↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

後輩が異世界に帰るというので…

作者: mom
掲載日:2026/10/27

「俺、今月いっぱいで辞めるんですよ」


 金曜日の午後十時四十七分。

 ようやく会社を出たところで、瀬尾くんが言った。


 私は鞄の中のスマートフォンを探す手を止めた。


「……初耳なんだけど」

「今日、正式に決まったので」

「転職?」

「帰郷です」


 何か言わなければと思った。

 けれど最初に浮かんだのは、駅前の定食屋だった。


 いつも彼が座る、壁側の席。

 来月からあそこへ一人で座る自分を想像して、急に空腹がわからなくなった。


「……引き継ぎ、大変だね」

「そこですか」

「大事でしょ」


 彼は困ったように笑った。


 二十七歳。入社二年目。

 仕事が早く、愛想がよく、上司にも妙に物怖じしない。私が五分悩んで送るメールを、彼は三十秒で送る。しかも角が立たない。ずるいと思っていた。


「実家、遠いんだっけ」

「かなり」

「海外?」

「世界が違います」


 私は彼を見た。


「そういう冗談、今日ちょっと処理できない」

「じゃあ、結論から言いますね」


 彼はいつもの調子で続けた。


「先輩も、一緒に来ません?」


「実家に?」

「俺のいた世界に」


 近くの居酒屋から、笑い声がこぼれてきた。

 私はため息をついた。


「とりあえず、ご飯食べよう。お腹すいてると、変なこと考えるから」

「俺は真剣なんですけど」

「わかった。餃子つけていいから」


 辞めるという話まで冗談だったらいいのにと、思ってしまった。


####


 残業帰りに二人で食事をすることが、この一年でずいぶん増えた。


 最初は偶然だった。

 二度目は彼に誘われた。

 三度目からは、どちらが誘ったのか覚えていない。


 ただ、いつからか、遅くなると彼の席を確かめるようになっていた。


 まだいる。

 そう思うと、少しだけ気が軽くなった。


「先輩、今日、昼食べてないですよね」


 席に着くなり指摘された。


「食べたよ」

「何を」

「チョコ」

「それは休憩室の共有物です」

「あと、クッキー」

「種類の問題じゃないです」


 私は笑って、メニューを開いた。


 ここ数週間は特に忙しかった。

 買った本は袋に入ったままだし、友人への返信も遅れがちだ。休みの日に片づけようと思っていたことを、次の休みへ送っている。


 帰ってから夕食を作る余力はなくても、彼に誘われると寄り道をする気になれた。


「鯖にする?」

「俺、生姜焼きにします」


 料理が来ると、生姜焼きが二枚、小皿に移された。


「一枚でいい」

「じゃあ、一枚返してください。代わりに鯖も」


 私は一枚戻し、鯖の骨のないところを選んで分けた。

 彼はそれを見て、少し笑った。


「何?」

「いえ。いただきます」


 彼と食べていると、今日あったことが次々に浮かんだ。

 おかしな依頼に首をかしげたり、うまくいった仕事を少し大げさに褒め合ったりする。彼が笑うと、もう一つ何か話したくなった。


 会社では、その笑い声が聞こえても、簡単には振り向かないようにしていた。

 自分から誘うのも、二回続かないようにしていた。


 五歳年下の後輩との食事に、私だけが意味を持たせていたら恥ずかしい。


「退職、考え直せないの」


 鯖の皮を箸でつつきながら聞いた。


「寂しいですか」


 顔を上げられなかった。


「……一人だと、魚と肉、両方食べられないから」

「それは困りますね」


 彼の声が少し柔らかくなった。

 窓へ目を逃がして、私は違和感に気づいた。


 ガラスに映る彼の肩越しに、壁の木目が透けている。


「……窓、変じゃない?」


 彼は窓を見て、それから自分の肩を見た。


「最近、映りが悪いんですよね」

「何が?」

「俺が」


 向かいにいる本人は、いつもどおりだった。


「瀬尾くん」

「はい」

「さっきの話、もう一回して」


 彼は箸を置いた。


####


 瀬尾くんは別の世界から来た。

 帰るための道は残してあるけれど、使えるのは一度だけ。


 そして、この世界で生まれていない彼は、ここに長く居続けることができないという。


「最初は、センサーが反応しなくなりました。自動ドアとか」

「うちの会社の?」

「先輩が後ろから来て、開けてくれたことあったでしょう」


 覚えていた。

 両手に資料を抱えた彼に、私は「顔認証に嫌われた?」と笑った。


「このままいたら?」

「消えます」


 私は箸を落とした。


 彼が店員を呼び、新しい箸を頼む。その落ち着いた声が、ひどく腹立たしかった。


「死ぬってこと?」

「たぶん。それに近いことだと思います」

「そんな状態になるまで、いたの?」

「いつまでいられるか、正確にはわからなかったんです。最近、こういうことが増えてきて」


 彼は湯呑みを置き、その上に指をかざした。


 湯気がほどけ、小さな鳥の形になる。

 鳥は羽ばたいて、私の指先に止まった。ほのかに温かかった。


 息を呑んだ途端、それはただの湯気に戻った。


「……帰れるんだよね」

「はい」

「一人でも?」

「もちろん」


 私は大きく息を吐いた。


「じゃあ、帰って。消える前に」

「そのつもりです」


 彼はうなずいた。


「その前に、一緒に来ないかなと思って」


「なんで私なの」


 彼はしばらく黙っていた。

 新しい箸が運ばれてきて、隣の客が会計に立った。


「先輩に、会いたくて来たので」


####


 私は、前にも一度、生きていたらしい。


 彼のいた世界で。

 別の名前で。

 彼と恋をして、それから死んだ。


 聞いても、何も思い出さなかった。


「生き返らせたかったんです。でも、身体はもう戻せなかった。できたのは、魂を、別の世界で生まれる命につなぐことだけでした」


「それが、私?」

「はい」


「赤ん坊から?」

「そこは、選べなくて」


 だから私には、彼と過ごした記憶がない。

 生まれたときから、ずっとない。


「こちらへ来る方法が見つかったとき、向こうでは四年でした。会えても、小さな子どもだろうと思ってたんです」


「来てみたら三十二歳」

「はい」

「悪かったね」

「いえ」


 彼が顔を上げた。


「ちゃんと、大人になってたので」


 そう言ったときの顔を、私は知らなかった。


「一目、会えたらよかったんです。生きてるってわかれば、それで」


 彼は自分の手に視線を落とした。


「あなたが望んだかもわからないのに、俺が、もう一度会いたかったんです」


 謝られたのだと、少し遅れてわかった。


 私にも、自分の手が目に入った。

 母に爪を切ってもらったことも、父と手をつないだことも覚えている。


 彼の知らない三十二年が、私にはある。


「……望んでたかどうかは、私にもわからないよ」


 彼はうなずいた。


「でも、今まで生きてきたことまで、悪かったみたいに言わないで」


 彼が顔を上げた。

 何か言おうとして、それから、もう一度うなずいた。


 その表情を見ているうちに、胸の奥が痛くなった。


 ここまで会いたいと思われる人が、羨ましかった。


「……どんな人だったの」


 聞かなければよかった。

 彼の目元が、少し和らいだからだ。


「よく笑う人でした。怒ると、すぐ顔に出て。困ってる人を見つけると、放っておけなくて」


「素敵な人だったんだね」

「はい」


 私は冷めたお茶を飲んだ。


 今の私は、自分のことで精いっぱいだ。

 頼まれた仕事を断れないのも、優しいからばかりではない。嫌な顔をされるのが怖いし、説明する方が面倒な日もある。


 あの人を取り戻したかったのなら、がっかりしただろうか。


 帰りの電車で、疲れた自分の顔を窓に見ながら、そんなことを考えていた。


####


 月曜日、出社すると、瀬尾くんは会議室で引き継ぎをしていた。


 ガラス越しに目が合う。

 軽く片手を上げられただけで嬉しくなって、そんな自分に腹が立った。


 昼過ぎ、机にお茶が置かれた。


「今日、顔色悪いですね」

「寝不足」

「金曜日の話で?」

「……まあ」


 彼は黙った。

 その沈黙まで、昔の誰かを思っているように感じられた。


「別に、気を遣わなくていいよ」

「気は遣いますよ」

「私、覚えてないんだから」


 思ったより硬い声が出た。


「昔の私にしてあげたかったこととか、そういうの、今の私にしなくても」


 彼が動きを止めた。

 顔が熱くなった。


「ごめん。今の、忘れて」

「先輩」

「午後、会議あるから」


 資料を持って席を立った。


 誰もいない会議室に入り、椅子に座る。

 持ってきた資料の文字が、少しも頭に入らなかった。


 気遣われるのも、それをやめられるのも嫌だった。


 彼が誰を好きなのか、ずっと気にしていた。

 他の人と笑っていれば、その話を知りたかった。

 一緒に帰る理由を探して、二人の夕食を楽しみにしていた。


 そこまで考えて、ようやく認めた。


 私は瀬尾くんが好きだった。

 異世界の話を聞くよりも、ずっと前から。


 その日は、自分から食事に誘った。


 いつもの店で、今日は二人とも肉料理を頼んだ。

 交換するものがないことが、妙に気になった。


「昼間、ごめん。八つ当たりした」

「俺も、ちゃんと話せてなかったので」


 私はグラスに触れた。


「私が、何も思い出さなかったら?」


「それでも、一緒にいてほしいです」


「昔の人と、全然違ってても?」

「違いますよ、結構」


 顔を上げた。


「……そこは、もう少し言い方ない?」

「すみません」


 彼が小さく笑った。

 私も少しだけ笑えて、怖かったことを聞いた。


「がっかりした?」


 彼はすぐに首を振らなかった。


「寂しくなったことは、あります。一緒に覚えてるつもりで話しかけて、そうじゃないって気づいたり」


「……うん」


「でも、知らないことも増えました」


 彼が私を見た。


「甘いものは好きなのに、パンはしょっぱい方を選ぶとか。笑っちゃいけないとき、下向いてごまかすとか」


 私はグラスから手を離した。


「俺に鯖を分けるとき、毎回、骨を取ってくれるとか」

「……刺さったら嫌でしょ」

「はい。嬉しいです」


 そんなことまで、見ていたのかと思った。


「先輩とご飯を食べたいとき、昔のことは考えてないです。今日の話の続きを聞きたいとか、あの店なら好きそうだなとか」


 彼は少し視線を落とした。


「帰ってからも話したいことが、増えました」


 嬉しくて、うまく返事ができなかった。


「家では、結構だらしないよ」

「俺もです」

「休日、一日寝てることもある」

「俺も、たまに」

「向こうでも?」

「向こうでも」


 彼は真面目に答えた。


「暮らしたら、嫌なところもあると思います。俺にも」


 私はうなずいた。

 知らないところがあるのは、少し怖くて、少し楽しみだった。


「先輩」


 彼が背筋を伸ばした。


「好きです。一緒に来てほしい」


 私は膝の上で指を握った。


「今のは、今の私に言ってる?」

「はい」


 今度は、目をそらさなかった。


「……嬉しい」


 彼の顔が、少しずつ赤くなった。

 いつもの軽口が返ってこないことまで、嬉しかった。


####


 出発は、月の最後の土曜日だった。


 彼は、私を生まれ直させるために、魔法を使う力の多くを失っていた。

 世界を渡るためにさらに使い、帰還の道を閉じれば、残りも尽きる。


 もう一度会いに来ることはできない。


「その道、私も通れるの」

「俺と一緒なら。ただ、途中で手を離さないでください」


「私も向こうで消えたりしない?」

「先輩はこちらで生まれたから、この世界の人です。でも、魂の生まれた場所は向こうなので、あちらにも受け入れられます」


 彼は自分の胸に触れた。


「俺は、身体ごと無理に入り込んだので」


 住む家はあるという。

 二人で食べるくらいの蓄えもある。


「ただ、先輩の好きなあのプリンはないです」

「重大な問題だね」

「すみません」


 笑ったあとで、私は聞いた。


「帰りたくなっても、帰れないんだよね」

「……はい」


 彼は、できないことを約束しなかった。


####


 週末、大学時代からの友人に会った。


 もう会えないかもしれない場所へ行く、と話すと、当然のように怒られた。


 騙されているのではないか。

 一度、その男を連れてこい。


 翌日、瀬尾くんは彼女の前で、小さな光を咲かせた。


 友人は長いこと黙り、それから私に聞いた。


「あんた、本当に行きたいの?」


 私はすぐには答えられなかった。


 この世界には好きな店がある。

 季節になると歩きたくなる道もある。

 仕事に不満はあるけれど、うまくいけば嬉しいし、頼りにしている同僚もいる。


 目の前には、私のために怒ってくれる友人がいた。


 ここで生きていける。

 彼がいなくても、明日は来る。


 それでも、夕方になれば隣に座って、今日あったことを話したかった。

 仕事の話を一度もしない休日に、彼がどんなふうに笑うのか知りたかった。


「行きたい」


 声にすると、涙が出た。


「あの人と、ずっと一緒にいたい」


 友人は私をしばらく見て、ティッシュの箱を押しつけてきた。


「じゃあ、ちゃんと幸せになりなよ。連絡も寄越せないなら、なおさら」


 その夜、彼に返事をした。


「一緒に行く」


 彼は動かなかった。

 顔をのぞくと、ようやくこちらを見た。


「……いいんですか」

「うん」


 私は膝の上で指を握った。


「あなたが帰るって聞いたとき、もう一緒にご飯を食べられないんだって思った。それが、一番嫌だった」


 彼は黙って聞いていた。


「昔の恋人の話も、聞きたくなかった。自分のことだって言われても、羨ましくて」


「先輩」

「最後まで聞いて」


 彼は口を閉じた。


「好き。異世界の話を聞く前から、あなたが好きだった」


 声にしたら、胸が少し軽くなった。


「向こうでも、私と恋愛してほしい」


 やがて、彼の手がそっと私の手に触れた。


「……はい」


 いつもよりずっと小さな声だった。


「お願いします」


 指を絡めると、彼はうつむいた。

 暗くても、耳が赤いことだけはわかった。


####


 それからの日々は忙しかった。


 会社に退職を申し出て、引き継ぎを進めた。

 部屋を片づけ、必要な手続きを調べた。


 故郷へ帰り、両親の墓を掃除した。

 話すことが多すぎて、途中で何度か笑ってしまった。帰り際には、なかなか立ち上がれなかった。


 友人とは何度も会った。

 残った荷物や部屋の引き渡しまで引き受けてくれて、礼を言っても足りなかった。


 最後に会った日は、二人ともなかなか帰ろうと言えなかった。


 出発前夜、小さな旅行鞄を閉じた。


 部屋はずいぶん広くなっていた。

 ここに越してきた日を思い出しながら、最後の一晩を過ごした。


####


 夢をみた。どこか懐かしくて、とても優しい時間。

 

 誰かが、私の膝に頭を預けていた。


 開けた窓から風が入ってくる。

 何か言われて、私は笑った。


 その髪に指を通すと、彼は目を閉じたまま私の手を取り、頬に押し当てた。


「レオン」


 呼ぶと、彼がこちらを見た。


 何を話そうとしたのだったか。

 その顔を見たら、どうでもよくなった。


 私は身をかがめて、彼の額に唇を寄せた。


 もう少し、このままでいたかった。


     *


 目が覚めると、夢は急速に遠ざかっていった。


 どこにいたのか。

 何をしていたのか。

 思い返そうとするほど、わからなくなった。


 ただ、誰かがひどく愛しかった。


 それから、一つの名前が耳に残っていた。


 レオン。


 布団の中で小さくつぶやいてみた。

 初めて口にするはずなのに、妙に呼び慣れた響きだった。


####


 待ち合わせの河川敷へ着いたのは、夕暮れ前だった。


 彼は橋の下に立っていた。


 薄手のコート。いつもの鞄。

 見慣れた姿なのに、輪郭が夕日の中へ溶けかけていた。


 私は足を速めた。


「待った?」

「いえ」


 彼は私の鞄を見た。


「ずいぶん、少ないですね」

「持っていけるもの、わからなかったから」

「向こうで買えます」

「じゃあ、案内して」


 伸びてきた指が、鞄の持ち手をすり抜けた。


 二人とも黙った。


 彼は自分の手を見下ろし、困ったように笑った。


「もう少し、格好つけたかったんですけど」


 私は鞄を置いて、彼の手を取った。

 一度、空を切った。

 もう一度伸ばすと、触れられた。


 両手で包むように握ると、彼がほっとしたように目を細めた。


「……レオンで、合ってる?」


 彼の指が止まった。


「なんで」


「夢を見たの。誰かと一緒にいて、すごく幸せだった気がする」


 私はつないだ手を見た。


「何をしてたかも、顔も、もう思い出せない。でも、その人を呼んだ名前だけ、耳に残ってて」


 彼を見上げた。


「あなたの名前なのかなって」


 彼は私を見つめていた。

 問いかけるような目に、小さく首を振る。


「ごめん。昔のことは、何もわからない」


「……はい」


「でも、誰かを、すごく好きだった気がする」


 彼の顔がゆがんだ。

 笑おうとしているのだと、少し遅れてわかった。


 私は握っていた手を引き、彼に近づいた。


「その人も、あなたが好きだったんだね」


 彼はうつむいた。

 やがて、額が私の肩に触れた。


「……はい」


 声が震えていたので、空いている手を背中に回した。


 しばらくして顔を上げた彼に、もう一度聞いた。


「合ってる?」

「はい」


 彼は目元をぬぐった。


「レオンです」


「レオン」


 手が、強く握り返された。


 レオンは空いている手を、何もない空間に当てた。


 水面を指でなぞるような音がした。

 夕暮れの景色が縦にほどけ、その向こうに青い空が見えた。


 草と、湿った土の匂いがした。


「最後に、何か忘れ物は」


 私は振り返った。


 橋を自転車が渡っていく。

 川沿いを犬が歩いている。

 遠くのマンションでは、明かりがつき始めていた。


 見慣れた景色を、できるだけ長く見た。


「たぶん、いっぱいある」


 鞄を持ち上げ、彼の手を握り直した。


「でも、行く」


####


 向こう側は、朝だった。


 白い花の咲く丘に、小さな石造りの家があった。

 煙突には、見たことのない青い鳥が止まっている。


 振り返ると、もう道はなかった。


 隣で彼が長く息を吐いた。

 その手は温かく、少しも透けていなかった。


 私は鞄を下ろし、彼の頬に触れた。


「もう、大丈夫?」

「はい」


 輪郭を確かめるように指を動かすと、彼がくすぐったそうに笑った。


 私も笑った。

 その拍子に涙が出て、自分でも驚いた。


「抱き締めても、いいですか」


 私はうなずいて、彼のコートをつかんだ。


 背中に腕が回る。

 会社で並んで歩いていたときには知らなかった温かさに、私も腕を伸ばした。


 しばらくして顔を上げた。


「お帰り、レオン」


 彼は笑うまでに、少し時間をかけた。


「ただいま」


 家へ向かいながら、私は尋ねた。


「ねえ。明日、何時に起きればいい?」

「目が覚めたらでいいですよ」

「じゃあ、寝坊するかも」

「朝食、残しておきます」

「先に食べるんだ?」

「起きる時間によりますね」


 笑いながら、彼がこちらを見た。


「そのあとは、町へ行きませんか」

「何かあるの?」

「見せたいものが、たくさん」


 私はうなずいて、それから少しためらった。


「それ、デート?」

「そのつもりです」


 彼は少し得意そうだった。

 その顔なら、知っている。


「じゃあ、起こして」


 つないだ手を、少しだけ引いた。


####


 一目会えれば、それでよかった。


 生きているとわかれば、一人で帰るつもりだった。それなのに、食事をするたび、話をするたび、次の約束が欲しくなった。


 隣を歩く彼女は、昔のことを覚えていない。

 それでも、好きだと言ってくれた。


「明日、楽しみだね」


 彼女が笑った。

 レオンは、つないだ手を握り直した。


 もう一度会いたかった人と、明日の約束がある。

 今はただ、それがたまらなく嬉しかった。

お読みいただきありがとうございました。


「一緒にご飯を食べる」ことが、いちばんの告白みたいになればいいなと思って書いた話です。鯖の骨を取ってあげるような、何気ない優しさの積み重ねが好きな方に届いていたら嬉しいです。


よろしければ、感想や評価をいただけると励みになります。


長編ファンタジー『氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―』も連載中です。魔法の使えない女調査官と、静まり返る森の謎の物語。こちらも覗いてもらえたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。