第5話:絶対的被写体と、無風のアネモネ
「ついに……ついに私たちの伝説が始まるっ!」
地下スタジオの鏡の前で、アカリがスパンコールのスカートを揺らして跳ね回る。
カビの匂いが染み付いた壁際に座り、アタシはスマートフォンの画面を親指で何度も下にスワイプした。ツブヤイターの『638』、イノスタの『821』という数字が、更新のロードマークが回るたびに確かな質量を持って光る。
つい数週間前まで、事務所のアカウントと数人の幽霊フォロワーしかいなかったアタシたちの箱庭。それが今、急速に熱を帯びて脈打っていた。
「もう先ほどから3回は同じこと言っている自覚あるかしら? 路上ライブの告知の反応が上々なのは理解できるけれど、少しは落ち着きなさい」
ストレッチマットの上で開脚するレイが呆れたように息を吐く。だが、ミリ単位で足首の角度を調整する彼女の口元も、隠しきれないほど微かに緩んでいた。
『感謝、推奨。私のマーケティング、ちょー上手。ほめろほめろ』
右耳のイヤホンから響くミヤの電子音声。
『でも、キイロのコツコツ投稿、参考になる。あと、印象も、ぐっど。よくやった』
「えっ……」
「そうね。ユナが常に色々投稿してくれていたから、これまでも何とかグループを維持してこれたわけだし。アイドルとしてのきちんとした下積み時代の証拠は重要よ」
「あはは、ルナちそれはまだ気が早いんじゃない? ウチらはまだまだ下積みっしょ!」
アタシは画面から目を逸らし、前髪の毛先を指で弄りながら笑い飛ばした。けれど、手元の『821』という数字が、アタシの奥底で飢えていた何かをひたひたと満たしていく感覚は本物だった。
人を集めることの絶望的な難しさを、動員ゼロのこの場所で嫌というほど味わっていたはずなのに。液晶画面の向こう側の熱気に、アタシたちの足の重心は、知らず知らずのうちに浮き上がっていたのだ。
明日の本番を前に、誰も下を向いてはいない。それは衆人環視に晒される恐怖による強張りではなく、ただスタートダッシュを切るためだけに蓄えられた、熱を帯びたバネの収縮だった。
***
翌日。宮杜駅西口、巨大なペデストリアンデッキ。
春の生ぬるい風が、コンクリートと無機質なガラス張りの駅ビルに囲まれた空間を吹き抜けていく。定刻を知らせる駅前のからくり時計の鐘が、虚しく響き渡った。
「なんで……」
アタシの隣でマイクを握りしめたアカリの口から、擦れた空気が漏れた。
目の前を、何百、何千という靴音が通り過ぎていく。コンクリートを蹴る硬い音の波。誰の視線も、アタシたちには向いていない。あれほど告知の画面には「いいね」の赤いハートが並んでいたのに、足元で歩みを止める人間は、ただの一人もいなかった。
「み、みなさん! こんにちわー!!」
アカリが引き攣る頬の筋肉を無理やり上へ押し上げ、喉を裂かんばかりの声を張り上げる。
『まずい。ボリュームオーバー。騒音レベルの音量、契約違反。ぱにっしゅぱにっしゅ』
極端に収縮した声帯は、いつもの空間を震わせる「倍音」を全く生み出さなかった。スピーカーから吐き出されたのは、ただひたすらに耳障りで、上擦った金切り声。不快な騒音の塊が、駅前を行き交う人々の眉間を微かに顰めさせるだけだ。
「私たちっ! Try-Angleっていいまーす!! どこかで見たことあるよーって人、い、いますか?」
数秒の、残酷な空白。
行き交う人々はスマートフォンの画面や足元に向けた視線を一切上げず、誰一人としてアカリの声に応えない。
完全な無視。その居たたまれない沈黙に耐えきれなくなったように、アカリは逃げるように手元の再生ボタンを乱暴に叩いた。
流れ出した安っぽいカラオケ音源に合わせて、逆隣のレイがステップを踏み出す。だが、いつもなら機械のように正確で、滑らかな軌道を描くはずの彼女のターンは、致命的に軸がブレていた。着地の瞬間、ブーツの底がアスファルトと不快な摩擦音を立てて滑る。
嘲笑されるなら、まだマシだった。
石を投げられるなら、まだアタシたちは「存在」している証明になる。
だが、現実は違った。春の風に流されるアカリのノイズも、レイの不恰好なステップも、黄色い衣装を着たアタシの姿も。誰の網膜にも結像していない。何千人もの人間が、まるでアタシたちが透明人間であるかのように、ただの「風景」として素通りしていく。
目をそらしたい。分厚い眼鏡を隔てたい。見えない壁を挟みたい。逃げたい。苦しい。
誰もアタシを見てくれないのなら、アタシはアタシでいる必要がない。金髪のウィッグも、丁寧に作り込んだメイクも、この衣装も、すべて脱ぎ捨てて暗い部屋の隅へうずくまってしまいたかった。
──でも。
隣で、声を出せずに震えるアカリの肩が見えた。
いつもなら絶対に間違えない軌道を外し、呆然と立ち尽くすレイの横顔が見えた。
アタシが無価値なのはいい。でも、この真っ直ぐで不器用な2人の足掻きすらも、初めから無かったことのように素通りしていくこの世界は、何なのだ。
胸の奥で燻っていた恐怖が、どす黒い憤りへと反転していく。奥歯が軋む音が、脳内に響いた。
バラバラに離れるから、焦点が定まらないのなら。
アタシが、強引にくっつけてしまえばいい。
アタシはマイクを握る右手に限界まで力を込め、冷たいコンクリートの床を強く蹴り上げた。
──世界よ。アタシたちを、視ろ。
***
黄色い厚底のヒールが、冷たいコンクリートを強く蹴り上げる。
アタシは事前に決められていたフォーメーションを完全に無視し、ステージの左斜め前へと大きく踏み出した。
「ルナち~!」
「っ!? ユナ!? 貴女いま曲の最中……っ!」
ステップを乱して硬直していたレイの細い手首を掴み、アタシは強引に自分のペースへと引きずり込む。
レイの身体が大きく傾き、完璧だったはずのブーツの軌道が、アスファルトの上で鼓膜を削るような摩擦音を立てた。レイの端正な顔立ちから表情が抜け落ち、抗議のために開かれた薄い唇が微かに震える。
だが、至近距離でアタシの目を見た瞬間、彼女は小さく息を呑んで言葉を飲み込んだ。無様に震えていたはずのアタシが今、どんな顔をしているのか。きっと、這いつくばってでも他者の視線を喰いちぎろうとする、ひどく浅ましくて凶暴な顔をしているはずだ。
「はいは~い、ぐいぐいっとね。背筋は伸ばして、つむじを天に向けて。はい、おっけー。ルナちはもっと目立たなきゃ! だからここで、好きに踊ってね!」
アタシはレイの背中を押し、丸まっていた彼女の姿勢を力ずくで補正する。
レイは一瞬だけ抗うように肩を強張らせたが、やがて諦めたように小さく息を吐き出した。レイの身体は小柄だが、他者の目という縛りを捨て、純粋な物理法則のみに身を委ねたときの彼女の動きは、その小ささを完全に忘れさせるほどの圧倒的な引力を持っている。
アタシはレイから手を離し、右耳のイヤホンに向かって声を張り上げた。
「プロデューサー! 演出の変更を要求するわ。光も、風も、人の視線も騒音すらも、アタシたちの味方につけるにはどうすればいい!?」
世界中のすべての環境変数を瞬時に計算しろという、AIに対する傲慢極まりない無茶振り。右耳の奥で、ミヤの演算モジュールが微かな駆動音を立てるのが聞こえた。わずかな空白の時間、春の突風がアタシの熱を持った頬を撫でていく。
『……まいった。プロデューサーの役、熨斗を付けてご返却? のしのし』
「んにゃー、これだけでアタシの意図を汲んでくれるんだから十分っしょ!」
ミヤの電子音声が、愉快そうに跳ねる。
次にアタシが向かったのは、ステージの中央。張り付いた笑顔のまま、死体のように蒼白な顔でステップを踏み外している我らがリーダーの真正面だ。
アタシはすべての視線の矢面に立ち、アカリの華奢な身体に思い切り抱きついた。
「──……っ!?」
ぶつかった瞬間、アカリの身体は氷柱のように強張っていた。曲の最中に突然抱きつかれたという事態に、彼女の思考が完全に焼き切れている。黒いマイクを握る指先が、小刻みに痙攣しているのがシャツ越しに伝わってきた。
アタシはアカリの腰に回していた手をほどき、彼女の肩を掴んでくるりと百八十度回転させた。
至近距離で、正面から視線がぶつかり合う。
アカリの丸く見開かれた瞳が、アタシの顔と周囲の状況を必死に把握しようと瞬きを繰り返した。
数秒の、強烈な空白。
やがて、アタシの瞳の奥にある意図をはっきりと理解したのだろう。彼女の蒼白だった顔が、みるみるうちに沸騰するように赤く染まっていく。
アタシは、そんな彼女の背中を力いっぱい前方へと押し出した。
「アカリん……今ここで、バク宙ッ!!!!」
「ほへっ!?」
束の間の間奏。突然突き飛ばされたアカリは、目を白黒させて激しく腕を振り回した。
だが、天道アカリという少女は、考えるよりも先に身体が動く野生児だ。ふらつき、後ずさったアカリの足に、反射的なバネが宿る。
彼女はアスファルトを強く蹴り上げ、アタシたちと世界を隔てていた分厚い透明な壁を粉砕するように、見事な後方宙返りを決めた。スパンコールのきらめく赤いスカートが、空中で鮮やかな円を描いて翻る。
「おおっ」
「すげぇ、なんだ今のアクロバット」
冷酷な足音だけが響いていた空中回廊に、初めて、通行人たちの感嘆の声が落ちた。スマートフォンの画面から顔を上げ、こちらを指差す者が出始める。
「ひひっ、アタシたちのリーダーはすごいっしょ!」
アタシは息を切らして着地したアカリの横をすり抜け、彼女の手から黒いマイクを力ずくで奪い取った。
「さぁ、二人ともそこで思いっきり踊っちゃって!! アカリんはラスサビ前だから準備してね!!」
曲の最中にあるまじき、マイクを通さない地声での指示。だが、張りボテのパフォーマンスを続けるくらいなら、この泥臭い剥き出しの足掻きこそがアタシたちのベストだ。
「わ、わかったっ! って、あ、あれ? 私マイクが……」
「こんなものいらないよ。だからちゃんと、届けたい思いを、込めてね」
戸惑って両手を見るアカリに向けてマイクを振り、アタシはニヤリと笑ってみせた。
『ふふふ、演出の時間。まかせて。まずはレイ。振付変更。バランス、バランス、アラベスク……からの、ドン・ドン・タッ・タッ、ダウン、アップ』
「な!? いきなりっ!!」
イヤホン越しのミヤの指示に、レイが短い悲鳴を上げる。
彼女は一瞬、忌々しそうに右耳のイヤホンを深く押し込んだ。だが、次の瞬間には深く沈み込むようにステップを踏み替える。
白鳥が舞うような優雅なバレエの旋回から一転、レイは強烈なビートに合わせて重心を落とし、重厚なヒップホップのアイソレーションを叩き込んだ。
フリフリのアイドル衣装と、攻撃的でハードなストリートダンス。その強烈なミスマッチと、無駄を完全に削ぎ落とした力学的な身体制御が、足を止める野次馬の数を倍に膨れ上がらせる。
『アカリはこの場所を意識する。正面、見える? あのガラス張りのビルの真ん中。あそこに声を飛ばすの。うん、力抜けてる。完璧』
「了解!」
『ついでに側転して、宙返りも。それからこのちっちゃなステージいっぱい駆け回る、びゅんびゅーん』
「なんで!?」
意味不明な指示に叫びながらも、アカリは一度だけ大きく瞬きをし、野生の獣のように唇の端を釣り上げた。
彼女は次々とアクロバットを繰り出す。側転、宙返り。許された僅かなスペースを縦横無尽に走り回り、観客の視線を完全に釘付けにしていく。
そして、ミヤの最後の指示が飛んだ。
『ユナの小道具、これ。カチカチ』
「アタシだけそれ!?」
ミヤが指定したのは、機材の横に転がっていた清掃活動用の長いアルミ製の火ばさみだった。
『カチカチしながら踊る。今はユナが指揮者』
「指揮者……上等じゃないの!」
アタシは火ばさみを右手で掴み、金属の先端をカチカチと鳴らしながらステップを踏む。
バレエとヒップホップを融合させたレイの異常なダンス。アクロバットで駆け回るアカリ。そして、火ばさみを振って踊る金髪のアタシ。もはやアイドルのステージではなく、前衛的なサーカスだ。
アタシが打ち鳴らす火ばさみの無機質な金属音が、三人の荒い呼吸を、バラバラのステップを、冷たいコンクリートの上で一つの巨大な熱のうねりへと強引に巻き込んでいく。
***
カチッ、カチッ、カチッ。
右手に握ったアルミ製の火ばさみが、冷たいコンクリートの広場に無機質なビートを刻む。
アクロバットとストリートダンスが乱れ飛ぶ狂乱のソロパートが終わり、曲はサビのユニゾン――三人全員が全く同じ振付を踊るパートへと突入した。
だが、同じステップを踏み、同じ手の振りをしているはずなのに、目の前で繰り広げられているそれは、もはや同じダンスとは呼べない代物だった。
アタシの左側。レイの刻むステップは、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた『極北の静』だ。
彼女の動きには、一ミリのブレも、コンマ一秒の遅れもない。重力や空気抵抗といったすべての物理法則を完全に支配し、空間に幾何学的な直線を引くような無機質さ。
しかし、その冷徹な軌道の奥には、隠しきれない強烈な熱情が匂い立っていた。普段は分厚い洋書の陰に隠されているレイの透き通るような白い首筋を、ひと筋の汗がじっとりと滑り落ちていく。激しいターンのたびに、乱れた黒髪の一束が濡れた頬に張り付くが、彼女はそれを払おうともしない。伏せられた長い睫毛の隙間から覗くのは、この空間の変数を無理やりねじ伏せようとする、マッドサイエンティストの傲慢で冷たい瞳。そのギャップが、見る者の背筋を凍らせるほどの異常な色気を放っていた。
対して、右側。アカリの踊りは、空間そのものを制圧する『極地の動』だ。
レイと同じように腕を振り上げているだけなのに、アカリの可動域は人間の限界を軽く凌駕している。しなやかな獣のようなバネでアスファルトを蹴り砕き、全身の筋肉を爆発させる圧倒的な運動量。
激しいステップを踏む彼女の口からは、白く掠れた呼気が荒々しく吐き出されている。酸素を求めて大きく上下する華奢な胸。熱を帯びて赤く上気した頬と、首筋に微かに浮かび上がる青い血管。額から飛び散った汗の飛沫が、空中で透明な弧を描いて光を弾く。
彼女の全身から溢れ出すのは、生き汚いほどに真っ直ぐな、剥き出しの命そのものが放つ生々しいほどの美しさだった。
レイの『静』と、アカリの『動』。
極端すぎる二つのエネルギーの狭間で、アタシは火ばさみを握りしめたまま、必死に同じステップを刻んでいた。
(……くそっ、二人に喰われる!)
奥歯を強く噛み締める。
レイのような人間離れした正確さもない。アカリのような規格外のバネもない。二人の圧倒的な熱量に挟まれ、アタシのダンスはひどく中途半端で、凡庸なものに思えた。
だからこそ、アタシは『ユナぴ』として培ってきた、自分を最も可愛く魅せるための「絶対的被写体」のフィルターを、限界まで展開するしかなかった。
右へ三歩。顎の角度を十五度上げる。伏し目がちに流した視線を、狙いすましたタイミングで跳ね上げる。
汗で額に張り付いた金髪も、荒くなった呼吸で開いた濡れた唇も。すべてを「最高の画角」に収めるための演出として、生身の肉体で計算し尽くす。
「おい、両端の二人……同じダンスかよ、あれ」
「ヤバ……でも、真ん中の金髪の子がいるからか、めちゃくちゃ綺麗なグラデーションになってないか……?」
「すっげぇ……」
音楽と風のノイズに混じって、最前列で足を止めた野次馬のそんな呟きが鼓膜を掠めた気がした。
だが、今のアタシにその言葉の意味を咀嚼して反応する余裕なんて一ミリもない。ただひたすらに、己の画角を維持することだけで精一杯だった。
『……ユナ、そのまま。ちょー良い』
右耳の奥で、ミヤの電子音声が小さく響く。
『レイは脳。アカリは筋肉。そしてユナは、それらを繋いで制御する神経系。ユナの最適化がないと、このバグった生き物はすぐに自壊する。ユナが、二人を支えてる』
「……っ!」
奥歯を強く噛み締める。
アタシが火ばさみで刻むビートが、三人の荒い呼吸を、バラバラだったはずの熱量を、冷たいコンクリートの上で一つの巨大なうねりへと強引に巻き込んでいく。
アタシが動けば、釣られて観客の視線が動く。アタシが視線を誘導したその先に、完璧なタイミングでレイの冷たい刃のようなターンが突き刺さり、アカリの熱を帯びた跳躍が空気を震わせる。
もはや誰も、アタシたちを「風景」として素通りすることはできていない。
歩みを止めた人々の瞳には、汗と熱気、そして限界まで張り詰めた筋肉が描くこの異様なパフォーマンスから目を逸らせないという、本能的な硬直が張り付いていた。
『……スリー、ツー、ワン。ここ』
右耳の奥で、ミヤの電子音声がカウントダウンを刻む。
アタシは火ばさみを大きく振り上げ、レイとアカリに向けて鋭い視線を投げた。
言葉など一言も発していない。だが、熱に浮かされた二人の濡れた瞳が、確かにアタシの視線を真正面から受け止めた。交差する三つの視線が、目に見えない強靭な糸となって空間を縫い合わせる。
ドンッ、と。
アタシたち三人の靴底が、寸分の狂いもなく同時にアスファルトを叩いた。
右を向いて、顎を引き、指先を天に伸ばす。
アタシを接着剤にして、バラバラだった三つの軌道が、たった一つの点に向かって恐ろしい速度で収束していく。
──パンパンッ!!
三人が全く同じタイミングで、両手を打ち鳴らした。
その瞬間。
上空を覆っていた分厚い春の雲が、強風に煽られて僅かに裂けた。
そこから漏れ出した一条の強烈な太陽光が、宮杜駅の南側にそびえ立つ全面ガラス張りの商業ビルに激突する。
鋭角に反射した光の束は、まるで巨大な天空のスポットライトのように、コンクリートの広場に立つアタシたち三人の身体を、ピンポイントで暴力的に射抜いた。
「っ……」
あまりの光の強さと美しさに、観客の何人かが思わず目を細め、息を呑む気配が空気を伝って肌を叩く。
さらに、アカリが猛烈な運動量でかき回し続けていた気流の渦が、駅舎から吹き下ろす冷たいビル風と正面から激突した。
二つの巨大な風のベクトルが相殺され、アタシたちの足元を中心とした半径数メートルの空間に、奇跡のような「完全な無風状態」が生まれる。翻っていた三人のスカートの裾が、重力に従ってふわりと静かに落ちた。
光を操り、風を止めた。
ミヤという未来の悪魔がコンマ一秒単位で計算し尽くした、壮大な物理的ペテン。
だが、そのペテンを現実の三次元空間で完璧に体現し、世界に錯覚を強要しているのは、泥臭く足掻き続けるアタシたちの生身の肉体だ。
無風の光の柱の中で。
マイクを持たないアカリが、深く、深く膝を曲げた。
彼女の華奢な肋骨が、限界まで空気を吸い込んで大きく膨れ上がる。
視線の先にあるのは、観客ではない。先ほど太陽光を反射した、あの巨大なガラス張りのビルヂングだ。
アカリは肺の奥底に溜め込んだ熱のすべてを、真正面の硬質なガラスの壁に向かって、弾丸のように撃ち放った。
「~~~~~~~~っ!!!」
言葉にならない、純粋な音の塊。
規格外の倍音成分を含んだ凄まじい「生声」は、ガラスの壁面に激突して複雑な乱反射を起こし、巨大なシャワーとなって空中回廊の全体へ降り注いだ。
皮膚を叩き、内臓を直接震わせる、重力にも似た物理的な音圧。
広場を急ぎ足で通り抜けようとしていたビジネスマンの革靴が、アスファルトの上でピタリと止まる。
耳にイヤホンを押し込んでいた大学生の手が、だらりと力なく下ろされる。
アカリの放った調律の音波が、空間のノイズを完全に喰い尽くし、何千という人々の歩くスピードを強制的に遅延させていく。
沈黙と硬直が支配する広場の中心で、アタシたちは踊り続けた。
アタシという特異点を中心にして、光と風と音のうねりの中で、三人の身体が完全に一つに溶け合う。
汗に濡れた肌。限界を超えて熱を帯びた吐息。交差する鋭い視線。
無様で痛々しかったただの地下アイドルは、今この瞬間、息を呑むほどに美しく、熱く脈打つ、完璧な一つの「生き物」へと変貌を遂げた。
曲のアウトロが、ゆっくりと終わりへ向かってフェードアウトしていく。
アタシたちは最後のステップを踏み込み、冷たいアスファルトの上で、三人の身体を一つの美しいトライアングルに象って、ピタリと静止した。
胸が大きく波打ち、荒い呼気が白く空気に溶けていく。
三人の肩が、激しい呼吸に合わせて全く同じリズムで上下していた。
音楽が、完全に止んだ。
春の突風が再び吹き抜け、駅前の喧騒が戻るまでの、ほんの数秒間。
何十人もの人間が足を止めた宮杜駅前の広場には、誰一人として瞬きすらできない、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの、圧倒的で濃密な沈黙だけが降り注いでいた。
***
「すっげぇ……なんだよ今の……」
「Try-Angle……? いや、すごいものを見た……!」
結局、拍手の音が静寂を打ち破って尚、足を止めていたのはイノスタの821人にも、ツブヤイターの638人にも満たない、たったの15人だった。
されども15人。万年無観客ライブばかりのアタシたちにとって、0とそれ以外の差に比べれば、15人も1万人も変わらない。アタシたちのかけがえのないファンだ。
彼ら、彼女らの瞳はもう、手元の液晶画面に向けられていない。その視線の焦点は、一直線にアタシたち、Try-Angleの姿を射抜いていた。
それは値踏みするような冷たい視線でも、風景の一部として消費する無関心でもない。それは、アタシたちの存在を確かに認める、純粋な『熱』だった。
右手に握っていた火ばさみが、カラン、と音を立てて足元に転がり落ちる。
アタシは乱れた息を整えることも忘れ、目の前の十数対の瞳を見つめ返した。視界の輪郭が、不自然に滲む。液晶画面の向こう側にいる顔の見えない何万人よりも、今、目の前でアタシたちを見つめてくれているこの15人の体温の方が、圧倒的に重くて、熱い。
「っ……あ、ありがとうございましたぁーっ!!」
アカリが弾かれたように腰を九十度に折り曲げ、マイクを通さない生声を広場に響かせた。
つられるように、レイも深く頭を下げる。アタシも慌てて、乱れた金髪を揺らして深く一礼した。
すべてを出し切った、今のアタシたちにできる最大限のライブ。
心地よい疲労感と達成感に包まれながらアタシたちは顔をあげ、踵を返そうとし……
『……ん、おわり? セットリスト消化率まだ2割。まだまだ本番こっから。ちゃう?』
右耳のイヤホンから、ミヤの氷のように冷たい電子音声が落ちた。
「……え?」
アカリの間の抜けた声が漏れる。
『ライブはまだまだ。こっからが本番。……ほら、ファン獲得、マストでしょ』
「はっ! そうだった! まだ一曲目だった!!」
アカリが血相を変えて顔を上げ、手元のポータブルアンプの再生ボタンを慌てて押そうとして、焦りのあまり機材につまずいて盛大に転んだ。
「ちょっとアカリ! 何してるの、ほらはやく……へぶっ」
盛大に転んだアカリを起こしに行こうと慌てて駆け寄ったレイまでもが、足をもつれさせて無様に転がる。
「お、おいおい! 嬢ちゃんたち、あれで終わりにする気満々だったのかよ!」
「あははっ! さっきまでのクールなオーラどこ行っちゃったの!」
最前列で見ていたサラリーマンが吹き出し、十数人の観客からどっと温かい笑い声が湧き上がる。
アタシは顔から火が出るほどの羞恥に襲われながら、慌ててレイとアカリを引きずり起こした。
そのあとのパフォーマンスは、さっきみたいにはいかなかった。
レイのステップは少し乱れるし、アカリの歌声は時折ひっくり返るし、アタシも逆光の中で踊っちゃうし。
それでも、汗だくになって足掻き続けるアタシたちの泥臭いライブから、最後まで足を離す観客は一人もいなかった。
「「「ありがとうございましたー!! 以上、Try-Angleでしたっ!!」」」
アタシたちの声が、春の陽気に溶けていく。
こうして初めての路上ライブは、目標であるファン100人にはまだまだ届かないが、確かな成果と熱を帯びて締めくくられたのだった。




