第1話 大和、沈マズ
第1話『大和、沈マズ』
1945年8月15日
広島県呉市
呉海軍工廠は静寂に包まれていた。
いつもは工作機器の駆動音に負けない位、胸から張り上げられた工員達の声が大気を揺るがす筈だった。色褪せた作業着、履き古した作業靴で、たゆみなく動き回っている筈だった。
艦船にとって、彼らは血液の様なものだった。体内を休みもせずに循環し続け、生体機能を可能としている。先月、大規模な空襲を被った呉の港にしてみれば、今こそ血液が必要となる。しかし、まだ正午だというのに作業は中断され、補修を何日も、何週間も待っている艦船は整然と並べられたままだった。機能が停止しているその要因は、朝早く――午前7時に流されたラジオ放送だった。
呉海軍工廠の一角、とある軍艦に休息と修繕を提供する船渠は、他に比べても明らかな差が確認出来る。長さ314m、幅45m、深さ11mのそれは、大日本帝国が誇る超大型戦艦――『大和』の為、拡張工事がなされて造られた船渠だった。史実には今、その主の姿は無い。
しかしながら、戦艦大和は其処に居た。厳重な警備態勢、徹底した秘密主義、しかし最期は悲惨であった――大和は確かに、堂々と、しかるべき場所に居た。
どうして大和が終戦間近の呉海軍工廠に居るのかは、4ヶ月前の四月上旬に遡る。
太平洋戦争末期――『菊水作戦』に大和が起用され、入念な準備が進められていた中、連合軍は裁きの鉄槌を下した。午前11時、豊後水道上空。銀翼を煌めかせ、B-29『スーパーフォートレス』――計800機に及ぶ大爆撃編隊は、多数の護衛機を付け、山口県徳山市に侵入した。
天然の良港、徳島湾を備え、石油精製業を中核と成す重化学工業地帯である徳島市は地理的位置からもそうだが、山口県東部における中心都市であった。
大日本帝国海軍はここに『第三燃料廠』を置いていた。燃料廠とは、海軍で必要とする燃料、潤滑油の生産・加工・研究開発を行う施設である。徳山市に置かれた第三燃料廠は日本最大の規模を誇る呉の軍港を支える為の重要な補給拠点であった。連合艦隊旗艦の大和を始め、呉の軍艦の多くはこの徳山の第三燃料廠にて、燃料補給を行う。
そんな重要拠点が空襲の被害を受けるのは、時間の問題だった。800機に及ぶB-29が大編隊を組んで、真昼間から堂々と攻撃を図ったのは、完全なる力押しを狙った結果だった。B-29は四基のライトR-3350エンジン――通称『デュクレップスサイクロンエンジン』――を吼え立たせ、徳山の空を轟々と越えていった。12.7mm重機関銃に守られた超空の要塞は、いかなる存在をも阻み、護衛機の助けを借りずとも十分に徳山に到達出来る力があった。
史実では一ヶ月後の五月十日に行われるこの大空襲は、徳山の重工業と燃料拠点としての機能を、完膚無きにまで叩き潰した。B-29は高射砲陣に阻まれたはしたものの、800機という大軍勢を前にはどうしようもなかった。
爆撃手が地上に向けて、怒涛の如く爆弾を投下する。その眼下には、業火に包まれ、紅く染まった徳山の街が広がっていた。今回の爆撃作戦は、軍事目標だけではなく工業地帯も狙ったのもので、都市全体を破壊する結果を招いていた。市内中心部に位置する第三燃料廠は周囲に民家を備え、パールハーバーの十倍は悲惨な実情に至る事となった。開口した機体爆弾倉から飛び出した多数の焼夷弾と爆弾は、その強力な火力を存分に発揮し、全てを粉砕した。
こうして、燃料廠としての機能が失われた徳山の惨状はすぐさま報告され、大和を主とする艦隊は、燃料の喪失から基地への逆戻りを余儀無くされた。
1945年7月、米海軍の2度に渡る空襲に対し、大和は軽微の損傷のみに済んだ。
そして――今に至る。
8月15日正午、玉音放送が流れ出したのだ。
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