙な胸騒ぎに駆られた吉田善吾連合艦隊司令長官は目を覚ました。時に戦地ハバロフスクでは、EU対ソ連の極東を巡る頂上決戦が繰り広げられている真っ只中のことであった。だが、たとえハバロフスクが内陸地であろうと、帝国海軍が蚊帳の外に置かれることはない。戦略物資の海上・空路運搬、河川艦隊の運用、航空部隊の指揮。他にも様々な任務があり、連合艦隊司令長官の吉田も、おちおち寝てはいられない状態であった。
「報告は?」
第1種軍装を身に纏い、吉田は艦橋にその姿を現した。
「昨日、ハバロフスクから南東40kmの地点のウスリー川流域で、砲艦『伏見』が撃沈されました」連合艦隊参謀長の伊藤整一中将は言った。「他にも、満州国海軍の砲艦『親仁』が撃沈、救助活動を行っていた『定辺』は、中破しながらも帰投致しております」
吉田は目を閉じ、黙って頷いた。
「満州国海軍と『定辺』に感謝状の用意を。それと、ソ連軍への反攻の用意だ」吉田はふんと鼻を鳴らし、長官席に腰を下ろした。「砲艦1隻を失ったのは痛くも痒くもないが、帝国海軍の優秀な人材を失ったのが我慢ならん。この落とし前は、数倍にして返してやる」
伊藤は頷いた。「長官、“五式陸攻”の用意が既に整っておりますが」
「五式陸攻か……。ふむ、ここで使うか」
――『五式陸上攻撃機』
1940年2月、『ワンショットライター』と渾名される一式陸上攻撃機の代わりに生を授かった『十五試陸上攻撃機』はそれから約4年の歳月を経て、『五式陸攻』として完成を迎えた。この帝国海軍の新型戦略爆撃機は、4発巨人機であり、多大な航続距離と爆弾搭載量を有するという帝国海軍としては破格の代物であった。この4年という時間は、大型爆撃機の開発ノウハウを持たない故のものであったが、それだけに十分満足出来る機体に仕上がっていた。
その性能諸元は――。
■『五式陸上攻撃機』性能諸元
全長:23.5m
全幅:32.540m
全高:7.200m
主翼面積:127.00㎡
自重量:16,700kg
全備重量:30,200kg
発動機:ハ-42-21ル(離昇2,200馬力)
最高速度:570km
実用上昇限度:10,200m
航続距離:4200km(正規)
:6300km(攻撃過荷)
:7500km(偵察過荷)
武装:爆弾・魚雷搭載量5000kg
:胴体上方、尾部各1門 20mm機関砲×2
:背部連装銃塔 13mm機関銃×2
:機首1門、胴体両側各1門、胴体下部1門 7.7mm機関銃×4
乗員:7名
『十五試陸攻』の要求性能が海軍側から各航空機メーカーに伝えられた1940年、帝国海軍は従来の“太平洋戦略”に基き、対米戦を視野に入れた軍備拡張を続けていた。その為、この十五試陸攻にも、“最大航続距離7000km以上”や“最高速度450km以上”、“爆弾搭載量4t以上”といった性能要求がなされていた。そしてこれに真っ先に取り組んだのが、三菱重工業である。
1944年3月、三菱重工業の工場からロールアウトしたその機体は、まさにそれらの要求を満たし、尚且つ、より優れた面を持つものであった。エンジンはB-29『スーパーフォートレス』戦略爆撃機の心臓、R-3350を基に開発された『ハ-42』を採用。機体には零式艦上戦闘機にも使用された超々ジュラルミン(ESD)を用い、軽量化と強度安定を実現している。また機体は防弾性に優れ、燃料タンクには英独との共同開発によって完成したFRPやクロロプレンゴムによって被膜され、守られていた。その他、燃料タンクで火災が生じた場合に備え、炭酸ガス注入装置を搭載。また機内には、消火設備として自動消火装置が配備されていた。
これらの創意工夫の施された五式陸攻――通称『連山』は1944年5月、ハバロフスクでその日の目を見ることとなった。機体数は30機と乏しく、あくまでも“試作機”扱いなので、現時点では帝国陸海軍の間では『連山』の名で通っている機体だった。
「五式陸攻――いや、『連山』は値が張る」
吉田は眉を顰めた。
「だからこそ、機を見誤ってはいけません」
「だが、連山は『南方戦略』に基いた機体だ。北方での運用が吉と出るか……」
伊藤は渋面を浮かべ、静かに頷いた。
「勿論、それは承知の上の事。ですが、連山は爆弾搭載量5tを誇るという、我が軍でも類を見ない火力を秘めた機体です。ハバロフスクを堕とすには、戦略爆撃は欠かせないと小官は考えます」
そんな伊藤の意見に対し、吉田は顔を歪めた。
「……宜しい、それもまた一興。連山を行かせたまえ」
母なるロシアの平原は気が遠くなるほど広い。どこまで行っても、同じような地平線が続いている。大地も広いが、その頭上に広がる蒼穹も空漠としていた。群れを成して南を目指す渡り鳥はその視界にも映らず、高速で飛ぶ全長20mを超す巨人機『連山』でさえ、その機影は縹渺たる様であった。
英空軍の4発機『アブロランカスター』と徒党を組む連山は、帝国海軍が誇る新鋭戦闘機『紫電』一一型と、英空軍が誇る主力戦闘機『スーパーマリン・スピットファイア』に護衛され、ハバロフスク上空を驀進中であった。迫り来る敵機の姿は見えず、対空砲火の密度も薄い。いやここ数日、ソ連極東方面軍による抵抗が弱く、各軍事拠点からはソ連軍がその姿を消してしまっていた。これにEU(ヨーロッパ同盟)軍上層部では、ソ連軍が駆逐されたという楽観的見方をする声が強まっていた。
「敵機、下方接近。距離300!」
「何だとッ!?」
第零海軍特別航空隊第二攻撃隊長の富永洋大尉の声が轟き、五式陸攻『連山』の機内は騒然とした。当然だろう。直掩機の監視網を突破し、突如として機体下方にその姿が現したのだ。驚かない方がおかしいくらいだった。
『富永一番、こちら篠原一番。低空の敵は“BI”! これより迎撃に向かうッ!』
護衛戦闘機部隊司令官にして、第零海軍特別航空隊副長である篠原弘道中佐の発した報告に富永は唖然とした。BIとは、ソ連空軍が開発した最新鋭ロケット戦闘機であり、非常に優秀な戦闘機であった。最高時速は800km~990km台。ShVAK20mm機関砲2門で武装している。機体はMe163『コメット』や『秋水』のような無尾翼機ではなく、通常の戦闘機と大差無い外見であった。しかしその性能はMe163等を凌駕しており、実用性の目途が立てばいくらでも活躍の場があったであろう戦闘機だった。
史実では1942年の初飛行以来、9機の試作機が製造されて計画中止となった同機だが、今物語ではMe262への対抗から開発計画が続行されており、1944年の時点では200機ほど製造されている。今回、連山へと迫り来る機体は、その1機であった。
「“バイ菌”野郎がッ!!」
帝国海軍において“バイ菌”と忌み嫌われるBIロケット戦闘機は、時速800kmの高速で連山に迫りつつあった。これに紫電やスピットファイアといった護衛戦闘機が邀撃に向かうも、圧倒的な速力差によって攻撃は全て当らず、空を切るのみであった。
「敵機接近、距離200! 撃ち方始めッ!!」
刹那、連山下方に閃光と衝撃が轟いた。7.7mm機銃が火を噴いたのだ。続けざまに紫電の20mm機関砲の咆哮が上がったが、スピードという“鎧”を纏うBIにとって、さして問題にはならなかった。木製の脆弱な機体に900kmの速度を出せるロケット推進機関を搭載したBIにとっての敵は、高速度に生じる可能性のある空中分解か、20mm機関砲のような大火力を浴びることだけであった。7.7mm機銃のションベン弾は全くの問題外であり、BIのパイロットも気にしてはいなかった。
「アゴーイ(発射)!!」
先ほどの7.7mm機銃が放った銃撃音とは比べ物にならない爆音が連山の機内に轟いた。ShVAK20mm機関砲の稲妻の如き衝撃が連山の主翼を引き裂いたのだ。ソ連空軍が誇る20mmモーターカノンの発射音は、耳を塞ぎたくなるほどの大音響だった。
主翼から黒煙を噴き出しながらも飛行を続ける連山に安息の時間は無かった。続けてBIロケット戦闘機の僚機が迫りつつあったのだ。連山の鼻っ面を捉えたBIは突然、目も眩むような速さで、機首すれすれを掠めて飛んだのである。刹那、何事も無かったかのように飛行を続けていた連山は爆発、炎上と続き、真っ赤な業火に包まれて墜ちてゆく。それはBIの目にも止まらぬ一撃によるものだった。機首に20mm機関砲の火箭を叩き込んでいたのだ。
「沢村機、撃墜ッ!!」
「くそッ!!」
背部銃塔手の報告を聞いた富永は悪態を吐いた。
「BI、なおも接近中ッ!! 数は5」
「ま……また増えてるだとぉッ!?」
BIロケット戦闘機は減るどころか、その数を増やしていた。これはソ連空軍による最後の悪あがきに過ぎなかったが、戦略爆撃機の運用経験乏しい帝国海軍にとっては、最大の危機でもあった。時間の制限があるとはいえ、尋常ではない速力、並外れた破壊力を秘めたこの迎撃戦闘機を前に、連山は手も足も出ない状況に陥りつつあったのだ。
「なめるなよ、露助ぇぇぇッ!」
篠原中佐の操る紫電は、ダイナミックな機動を見せ始めた。右に左に旋回し、BIを翻弄するという篠原のこの動きは、決してBIに格闘戦を挑むためのものではなかった。彼はロケット戦闘機の最大の弱点――時間制限を突き、BIに勝利しようと目論んだのである。BIを始め、この種の戦闘機が有するロケット推進機関の稼働時間は極端に短い。例えばMe163などは約8分ほどの航続時間しか有しておらず、しかも制御自体が難しいため、攻撃に割ける時間はそれ以上に短かった。まさに1分1秒の争いである。
そして篠原が突いたのも、そこであった。連山とBIの間の空域で独特の機動を繰り返し、断続的な射撃でBIを牽制する。そうすることで時間を削り、BIを“ただの戦闘機”へと戻してしまおうという寸法だった訳だ。
「当たらなくてもいい。奴等の動きを止めることに専念しろッ!」
命令を下すと同時に篠原は、機首を翻して急旋回し、BIの背後を取った。しかし相手はロケット戦闘機。優に800kmの速力を出す存在であり、紫電の速力性能では追従は不可能に近かった。
だが、大日本帝国軍のトップエースであり、スターリンに『ソ連人民の敵』と称された篠原はその不可能を可能とする男だった。スロットルレバーを機首に向かって押し込み、紫電はぐんぐん速度を上げて行く。しかし相手はロケット戦闘機、やはり800km超の速力差を見せ付け、両機の間の差は増すばかりであった。
「あんまり調子に乗ると……」
篠原が操縦桿を押し下げ、紫電は急降下を開始する。F6Fを基に開発され、その頑丈さも受け継いでいる紫電の急降下に対する耐性は強かった。速力は830kmと急降下制限速度を軽くオーバーしていたが、紫電の機体は微かに悲鳴のような軋みを上げるのみで、操作には問題はなかった。いや、急降下によって操縦桿はうんともすんとも動かなかったため、問題がなかったという訳ではなかったが、篠原に掛かれば機体操縦を安定させることは十分可能であった。
「痛い目を見るぞッッ!!」
速力差を縮め、遷音速の世界を見た篠原は、ここで操縦桿を目一杯押し上げた。すると、紫電はその速力を維持しつつ、急上昇を開始する。一連の動作を終えた頃には、既に彼の紫電はBIの背後を捉え、離さない状態にあった。
「食らえッッッ!!」
俗に『ロー・ヨー・ヨー』と呼ばれる空戦機動によってBIの背後に着いた紫電は、20mm機関砲を咆哮させた。怒りの炎を噴き上げ、20mm砲弾がBIの機体に吸い込まれるようにして襲い掛かる。すると、BIは紅蓮の炎を放出し、真っ赤に染め上げられた。ロケット推進機関が爆発的速力ではなく、その名の通りの“大爆発”を起こし、BIの機体は木端微塵に砕かれてしまった。
数分後、航続時間の限界を見たBIロケット戦闘機は撤退を開始する。が、その退路を見事に塞がれ、全機が撃墜されて一連の戦闘は終了した。しかし、篠原率いる護衛戦闘機部隊による奮戦虚しく、五式陸攻『連山』の被害は大きかった。試作機30機中12機が今回の戦闘でダメージを受け、うち8機は撃墜されてしまっていた。これは戦略爆撃機の運用経験、そして対ゲリラ戦のノウハウに欠ける大日本帝国軍の脆さを露呈する絶好の機会となってしまったのは、言うまでもない事実であった。
1944年5月4日
ソビエト社会主義共和国連邦/ハバロフスク地方
俺達は軍の規律を守って50km近くを行軍し続けている、と西竹一中佐は考える。将兵の足腰が悲鳴を上げ始めるのはこの辺りからだ。疲れ切った彼らは休む暇もなく戦場へと進まなければならない。だが、“戦車第五師団”は新設ほやほやの若輩師団であるから、他師団とは経験も兵装も差が大き過ぎだ。出来れば休息を取らしてやりたいが、そうも言ってられない情勢であった。ハバロフスクは粘り、我が帝国陸軍の間では死傷兵が増加を続けている。この凄惨な戦いに楔を打ち込むのが、俺達の仕事なのだ。
戦車第五師団戦車第二十六聯隊長である西中佐は、まさに断腸の想いであった。比較的練度の高い戦車第一師団捜索隊から発展した戦車第二十六聯隊であるが、彼らが操らねばならないのは――ドイツやイギリスの戦車であった。1943年、大日本帝国は不足する機甲戦力を補うべく、欧州各国に余剰する戦車の供与を要請、そして受諾された。イギリスは『マチルダ』や『バレンタイン』、ドイツは『Ⅲ号戦車』といった戦車を提供するのだが、それに伴って編成されたのが『戦車第五師団』であった。海外製戦車の整備とそれを操縦する戦車兵育成、問題は山積みだった。そして1944年3月、戦車第五師団隷下の戦車第二十六聯隊に着任したのが、西中佐である。
西竹一中佐。『バロン西』の通り名で知られる彼は、1932年ロサンゼルス五輪での馬術障害飛越競技で金メダルを獲得したことにより、一躍脚光を浴びることとなった。その後、騎兵から機甲兵へと転属、機動偵察部隊である“捜索隊”一貫の道を進むこととなる。そして1944年6月、戦車第一師団の捜索隊から発展した“戦車第二十六聯隊”の長となった彼は硫黄島に配属され、かの栗林中将の下、熾烈な抵抗戦を繰り広げることとなるのだった。
そんな史実の歴史を歩んだ彼は今、Ⅲ号戦車の砲塔から身を乗り出し、戦車第二十六聯隊の行軍を見守っていた。ドイツ陸軍のⅢ号戦車は非常に優れた戦車で、帝国陸軍では立派な中戦車ではあったが、ソ連のT-34中戦車には力不足であった。そのため、聯隊には88mm戦車砲を有し、圧倒的火力を誇る『三式砲戦車』を配備した砲戦車中隊があり、これを補っていた。だが機動力を欠くため、快速を誇る捜索隊から発展した砲戦車中隊は同時に疎んじられる存在でもあった。
「ロシアの大地を颯爽と闊歩する、Ⅲ号戦車と九五式中戦車――爽快ですなぁ……」
西中佐の耳に突如として響いた声。彼はその声の主の方を向き、渋面を浮かべた。
「……辻中佐」
硝煙と陰謀の香をこよなく愛する男――それが辻政信であった。
「『帝機関』の中佐殿が何故、こんな“寄せ集め部隊”に?」
「ククク……寄せ集め部隊ですか。まぁ強ち間違っちゃあいませんがね」
そう辻に言われると、言った当人である西も思わず顔を歪めた。参謀でありながら、必ずといって良いほど前線に構わず乗り込んでくる男。それが辻政信であり、帝国陸軍内で密かに浸透している戦場伝説であった。この男居る所、常に敵軍の死傷者は甚大となるが、同時に友軍にも甚大な損害を被る。まさに“戦場の死神”のような人物であった。
「もうすぐハバロフスクに入る。警戒を厳となせ!」
西の命令一下、行軍を続ける戦車第二十六聯隊は周囲の警戒網を密にした。高性能無線機により相互連携の密度が高い戦車第二十六聯隊は、よく統制のとれた聯隊であったが、海外製戦車や旧式戦車がその中核を成しており、整備や運用面では気苦労が絶えなかった。そのため、折角の連携も意味を成さないという状況が続いていたのである。
――フィンランドの時よりも酷いな。
遣欧陸軍の一員であった西と辻の両名はこの戦車聯隊を見た時、そう感じた。フィンランドでは不足分の物資を欧州各国から調達したり、敵軍から鹵獲したりしてやりくりしていたが、今回は本当にゼロからのスタートである。戦車の予備部品は足りず、弾薬も国産品では型が合わずに不足は必至。使う燃料も違うわけだから、そこにも注意しなければならない。そしてそれを解決するためには、本当に時間も金も余裕が無かったのである。
大日本帝国軍は苦戦を強いられていた。各地から戦力を集結させ、再編成したソ連極東方面軍は、その戦力をハバロフスク防衛に費やし、同市を要塞化していたのである。これに大日本帝国軍を始めとするEU軍はろくに侵攻も出来ず、市街周辺を包囲しての準備砲爆撃を繰り返し続けていた。
「この地区は制圧した。次はいよいよ“橋”を落とすぞ」
西中佐は膝を突き、地面に敷かれたハバロフスクの市内地図を指した。
「……ハバロフスク橋ですか」
辻はその地図を見下ろして言った。
――ハバロフスク橋。1916年、ラヴル・プロスクリャコフの設計の下、アムール川に架けられたこの鉄橋は当時、世界最長の橋であった。この橋はハバロフスクと対岸を繋ぐ交通の要衝であり、この橋を制圧出来るか出来ないかによって、ハバロフスクの攻略も変わってくるといっても過言ではなかった。
「橋は落とされている様だが、修復すれば使えないことはないからな」
西はそう言い、地図を指し示した。「それにこの地下には、秘密の川底トンネルがあるらしい。工兵からの報告によれば、このトンネルの破壊具合は甘く、修繕の可能性が高いそうだ」
辻は頷いた。「作戦は?」
「まず大発等でアムール川を渡河し、橋の対岸側を押さえる。これによって確固たる橋頭堡を確保し、橋と川底トンネルの修繕作業完了まで守り切るのだ」西は言った。「橋とトンネルさえ修復出来れば、ハバロフスクへの攻勢が容易になるからな」
「なるほど……」辻は頷いた。「だが、ソ連海軍にはアムール河川艦隊が存命だと聞いている。備えなしでは、カモも同然だ」
1944年5月5日、戦車第五師団を含めた橋制圧部隊は大発動艇等の舟艇に乗り込み、渡河を開始した。5月のアムール川は穏やかな様相を呈し、渡河には最適であった。だが、そこに潜む紅き鮫達にしてみれば、それは渡河部隊を攻撃するのに最適といえる状態でもあった。事実、敵は攻撃を仕掛けてきていたのである。
「敵襲ッ! 敵襲ッ!」
「応戦しろッ! 弾幕を張れッ!」
「1名負傷! 衛生兵!!」
アムール川の中腹、渡河部隊の舟艇の多くからは怒号と悲鳴が飛び回っていた。ソ連海軍はアメリカから供与されたPTボートやT-34の砲塔を流用した砲艇を差し向け、渡河舟艇に襲い掛かった。
「右から敵艦ッ! 何としても渡河を成功させるんだッ!!」
アムール川に西中佐の声が響き渡った。曳光弾が流れ星のように頭の上を飛び回り、機銃掃射で川面は湧き上がる。渡河舟艇群は波濤を上げ、速度を増してアムール川の渡河を急いだ。その間も西は指示を飛ばし続け、部隊を指揮した。
「撃ち方始めッ!!」
シュノーケルを付加されたⅢ号戦車と特四式内火艇は、反撃を開始する。Ⅲ号戦車の主砲、60口径50mm戦車砲が吼え、特四式火艇から13mm機銃弾が叩き込まれる。50mm戦車砲弾はPTボートの船首を粉砕、13mm機銃弾が止めを刺す形でPTボート右舷を貫き、大爆発を引き起こした。PTボートは宙を舞い、横転しながら川底に没した。
「やったぞ!」
特四式内火艇搭乗員は拳を振り上げ、歓喜を上げた。
「よし、俺がこいつをお見舞いしてやるッ!」
と、意気揚々にベルトを外し、手榴弾を手に持ったのは伊藤海軍大尉である。軍刀を振り上げ、特四式内火艇から身を乗り出す彼は、生粋の帝国海軍人である。そしてこの渡河部隊の海軍陸戦隊司令官でもあった。
「うおりゃぁあああッ!!」
伊藤はPTボートに向かって手榴弾を投げつけた。刹那、爆発と閃光が巻き起こり、手榴弾の鋭利な破片がPTボートの船体を切り裂いた。次に伊藤は十四年式拳銃をホルスターから引き抜き、PTボートの艦影めがけて発砲した。
「おい、どこを狙っているッ!!」
ふと伊藤は発砲を止め、ホ式13mm機銃を操る下士官を怒鳴りつけた。彼の放つ銃撃はそのほとんどが敵船の頭上を通り抜けていくばかりで、命中していなかったのである。それに業を煮やした彼は、下士官をホ式13mm機銃からどかした。
「もういい、俺が手本を見せてやるッ!!」
獅子奮迅が如き行動を見せる伊藤大尉は、ホ式13mm機銃の引き金を引き、PTボートに猛烈な銃撃を浴びせ掛けた。13mm機銃弾はPTボートの船体にボコボコと弾穴を刻み、ずたずたに引き裂いた。また、13mm機銃の銃弾は船上のソ連兵に向かって発射され、PTボートを駆らせていた何人かをなぎ倒した。銃撃を受けたソ連兵は床に倒れ、真っ赤な血を吐き出した。
刹那、特四式内火艇の無線がカチリと鳴った。
『こちら西、伊藤大尉。聞こえるか?』
「はい、聞こえますが西中佐。どうしました」
伊藤大尉は不機嫌そうな表情を浮かべながら言った。
『そちらはどうだ?』
「先ほど、敵兵3名を仕留めましたが、残りはPTに乗って逃げました」伊藤大尉は言った。「小官は追跡して、これを撃滅したいと思います――」
『止めろ』西は言った。『追跡は不要だ。逃がしてやれ』
「それはどういうことです?」
伊藤大尉の表情が険しくなった。
『こちらは人手が足りないんだ。それぐらい分かるだろ』
「ですが――」
『この話は終わりだ。この渡河部隊を指揮しているのは俺なんだ。俺の命令に従え』西はやや強めの口調で告げ、無線を一方的に切った。
「……腰抜けめ」
伊藤大尉は顔を歪め、再びホ式13mm機銃を握り締めた。機銃の銃口は先ほどのPTボードに向けられており、そこから銃弾が飛び放たれたのに、それほどの時間は要されなかった。特四式内火艇はPTボートに向けて追走しており、渡河部隊の戦列から離れつつあった。
「敵砲艦視認ッ!!」
大発動艇に乗る西中佐は、対岸近くの川域に浮かぶ1隻の艦影に目を見張っていた。丸みを帯びた、まるで円盤のような船体。そこに突き出した2門の巨砲。それは円盤戦艦『オピト』と通常の砲艦の相違点を示す顕著な特徴であった。
「くそッ! “ウスリー川のヌシ”がなんでアムール川に居るんだ!」
アムール河川艦隊旗艦、アンドレイ・ポポフ中将の置き土産である円盤戦艦『オピト』。主砲30.5cm2門と対空火砲によって重武装化されたこの砲艦は先日、帝国海軍の砲艦『伏見』と満州国海軍の砲艦『親仁』をウスリー川に葬った張本人として、帝国海軍航空隊にマークされている筈だった。ところが残存の燃料で川を上り、このアムール川へと舞い戻ってきていたのである。オピトは機動性は最悪だが、その圧倒的火力・防御力は海上の軍艦に劣らぬものを秘めていた。
「奴を沈めろッ!! このままでは対岸に上陸出来んぞ!!」
しかし、渡河部隊が有する火力にこれを沈められる戦力は殆ど無かった。Ⅲ号戦車の50mm戦車砲はその船体を貫けずに虚しく弾かれ、45cm魚雷を有する特四式内火艇もオピトの砲撃を前に呆気無く散っていく。そんな状況下にあって、帝国陸海軍の士気は低くなっていた。
「航空隊は? 航空隊はどうしたッ!?」
西は悲鳴にも似た声を上げ、通信兵を問い詰めた。
「こちらに向かっているとのことです。到着まで5分!」
5分――長い、長すぎる。そう西が考えてから数秒足らずして眼前に巨大な水柱が舞い上がった。1隻、また1隻と舟艇が水柱に阻まれて噴き飛び、宙を舞った。
「何とか持たせられるかッ!?」
辻は頭の上から降り注ぐ水飛沫を手でふさぎながら言った。だが、西は怪訝な表情を浮かべたまま、黙り込んでいるばかりだった。
「特四式内火艇は? あれは魚雷を積んでいる筈だが?」
「そりゃあ俺だって分かってるッ! だが、魚雷を撃ち込むにはそれなりに接近にしなければならないだろうがッ!」
西の苛立ちは頂点に達していた。彼は辻の胸倉を鷲掴みにし、宙に押し上げたが、辻の方は至って平然であった。表情を崩さず、眼鏡を押し上げる彼は、冷静そのものであった。
「……この状況を変えられるのは特四式内火艇の魚雷だ。有効利用しない手はない」
辻は胸倉を押さえられたまま、平然と告げた。
「奴に頼るのが癪なんだよ。伊藤にな」西は言った。
「そんなことも言ってられんだろう?」
「分かっている」
西は静かに頷き、通信兵を近くに招き寄せた。そして無線機を手に取り、通信を繋いだ。
「こちら西。伊藤大尉、聞こえるか?」
『……こちら伊藤、今は手が離せない』伊藤は言った。
「そちらの特四式内火艇をかき集めろ。反撃に出る」
数分の沈黙の後、返答が返ってきた。『――既にやっている』
「何だと?」
西は無線機を戻し、首元に提げた双眼鏡を手に持つと、遠くの船影にピントを合わせる。双眼鏡には、徒党を組んでアムール川を疾駆する特四式内火艇の姿があった。遮蔽物も何もない川上で時速20kmで走る特四式内火艇は格好の標的であり、オピトや砲艇からの砲撃で次々と沈められていく。そんな中、1隻の特四式内火艇が躍り出て、オピトをその射線に捉えた。
「射ぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!」
伊藤大尉の軍刀が天を衝き、前方の川面が白く湧き立った。それはさながら、敵の戦陣を突破した野武士が、敵の大将めがけて斬り込みに掛かるかのような光景であった。
「衝撃備えッ!!」
伊藤大尉が2本目の45cm魚雷の発射音を聞いた時、既にオピトの30.5cm砲弾は彼の特四式内火艇に迫りつつあった。頭上を覆う巨大な砲弾。特四式内火艇を包み込む闇。それは全て、後の伊藤大尉の末路を暗示させるものだった。砲弾は特四式内火艇の左舷近くに着弾し、特四式内火艇は勢いよく宙を舞う。船体は音を立てて崩れ落ち、乗員は特四式内火艇から上空に投げ出される。雨霰と砲撃は止まず、複数の水柱がさらに聳え立つ。それに伊藤大尉を始め、特四式内火艇の乗員達は飲み込まれていった。
刹那、砲艦オピトは悲鳴を上げた。計4本の45cm魚雷の雷撃を受けたオピトは浸水し、爆発、そして炎上を繰り返した。紅蓮の業火に染め上げられたオピトは右舷に傾き、末期の悲鳴を上げる。船体は引き裂かれ、閃光と衝撃が艦内を迸り続けた。そして最期には――真っ二つとなって川底に没した。
渡河作戦を無事成功させた西中佐だったが、彼の表情は暗かった。これは、犬猿の仲であった伊藤大尉がその身を挺して砲艦『オピト』を沈めた上での勝利だったからだ。それは彼のプライドや自尊心を傷付けたのみならず、最悪であり最高である戦友を失った――という事実を突きつけていた。
だが、西中佐は立ち止まれない。戦争は続いているからだ。全てを終結させ、伊藤大尉の墓前に花と悪口を手向けるその日まで――彼は立ち止まれないのだ。
ご意見・ご感想等お待ちしております。