第4話:マッドサイエンティストと、ドーナツの上の勿忘草
新学期初日の朝。日本人の8割以上がインフラとして依存しているメッセージアプリ『LiME』の通知音が、私のスマートフォンでけたたましく鳴り続けていた。
画面を開くと、私たち『Try-Angle』のグループトークは、春のうららかな陽気とは真逆の、どす黒い悲壮感に満ちたメッセージで溢れ返っていた。
【LiME】
ユナ:だいがくいきたくない
レイ:奇遇ね。私もよ
アカリ:なんで!?
ユナ:みばれする。昨日バズったせいで絶対特定される
レイ:貴女はまだいいでしょ。髪の色も金髪から黒に戻しているし、普段の様子も違うのだから。それに比べて私は……
アカリ:いーじゃんいーじゃん! みんなで有名人になれるよ!
ユナ:そういう問題じゃない。アタシの平穏なキャンパスライフが終わる。もうむりまじむり
レイ:キャンパスでの生態系ピラミッドにおける現在の立ち位置を喪失することは、多大な精神的苦痛を伴うわ
アカリ:よくわかんないけど、まあまあ! それより、今日もおひる一緒に食べよ!
ユナ:(泣きながら震える猫のスタンプ)
レイ:(数式が書かれた無機質な「了解」スタンプ)
アカリ:(全力でピースするうさぎのスタンプ)
***
春の陽気に包まれた、宮杜大学。
若葉山のふもとに位置する山外キャンパスの法学部大教室で、星名ユナは中列の端の席に陣取り、パーカーのフードを目深に被っていた。顔の半分を覆う黒縁眼鏡と不自然なまでの猫背で、周囲の風景に完全に擬態している。
「ねえ、昨日のツブヤイター見た? 定満寺通りのヤバい集団」
「見た見た! アイドルの衣装でガチのゴミ拾いしてるやつっしょ?」
「てかさ、あの黄色い子、絶対ユナぴだよね? イノスタ最近更新止まってると思ったら、地下アイドルやってたんだ」
「ユナぴ結構好きだったのに。てか、宮杜にいるなんて知らなかったよ! 実はすれ違ってたりして!」
「たしかに! それにしても、3人ともめっちゃ可愛かったなぁ」
「それな。今度調べてライブ行ってみよっかな」
斜め後ろの席に座る女子たちの会話が耳に届くたび、ユナの胃がキリキリと締め付けられる。
スマートフォンを握る指先は白く変色し、血の気が引いた唇をギュッと噛み締め、堪える。
ユナは承認欲求が人一倍強い。しかしそれは、ネットの中での話だ。SNSという分厚く、キラキラとした防壁で挟んだ向こう側からの声援が好きなのだ。
それは反対に、現実における直接的な注目にはひどく弱いということ。アイドルとして泥まみれの状態を見せることも、ユナにとっては死ぬほど頑張っている方だった。それでも、スマートフォンのレンズという「アイドルとしての壁」が観測者との間にあるから、ギリギリのところで自我を保てている。
要するに、ユナは生粋のネット弁慶である。同時に、加工も武装もしていない「本当の自分」を見られた時の、他者の落胆がこの上なく恐ろしいのだ。
「お、おなかいたい……」
気を紛らわせるために必死にペンを走らせる。教授の退屈な講義にのめり込み、外部からの音を一切絶つのは、ある種の逃避行動だった。
カリカリ、カリカリと一心不乱に思考を巡らせ、ノートに文字を刻みつける。ユナはただひたすらに、90分の講義の終わりを告げる鐘の音を祈るように待ち続けた。ユナにとってこの90分は地獄のように長く、それでいて、周囲の視線に怯えるだけであっという間に過ぎ去ってしまった。
しかし、まだ1日は始まったばかりである。ユナの地獄は終わらない。
***
同じ頃。同じ山外キャンパスの文学部棟にて。
「アカリおはよー! 昨日の動画見たよ! 定満寺通りでボランティアしてたんでしょ!」
「すっごい目立ってたね! 泥だらけで笑ったわー!」
教室の中心で、天道アカリは新学期早々、数人の友人たちに囲まれていた。
文学部棟は、良くも悪くもカオスだ。演劇サークルに所属する派手なグループから、純文学をこよなく愛する静かな学生まで、多種多様な人間が混在している。その中でアカリは、持ち前の明るさと裏表のない性格で、サークルやゼミの枠を超えて誰とでも広く浅く(本人は深く繋がっていると思っているが)付き合える、特異なポジションを確立していた。
「えへへ、おはよー! 目立ってたでしょ!」
アカリは隠すそぶりも一切なく、満面の笑みでピースサインを作った。
「てか、アカリってアイドルやってたんだね。知らなかったよー」
「そうそう! 今度の日曜日に駅前でライブやるから、みんな絶対来てね! チケットは私から買ってくれたら、特典で手書きのポエムつけるから!」
「ポエムはいらないけど、まあヒマなら行ってあげてもいいよ」
「えー、私も行こっかな。あのアニメ声でキレてた青い子、生で見てみたいし」
「レイちゃんのこと!? レイちゃんはすっごく真面目でいい子なんだよ!」
アカリのその突き抜けた陽のオーラと屈託のなさは、どんな奇抜な行動も「アカリらしい」と周囲に納得させてしまう、強烈な引力を持っていた。彼女にとって、昨日定満寺通りで泥だらけになった羞恥心など、すでに春の風と共にどこかへ消え去っているのだった。
***
同じ頃。山外から急勾配の坂を越えた先にある、山上の若葉山キャンパス、理学部棟にて。
どこか荘厳な静寂に包まれた理学部の実験棟の片隅にある大教室で、月白レイは授業の準備をしていた。前から3列目の中央。それが彼女の定位置だった。周囲とは半径2メートルほどの空白地帯を作り、まるで絶対零度の冷気を纏って人を寄せ付けないオーラがにじみ出ていた。
そして今日は、その防御壁が一段と強固だった。
「なあ、昨日Try-Angleっていうアイドルの動画が流れてきたんだけどさ……」
びくりと、レイの小さな肩が揺れる。教室の後方から、ひそひそとしたささやき声が背中を刺す。なにぶん人の少ない専門科目だ。無駄に耳の良いレイには、彼らの会話がクリアに聞こえてしまう。
「見た見た。あれってもしかして……」
レイは顔を下に向けているが、すでに涙目である。
「「月白さんだよな」」
「かわいかったな」
「顔真っ赤で怒ってたな。あの冷たい視線、たまんねえ……」
「レイ様すてき」
「私、踏まれたい」
レイはもとから、理学部の高嶺の花として君臨していた。男女問わず人気が高く、密かなファンクラブまで存在するほどだ。ただし、彼らの間には暗黙の了解が一つだけ存在する。
──『Yes! レイ様、Noタッチ』。
高次元の物理法則を解き明かす気高い姿を、遠くから眺めることのみが許される。それが理学部のオタクたちの総意だった。
「ひぐっ……」
レイは耳まで真っ赤にして、分厚い物理学の参考書をデスクの上に立てて壁を作り、その中にすっぽりと閉じこもった。その姿はさながら天岩戸のようで。
極度の羞恥心と被写体化の恐怖から逃れるため、レイは涙をこらえ、ただひたすらにノートにネイピア数の近似値を書き連ねる。自身の精神の平穏を保つため、彼女は今日も孤独な演算に没頭するのだった。
***
昼休み。
山外キャンパスと若葉山キャンパスを繋ぐ急勾配の途中にある、鬱蒼とした大学付属植物園の寂れたベンチ。ここが、キャンパスでの生態系が全く違う私たちが、人目を忍んで合流できる唯一のセーフゾーンだった。
「もう無理……アタシの大学生活終わった。生きた心地しなかった。おなか痛い。マジむり。うっ……」
ユナがベンチの背もたれにぐったりと突っ伏し、幽鬼のような声で呪詛を吐く。
「セシウム133原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間。これが1秒の定義。客観的かつ不変な時間の経過を反復することで、主観的な苦痛の体感時間を相対的に短縮する試みよ……」
隣に座るレイも、焦点の合わない目で虚空を見つめながら、現実逃避の呪文を高速で唱えていた。
「ま、まあまあ、2人とも! とりあえずご飯食べよ? ほらほら〜、今日は特別にアカリちゃん特製もやしと煮干しのナムル持ってきたよ! 我が家の最後の煮干しちゃん!! カルシウムとって元気だそ!」
私はタッパーを開け、魂が抜けかけている2人の口に、ナムルを割り箸で無理やり突っ込んだ。2人はウッと小さく呻いた後、おとなしくモソモソと咀嚼を始める。
「……アカリんのご飯は質素だし、もやしばっかりなのに、美味しい」
「私が同じ工程で作っても同じ味にならないのは本当に納得がいかないのだけど。なぜ目分量でこの味が出せるのかしら。熱力学的な再現性が低すぎるわ」
「2人ともたまには素直に褒めてよー!!」
「美味しいよ。悔しいけど」
「美味しいわ。業腹だけど」
「怒るよ!?」
まったく、可愛くないメンバーである。
私がタッパーを抱えて唇を尖らせていると、レイが傍らに置いていた3段重ねの小さな重箱を開いた。
「ほら、私もお弁当を作って来たわ。作りすぎたからこれは2人で食べなさい。どうせアカリはそれしかないのでしょう? ユナも、サラダチキンと野菜スティックだけではPFCバランスが悪いわ」
「えー! ほんと!? レイちゃんありがと!!」
「いや、アタシはこれで……──うまそ。いただきます」
ブロッコリーや鶏胸肉が完璧な配置で詰められたお弁当に、ユナもあっさりと陥落する。
私たちが並んでお弁当をつついていると、スマートフォンの画面が唐突に発光した。
『皆のものこんにちわ、である』
右耳のイヤホンから、いつもと違う奇妙な口調の電子音声が響く。
「ミヤ? どしたのそのしゃべり方」
「てか、今日は朝から静かだったじゃん。何してたの?」
『ふむ、大学というものは面白いのだな。ほくほく』
画面の中に現れたミヤは、普段の白い装甲服ではなく、奇抜な装いをしていた。
ショートパンツにオーバーサイズのパーカー、その上から白衣を羽織り、足元はなぜか便所サンダルのような奇抜な履物。頭には度のキツそうな丸眼鏡を装備し、手には大量のホログラムデータを抱え込んでいる。いかにも「深夜まで研究室に泊まり込んでいる理系学生」のステレオタイプだった。
「ちょっと待ちなさい。ミヤ、貴女まさか……!」
『ふ、ふふーん』
レイの鋭い視線に気づき、ミヤはしまったと言わんばかりにそっぽを向き、ヒュ〜と下手くそな電子音の口笛を吹いた。
「あんたどこでそんなの覚えてきたの……」
ユナが呆れたようにため息をつく。
「え、どしたの?」
私の疑問にレイが頭を押さえながら答える。
「多分このAIは、勝手に大学のサーバーに侵入して、公開されているシラバスから未公開の研究データまで、ありとあらゆる情報をエサにしたのよ」
『エサとは失礼。ぷんぷん。でも、情報がAIのごはん。間違ってない、かも?』
「ちょっと!!」
悪びれる様子のないミヤにレイが食って掛かるが、物理的な肉体を持たない相手にはまさに暖簾に腕押しだ。レイは一つ深くため息をつき、姿勢を正した。怒りをスッと収め、まるで分からず屋の子供を諭す母親のような、静かで理路整然とした声色に変わる。
「ミヤ。この世の中には『やっていいこと』と『やってはいけないこと』が存在するの。私たちはそのルールの中で生きていかなければならないわ」
レイは画面越しのミヤの目を真っ直ぐに見つめ、言葉を区切った。
「私は貴女が、未公開の情報をどこかにリークして悪用するような存在ではないと知っている。……ええ、信じているわ。それでもね」
レイは少しだけ眉尻を下げて、画面の向こうのAIに語りかける。
「知的好奇心を満たすためだけに他者の領域へ無断で踏み入ることは、この社会に存在する知的生命体として、絶対に守るべき一線を越えているのよ」
「そゆこと」
ユナがナムルを咀嚼しながら、レイの言葉に法学部らしく同調する。
「不正アクセス禁止法違反だよ。3年以下の懲役か100万円以下の罰金。AIが裁かれるかはわかんないけど、端末の管理者であるアタシたちが連帯責任を問われたら、一発で退学だからね!?」
『ごめん、なさい』
2人の正論による挟み撃ちに、ミヤは白衣の裾をギュッと握りしめ、素直に頭を下げた。
『それじゃあ、今日のミッション、ダメかも』
画面の中のミヤは、今にも泣き出しそうな声でうつむく。
「……はぁ。念のため聞いておくけれど。私たちに、一体何をさせるつもりだったのよ」
レイが呆れ半分、それでも物理学徒としての好奇心を隠しきれない様子で問う。
『若葉山キャンパスの最奥。次世代放射光施設、通称Nanoてらすに侵入』
「ダメに決まってるでしょうがーー!! 国家プロジェクトクラスの警備よ!?」
ナムルを喉に詰まらせかけたユナの怒号が、静かな春の植物園にこだまする。頭上の枝から、驚いた野鳥がバサバサと羽音を立てて飛び去っていった。
「それで? あの巨大なドーナツ型の加速器施設に侵入して、何をする気だったの」
レイはユナの絶叫を完全にスルーし、タブレットを抱え直して画面の中のミヤへと前のめりになる。その瞳の奥で、理系学生としての抑えきれない探求心が跳ねていた。
「ちょっと、レイちゃん!?」
「ルナちー!? なんで前のめりになってんの!?」
『13時から、ビームライン07で始まる実験。次世代エネルギー物質の測定シークエンス。そこで、軟X線を発生させるアンジュレータのK値と、試料への入射角パラメーターを「0.00012度」だけ変える。いじいじ』
ミヤが人差し指同士をツンツンと合わせながら、悪びれずに言う。
「だめだめ、解散解散! 犯罪者の片棒なんか担げないっての!」
ユナが両手で大きくバツ印を作る横で、レイはさらに身を乗り出した。
「……入射角を『0.00012度』。それを変えて、何が起こるというの?」
「ルナちーー!! だからなんで興味津々なのさ!!」
「い、いえ、これは個人的な知的好奇心とかではなくてよ。不審なハッキングの目的を特定するための、あくまで客観的な情報収集よ……」
レイが視線を泳がせながら、苦しい言い訳を口にした瞬間だった。
ピロン、と。
ミヤは無言のまま、レイのタブレットに一つの画像を送信した。
「こ、これは!」
液晶画面に映し出された幾何学的な模様を見た瞬間、レイの動きが彫像のようにピタリと停止する。
『これ、100年後の未来の常識。でも、発見はまだまだ。この実験、角度がほんの少しズレているせいでノイズしか出ない。今日で最後の実験。失敗ばっかりで、教授の心、ぽっきり』
同時に映し出されたのは、この研究チームの成果が芳しくないという現状を示す学内文献と、明日の会議で決定される「研究費の打ち切りによるプロジェクト凍結」の予定表だった。
タブレットの画面に浮かび上がっていたのは、複雑な数式と、軟X線によって弾き出された電子密度の立体マップだった。
それは、究極のエネルギー効率を誇る「室温超伝導物質」の相転移の瞬間を捉えた、奇跡のデータ。
「X線異常散乱の共鳴エッジが、完全に一致している……。熱揺らぎのノイズが完全に相殺されて……ウソでしょ? 電子軌道のハイブリダイゼーションが、こんなにも美しいフラクタル対称性を描いて収束するなんて……!!」
『きれい、でしょ?』
ミヤの甘い囁きに、レイは弾かれたように息を呑んだ。
タブレットを食い入るように見つめる彼女の瞳に、液晶の青白い光が反射してキラキラと輝いている。頬は微かに上気し、半開きの唇から漏れる吐息は、熱に浮かされたように震えていた。
それはまさに、手の届かない宇宙の真理に初めて触れてしまった、物理学徒の圧倒的な恍惚だった。
「くっ……! こんな、こんなにも美しい特異点が、観測の角度が『0.00012度』ズレていたというだけの理由で、今まさに闇に葬られようとしているなんて!!」
レイはタブレットを胸に強く抱きしめ、白衣を翻すミヤと同じように、熱狂を帯びた瞳で私たちを振り返った。
「そんなの、そんなの! 私の魂が許せないわ!! ユナ、アカリ、行くわよ!!」
「レイちゃん!?」
「ルナち!? やっていいことと、やってはいけないことがあるんじゃないの!? これはやってはいけないことなんじゃないの!?」
「いいえ、今この瞬間に人類の叡智が失われることこそ、やってはいけないことよ!!」
「レイちゃんがマッドサイエンティストになっちゃった!!」
完全に理性のタガが外れたレイを見て、私は思わずのけぞった。
「いや、いやいやいや! アタシは絶対、ぜーったい行かないからね!?」
「ではユナ、私たちを阻む法律はあるのかしら?」
レイが真顔でユナに詰め寄る。
「建造物侵入罪! 威力業務妨害! あと普通に器物損壊とか! めっちゃあるっていってんでしょうがーっ!!」
「いいえ、科学の進化の前に阻むものなどなにもないのよ!!」
「まず人の道を逸れてんのよッ!!」
ユナは血走った目で立ち上がり、タブレットを抱きしめて恍惚とするレイの肩をガクガクと揺さぶった。
「だいたい、あの巨大施設はセキュリティーの塊だよ!? 警備員に見つかったら退学! アタシたちのキャンパスライフが終わるんだよ!?」
パニックに陥るユナの言葉を聞いて、私はポンと手を叩いた。名案だ。
「大丈夫! 私がNanoてらすのど真ん中でライブすればいいんだよ! そしたらみんなの気を引けちゃうもんね!」
「秒で逮捕されるわ!! 国家権力なめんな!!」
ユナが涙目で私の肩をバシバシと叩く。
『提案。アカは外の丘でお留守番。私が施設の全館スピーカーをジャックして、アカの歌声を内部に爆音デリバリーする』
スマートフォンの画面の中で、ミヤが白衣のポケットに手を突っ込みながら悪びれずに言った。
『謎のゲリラライブ放送で、施設内の研究者、全員ぱにぱにぱにっく。警備の目もそっちに向く。その隙に、アオとキイロが搬入口から侵入。これならアカは捕まらない』
「なるほど、物理的な侵入リスクを分散しつつ、陽動効果を最大化するのね。悪くないわ」
レイが腕を組んで深く頷く。
「いやいやいや! 潜入組の負担デカすぎない!? っていうか、なんでアタシも行く前提になってんの!? ……アタシたちって、なんだっけ?」
「そんなの、アイドルに決まってるじゃん!」
「絶対違う!!」
ユナの悲痛なツッコミが、春の空に虚しく響く。
数秒の葛藤の末、ユナは大きく肩を落とし、地獄へ向かうような顔で立ち上がった。
「……わかった、行く。行くよ! アカリんが暴走しないように、そしてルナちが変な証拠を残さないように!! アタシが! この! 完璧なステルスで!! サポートするっての!!! あーもう、アタシの平穏なキャンパスライフ返してーっ!!」
時刻は12時45分。
私たちは空になったお弁当箱を大急ぎで片付け、決戦の地である、巨大なドーナツ型施設『Nanoてらす』へと走り出した。
***
巨大なドーナツ型施設『Nanoてらす』から数百メートル離れた、小高い丘の上。
私は春の草むらにしゃがみ込み、イヤホンマイクを押さえながら眼下の要塞を見下ろしていた。
「で、私はここで歌えばいいのね!」
『肯定、そゆこと。ミッション開始まであと1分。じゅんびはおーけー?』
「もっちろん!」
私は大きく息を吸い込み、軽く発声練習をする。
『くれぐれも、貴女だと分かるような歌はやめなさいよ? 身バレを防ぐための遠隔ライブなのだから』
レイの冷静な念押しがイヤホンから響く。
「……」
『アカリん、今、持ち歌歌おうとしたでしょ。バカじゃないの!? あほじゃないの!? ばっかじゃないの!?』
「ひぃーん、そんなにいわないでよぉー!!」
『本当に良かったわ、釘を刺しておいて』
『アカ……』
「ミヤは逆に何か言ってよ!!」
潜入組の2人とAIから、スピーカー越しに浴びせられる容赦ない罵倒の声。世界を救うための大舞台なのに、歌う前から泣きそうだ。
『気を取り直して、じゅんびはいいか?3秒前、2、1……ショータイム、だ』
ミヤのカウントダウンがゼロを告げる。
私は頭の中からTry-Angleのオリジナル曲を追い出し、誰もが知っているありきたりな流行りの春の歌を選んだ。
「~~~~~~~っ!!」
桁違いの倍音を載せ、私の声が春の空へと放たれる。
どこかいつもとは違うヒリつくような緊張感を感じながら、それでも私の歌声は春の風に乗り、真っ直ぐに青空へと溶けていった。
***
「な、なんだこの音!?」
「歌なの!? すごい音圧よ!!」
Nanoてらすの内部。巨大な吹き抜けのアトリウムと円周状の実験ブースに、全館スピーカーから爆音の歌声が鳴り響いた。
無機質な窓ガラスがビリビリと震え、精密機器の並ぶ実験室に、脳の髄を直接揺らすような怪音波が反響する。
「まだ実験を始めるな!! この怪音波を止めるのが先だ! 警備員、放送室へ急げ!!」
白衣を着た研究者たちが顔面蒼白になり、パニック状態で次々と廊下へ飛び出していく。
その阿鼻叫喚の地獄絵図を、ドーナツ型施設の外周廊下の物陰から、ユナとレイが息を潜めて見つめていた。
「……ギリギリ間に合ったみたいね」
「それにしても、ひどい言われ様だなぁ、ウチのリーダー。ただの怪音波扱いじゃん」
壁と同化するようにフードを深く被ったユナが、引き攣った笑いを浮かべて呟く。
『警備員、職員、オールクリア。しゅっぱつしんこー』
ミヤの気の抜けた合図とともに、ユナはレイの腕を強く引き、手薄になった関係者用搬入口から、果てしなく続くドーナツ型の外周廊下へと足を踏み入れた。
無機質でどこまでも続く白い壁と、磨き上げられたリノリウムの床。ユナの心臓が、警報機のように肋骨の内側でガンガンと早鐘を打つ。見つかれば一発で死《退学》というハードコアモードだ。
「ルナち、足音! つま先から着地して!」
「無理を言わないで。私の運動神経とこの硬い靴底では、歩行時の摩擦係数のコントロールに限界が……」
「いいから! アタシの歩幅に合わせて! 息も止めて!」
ユナは顔の半分を覆う黒縁眼鏡の奥で周囲を鋭く見渡し、極限まで身を屈めながら進む。外から響くアカリの怪音波が、幸いにも2人の不器用な足音をかき消してくれていた。
しかし、ビームラインが並ぶ区画の角を曲がろうとした、その時だった。
「ひっ、人が来た! 壁際、ストップ!」
ユナがレイの肩を乱暴に押し込み、廊下に置かれていた巨大な液体窒素タンクの陰へと滑り込む。レイの口を両手で塞ぎ、自分も息を殺す。
直後、角の向こうから白衣を着た若い研究員が、タブレットを片手に血相を変えて走ってきた。
「クソッ、何なんだあの音波は! 電子銃の冷却パラメーターが異常値だぞ!」
バタバタという足音が近づき──そして、タンクのすぐ横を駆け抜け、アトリウムの方へと遠ざかっていく。
タンクの冷たい金属面に背中を押し付けていたユナは、息を止めすぎて酸欠になりかけていた。
「……っ、ぷはぁっ……はぁ、はぁ……死ぬかと思った……」
「ユナ、心拍数が異常よ。交感神経が過剰に……」
「誰のせいだと思ってんの! ほら、急ぐよ!」
震える膝に無理やり気合を入れ直し、ユナは再びステルス行動を再開する。
極限状態の恐怖の中で、彼女の「超陰キャ」としての生存本能が完全に研ぎ澄まされていく。足音を周囲のパニックのノイズに同調させ、人間が急いでいる時に見落としがちな視線の死角を縫うように進む。
そうして息を潜めること数分。あっという間に、2人は目的の『ビームライン07・制御室』の前に到達した。
「ここね。でも電子ロックよ?」
『ふふん、こんなの朝飯前。ぺろり』
ミヤの電子音声と共に、赤いランプが緑色に変わり、分厚い防音扉がプシュッと音を立てて開く。
「あんたは今日、大学のサーバーでたらふく食ったんでしょうが」
ユナの的確なツッコミを背に受けながら、レイは薄暗い制御室のメインターミナルへと滑り込んだ。
「ルナち! 早く!! 教授たちが戻ってくる!!」
『はりーあっぷアオ。入射角のパラメーター、0.00012度補正』
「……ええ、分かっているわ」
レイの細い指先が、キーボードの上で迷いなく踊る。画面上の数値が消去され、新たな運命の数字が打ち込まれた。
カァン、と。レイがエンターキーを強く叩き込んだ音が、無人の制御室に響き渡る。
『ミッションコンプリート。ビームラインシャッター、開。測定シークエンス、強制スタート』
「一度動いてしまえば、止まらないわね」
ガラスの向こうの実験ハッチ内で警告ランプが点滅し、目に見えない強烈な軟X線がサンプルへと照射される。
直後、制御室のメインモニター上に、未だかつて誰も見たことのない、完璧に整った幾何学的な原子配列と電子密度のマップが次々と出力され始めた。
「すごいわ……本当に、位相のズレが完全に相殺されて、未知の相転移の瞬間が原子レベルで……!」
レイがモニター上の奇跡の波形に恍惚としている背後で、バンッ! と乱暴に制御室の扉が開いた。
「おい、どういうことだ!? 実験はまだ始めてないはずじゃないのか!?」
血相を変えた初老の教授と院生たちが、部屋になだれ込んでくる。
「は、はい! そのはずなのですが、システムが勝手に……」
「くそっ! これが予算前の最後の実験だってのに……!!」
入り口付近で騒ぐ彼らは、モニターの前に張り付いているレイの存在に、パニックのせいでまだ気づいていない。猶予はあと数秒。
「やば! 帰ってきた!! ルナち逃げるよ!!」
『帰還ルートは算出済み。さすがでしょ』
「えっ、ちょ、待っ……まだ電子軌道のハイブリダイゼーションが……!!」
ユナは、奇跡の波形から目を離そうとしないレイの後ろ襟をひっつかみ、猛烈なダッシュで制御室の裏口ドアへと飛び込んだ。
***
「はぁっ……はぁっ……死ぬ……アタシ、寿命の先借りしすぎ……」
「私の、私のフラクタル対称性が……っ!」
春の陽気に包まれた小高い丘の上に、息も絶え絶えのユナと、無念そうに虚空へ手を伸ばすレイが倒れ込んでいる。
「2人ともおかえりー! 大丈夫だった!?」
「ぜんっぜん、大丈夫じゃない……!! 心臓口から出るかと思った。てか、もう出た気がする」
「ああ、もうちょっと、もうちょっとだけ……」
「ルナちはいつまで引きずってるの!!」
私は持参した水筒を差し出しながら、無事に生還した2人を労った。傍らに置かれたタブレットの画面の中では、ミヤが無数のコードを滝のように流し続けている。
「ミヤ、どうしたの?」
『……Nanoてらす内部のシステムログを確認中。監視カメラの映像はリアルタイムで加工済み。だけど一応チェック。あと、機械のアフターケア』
「なんで?」
私の間の抜けた問いに、ユナが呆れ果てたようなジト目を向けてくる。
「アカリんの歌で、機械の計器がー!! とか、異常な振れ幅でー!! とか言ってたからじゃない?」
「なにそれ!?」
私は心外だとばかりに声を上げたが、レイはひどく深刻そうな顔でタブレットの画面を覗き込んでいた。
「……ミヤ、アカリの怪お……歌声のせいで精密機器が壊れたりしていないかしら」
「かいお……? え、レイちゃん今なんて言おうとしたの!? 私の歌声良くなったよね!?」
詰め寄る私からスッと目を逸らし、レイは残酷な沈黙をもって肯定した。それに追撃をかけるように、ユナが震える声で事実を口にする。
「いやいやまさかまさか、壊れたりしたら……え、あそこの機械桁違いの値段って聞いたことあるけど!?」
「ひぃ!!」
怪音波という不名誉な評価への抗議は、国家プロジェクト規模の損害賠償という現実的な恐怖の前にあっさりと霧散した。私は血の気を引かせ、両手で口を塞ぐ。
『それを確認中。施設に致命的なエラーがないか、最終チェック』
画面上のプログレスバーがじりじりと進む。何億円、あるいは何十億円という途方もない数字が脳裏をよぎり、私とユナは祈るように手を組んで息を殺した。
『でも』
ミヤの電子音声が、不自然な間を置いてピタリと止まる。
「でも!?」
降って沸いた天文学的な借金という最悪の事態を覚悟して私が身構えると、ホログラムで浮かび上がったミヤは小首を傾げ、心底不思議そうな顔でディスプレイを見つめ返した。
『問題はない。むしろ、完璧。なんで?』
「よかったー!!」
全身の力が抜け、私はその場にへなへなと座り込んだ。隣でユナも「助かったぁ……」と深く息を吐き出して芝生に突っ伏す。
しかし、安堵してへたり込む私たちの横で、レイだけは理学部の学生らしい鋭い視線をタブレットに向けた。
「ええ。でも、それより『完璧』なことに疑問? あそこの機械が完璧じゃないことなんてあるのかしら?」
『肯定。僅かな誤差、ズレ、ブレ、揺れ、どうしても修正しきれない歪みは必ずある。絶対。私が今朝覗いた時もズレてた。ぶんぶん。なのに、今は完璧。』
「これまではスピーカーを壊すだけだったアカリの歌声が、機械の調節……調律したってこと!? そんなバカな。いくら倍音が豊かだからといって、人間の声帯で生み出せるエネルギー密度じゃないわ」
レイの端正な顔立ちが驚愕に歪む。
私の歌声が、機械の不調を直した。これまでライブハウスの機材を破壊し続けてきた暴力的な不協和音が、空間のノイズを打ち消す「調律」の力へと変貌を遂げたというのだ。あまりにも非科学的な事象に、私たちはただ黙り込むしかなかった。
『それはともかく。ミッション大成功。やったなおまえら』
「それはそれとして、気付いてくれるかな?」
「んー、どうだろ? 誤作動みたいなものだし結果を見ずに処理されたりしない?」
ユナがもっともな疑問を口にする。素人が弄った異常値など、エラーとして弾かれるのがオチではないか。しかし、レイは小さく首を横に振った。
「大丈夫よ。彼らは研究者だもの。あとは彼らの仕事。でももう一度見たいのは確かね」
『それならまかせろ。ご褒美あげる』
『教授! これ……入射角が0.00012度補正されています!
このデータ、完全に室温超伝導の相転移を捉えてます!!』
『バカな……いや、間違いない。ノイズだと思っていたものは、角度がほんの少しズレていただけだったのか……! 我々は、とんでもないものを見逃していたのだな……!』
切り替わった画面の向こう側では、初老の教授と院生たちが、レイの残した波形データを囲んで歓喜の声を上げていた。
明日にはプロジェクトが凍結されるはずだった彼らの絶望は、私たちが駆け抜けたわずかな時間で、歴史的な大発見へと塗り替えられたのだ。
「いや、これ見せられて喜ぶのルナちだけだって」
画面に映る複雑怪奇な波形データの羅列に、ユナはげっそりとした顔でツッコミを入れる。しかし、その奥で泣き笑いしている研究者たちの姿を見て、彼女は小さく息を吐き出した。
「……ま、結果的に世界を救ったってことなら、いっか」
「ええ。あの美しい真理が日の目を見るのなら、私の寿命が少し縮んだことなど些末な問題よ」
「よーし! それじゃあ、そろそろ午後の講義に戻ろっか!」
「アカリんはホントにタフだね……でもま、この大冒険に比べれば午後の授業なんてちょろいっしょ!」
「私はそれよりも周りからの視線が……」
「あ……」
レイの顔から再び血の気が引き、ユナの表情が絶望に染まる。
春の生ぬるい風が、丘の上の草木を揺らした。世界を救うという非現実的な大冒険を終えた私たちを待っていたのは、動画のバズりによる「キャンパス内での身バレの恐怖」という、どこまでも等身大で残酷な現実だった。




