第10話 金星は暁の空に舞う
第10話『金星は暁の空に舞う』
1937年9月25日
長崎県/大村
東彼杵群に位置する大村飛行場は、次の一幕にうってつけの舞台だった。周辺地域を佐世保鎮守府と大日本帝国陸軍歩兵第四十六連隊の二重の防衛線で囲まれた平坦地で、家主が海上自衛隊に代わった今日でも、大日本帝国海軍時代同様に主要な航空拠点としての存在感を留めている。しかし、日米地位協定に則って、米海軍の艦載ヘリの為にとされた一部の施設もある。此処には現在、大日本帝国海軍大村海軍航空隊と空母『加賀』の艦載機が置かれているが、その中には本来存在しない筈の戦闘機の姿があった。
M4『シャーマン』中戦車の底力を見た伊藤だったが、その興奮と恐怖はまだ冷め切っていなかった。更に、彼は別の興奮と畏怖を覚えていた。時は5日前の20日の事、愛知県伊良湖の陸軍技術本部試験場から呉、そして19日に帝都へと到着した彼はある人物との謁見を許された。
丸一日置いて、米内海軍大臣がやってきて、伊藤を皇居に連行した。
まず米内は粗相のないよう、協力を仰ぐのであれば全身全霊を持って帝国の憂いを説明せよと言った。米内は伊藤が緊張しているのは十分に理解出来た。動揺し、触れただけで崩れそうな位、繊細な様子が垣間見えた。陛下は盧溝橋の一件を好く思っていると米内は言い、緊張しなくてもいいと肩に手を置いた。
皇居にて、伊藤を迎えたのは昭和天皇その人だった。米内は頷いて同行を示し、伊藤は指示を求める様な顔を変えて、昭和天皇の顔を見据えた。
「動乱の世の阻止、大儀であった」
天皇の声が耳をこだます中、伊藤は自身の生立ちやこれまでの行動の意味、そして未来を伝えた。終始沈黙に包まれた後、伊藤は危機感を抱いた。信じていないのか?いや、信じろという方が無理難題だろうか……。
そんな伊藤の様子に気付いた天皇は微笑を浮かべ、静かにかぶりを振った。何もかも見越していたのかは定かではないにせよ、天皇は清世を築く為、尽力をは惜しまぬと告げた。
「しかし、私も大村に行ってよいものですかな?」山本五十六海軍中将は車内後部席にて、右隣に座る伊藤海軍中将に言った。今日25日をもって、彼は海軍中将の階級を戴いていた。前代未聞、異例である事は言うまでもない。だが、これは清世を築く伊藤に対する、昭和天皇の贈り物であった。更に事を円滑に進める為、新たな戸籍も取得した。新たな名は藤伊一。元の名の中の『整』を除いた名を用いられて作られた“アナグラム”である。
「また書類仕事があるだけでしょう?」
「それはそうでしょうがね」山本は笑った。「一難去ったと言えど、貴方は働き詰めだ。私にしてみれば、それが1番心配な事ですよ」
車は舗装された道路を離れ、飛行場内に入った。史実通りなら今頃、7月7日の一件を受けて木更津海軍航空隊の一団が此処から広東方面に渡洋爆撃を仕掛けていた事だろう。飛行場内部は渡洋爆撃とはまた違った、ある興奮と熱気に包まれていた。
それは――先月の伊良湖試験場、M4中戦車の射撃試験に似ていた。
零式艦上戦闘機――略称『零戦』。史実での初飛行は1939年4月だが、既に大村の上空を1、2度程飛行していた。飛行場には計12機の二一型、14機の五二型、そして1機の五四型が駐機されていて、それぞれが『夢幻の艦隊』の一隻、空母『天城』に載せられた廃棄品だった。
戦後、本土決戦に備え大東亜共栄圏の各地から回収された零戦の将来は決まっていた。廃棄である。一部は鹵獲され、調査が進められたが、F6FやP-51に幾度となく負け続けてきた老朽機から学べる所は少なく、戦力を削ぐ為にも、零戦の多くは埋め立てや、焼却処分に至っていた。
一方、雲龍型空母『天城』は1945年7月25日、28日の呉軍港大空襲を生き残った艦船である。史実通り、呉の対空砲台として軍港内に停泊していたが、沈む事はなかった。戦艦『大和』の対空砲撃と、ジェット戦闘機『橘花』の到来による成果の賜物であった。GHQはこれを復員艦の一つとして利用するとともに、戦艦『大和』同様、核実験の標的艦とする事を決めた。そして、余剰した零戦を艦内一杯に詰め入れ、核実験で処分する事としたのである。烈風等は加えられなかった。ビキニ環礁での核実験前に他艦との合流の為、ハワイに向かった天城はこの時、ついでの任務としてハワイの海軍技術者達の為にある特別な機体を2種類載せていた。
それが零戦五四型と『橘花』であった。
零戦五四型は五二丙型の動力源、栄エンジンを三菱製金星六二型に換装した型である。これまでも計画され続けてきた金星搭載型零戦だが、これは初めての完成品であり、数少ない試作機でもあった。1945年4月、この五四型の試作機が完成するが、既にその頃には全てが遅かった。心臓部たる金星六二型エンジンの生産ラインは空襲によって破壊されていたからだ。その後、試作機として造られた2機はテスト飛行を行う事も無く、地上で終戦を迎える。
その後の五四型の運命も悲惨と言えば悲惨だった。ハワイに送られたはいいものの、技術者や海軍上層部の多くは、純粋なMe262のデータを元に造られた『橘花』にばかり目を向けていた。その結果、五四型は“不要”と判断され、天城や余剰の零戦とともに、ビキニ環礁へと送られる。
1945年7月、第三四三海軍航空隊『剣部隊』に所属する橘花は呉上空に飛び、迫り来る艦載機群を駆逐した。史実とは違い、伊号二十九型潜水艦はバシー海峡で沈む事はなかった。貴重なドイツ土産、Me262とMe163、ウルツブルクレーダーにエニグマ暗号機等を日本へと持ち帰る。その後、Me262をベースに開発された『橘花』は当初から純粋な戦闘機としての開発が進められ、予想以上に早く試作機が完成。その後、生産がある程度進み、剣部隊に配備される。7月25日、28日には松山飛行場から飛び立ち、最初で最後の戦闘を経験する事となる。因みに伊号二十九潜水艦は再度ヨーロッパへと赴き、そこでR4M『オルカン』ロケット弾の設計図等を持ち帰る。R4Mは何とか国産化されたものの生産はごく少数で、呉軍港空襲の際、剣部隊はその大部分を消費した。しかしながら、結果的には相手に甚大なダメージを与え、『大和会』に元設計陣所属者とその複製設計図をもたらす事となる。
伊藤が車を降り、零戦と九六式艦上戦闘機の列に加わると、山本は伊藤を質問攻めにした。この暗緑色の戦闘機は何という名前か?どれ位の性能があるのか?更に伊藤が予想していた通り、何時頃、帝国海軍はこれを完成させるのか?という事を聞いてきた。伊藤は一つ一つ、細かく噛み砕いて伝え、その後専門的な面を教えた。無論、欠点も。
伊藤の危惧する事は概ね、零戦についてだった。陸上戦闘機、艦載戦闘機、そして特攻機若しくは焼却・埋め立て・解体経由でその生涯を終えた零戦は、戦争が進むにつれ、その惨めさが増していった。F6F『ヘルキャット』の台頭、戦争中期を迎えた頃には、零戦は『空飛ぶ棺桶』、『空飛ぶ的』に落ちぶれる。元々、翼内という敵機に最も狙われる部分に燃料タンクを載せながらも、タンクに防弾処置等を施していない零戦は、脆弱としか言い様がないのが現実だった。その脆弱性を解決するが為、後期には機体強化を図り、生存性向上に努めたものの、逆に現場では自らの命を削ってでも航続距離・格闘性能の高い初期型機、零戦二一型を好く者が多かった。そんな考えの違いも多々あった。
「零戦は強い。でも諸刃の剣なんですよ」伊藤は言った。「本当に。例えじゃなく」
伊藤が山本にそう話す中、一人の海軍将校が零戦に乗り込んだ。五四型、金星六二型を搭載した機体である。それは今回の飛行試験の一環だった。
「1944年、マリアナ沖で大規模な海戦がありましてね」伊藤が言うのは1944年6月19日、20日に行われたマリアナ沖海戦である。ここで大日本帝国海軍は航続距離と格闘性能の高い零戦を送り出し、米海軍に差し向けた。一方のアメリカはF6Fを出した。圧倒的性能は元より、零戦搭乗員の錬度不足、対空レーダー、VT信管の前に零戦の大部分は駆逐され、迎撃機群を逃れて米機動艦隊に直接攻撃出来たのは僅かだった。結局、海戦はアメリカ側に軍配が上がる。
「諸刃の剣の代償ですね」伊藤は言った。「それまでに1度の戦闘で幾人ものパイロットが零戦で散ってしまった。だが現場はその後、改良機が送られても死と隣合わせの環境を欲した」
「欲した……ではなく、欲するしかなかった……だろうね」
「えぇ。仰る通り」伊藤は頷いた。
「だから女子をパイロットに?」
「いえ、それだけという訳じゃありませんがね」伊藤は言った。「大日本帝国は陸海軍ともに『精神論』が渦巻いていましたから、私はそれを廃したいと思ったのです。その末路なんて、こんなものですよ」伊藤は言い、自分を差した。「手っ取り早く変化を付けるには、私の歩んだ歴史とは違う事、物、戦力を造ってやればいい、と思いましてね」
伊藤はその時、ある懸念を例として更に説明した。その懸念とは、先の伊良湖試験場で行われたM4中戦車の射撃実験である。
「あれは成功ではないのですか?」
伊藤は静かに頷いた。「ある意味ではそうですが、またある意味では違います。あの後、陸軍がM4同様の性能を誇る戦車を技術者達に求めたとしましょう。技術者は無理難題と知りながらもそれに近い戦車を造ったが、カタログスペックが満たなかった。陸軍上層部はM4への危機感と苛立ちから、この結果を技術者達の態度のせいにし、開き直ったら……」
「つまりこうですな。『貴様らは精神が弛んでおるから造れないのだ』と?」
伊藤は頷いた。「それでは余計、彼等は精神論を推奨していくでしょう。実際には、現在の帝国の工業力が問題だとしても」伊藤は言った。「その後も無理な事を成し得ようとして失敗すれば、根性で解決しろと言ってふんぞり返り、現実から逃避する」伊藤は言った。「逆に後々、それに近いものが出来れば『ほら見ろ』と言わんばかりにしゃしゃり出て、精神論を語る」
伊藤は唸った。「それに、これは海軍にも言える事ですよ」伊藤は言った。「零戦もまたその例の一つですからね。高過ぎる性能に悩み、出した“答え”がこれです」
そう言い、伊藤は零戦を指差した。「命と引き換えに、一定の性能を満たしたんです」
伊藤はそこで黙り、空へと飛び立とうとする零戦五四型に目を向けた。機体は暁光に煌めき、包まれた。金星六二型エンジンが咆哮し、轟音を立てて零戦は進む。
――そして、暁の空に零戦は飛び立った。
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