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第3話:ネイピア数と、泥まみれの蒲公英


『──ピピピピピッ、エラー。ちゃうちゃう。天道アカリ、声帯の振動周波数がターゲットピッチより12Hz下回っている。輪状甲状筋の収縮をあと2ミリ強めるの。腹横筋の圧力低下も検知、だーめ』


 どこか気の抜けた、それでいて無慈悲な無機質の電子音声によって、私の歌のすべてを否定される。春休みとはいえ、まだ太陽が昇りきっていない朝の6時からカビ臭い地下スタジオに籠もり、ずっとこの調子だ。

 それでも、開始から1時間。私の声は明らかに変化していた。

 これまでは、どれだけ腹から声を出してもスピーカーを破壊するような暴力的な不協和音を奏でていた。しかし今、私の喉から発せられる音は、「下手すぎて聴くに堪えない」から「うわ、下手くそ」くらいには進化していたのだ。


『前提。アカは歌下手違う。声強すぎ。つよつよ〜。でも声の出し方知らない。無知。愚か。だから、変な歌い方癖付いた……訂正、やっぱり歌下手。音程取れてないのは確か。でも、そんなにひどいわけじゃない。まずは声の出し方徹底、ね?』


 というのが、ミヤからの評価だった。どうやら私が歌うとライブハウスの機材が壊れていたのは、ただ声が大きいからではないらしい。


「私、声の出し方、間違ってたんだ……」

『肯定。アカの声、異常なほど倍音いっぱい。ほわほわ。1個の音でいっぱい鳴りすぎ、桁違い。だから音が響きすぎ。主音ピッチより倍音の方がデカデカ。マイクの許容帯域をどっかーん。ハウリングが起きる。人間の耳には、雑音』

「ばいおん……?」

『原石、ってこと。主音のコントロール必須。でも、マイクなしでも1万人に届く最強の歌声になるかも。そのための最適化。骨盤に手を当てて胸張る。ぱんぱん。次に15度体を前に倒して。完璧。横隔膜が拡張されたよ? ほら、声。出して出して』


「~~~っ!」


 言われた通りに姿勢を歪め、ひりつく喉の奥から息を絞り出す。


「うそ、アカリんの音が、合ってる!」


 フロアの隅でタオルを被っていたユナが、信じられないものを見るように目を丸くしている。


『当然。私の計算は完璧。えっへん』


 画面の中でふんぞり返るミヤの声と同時に、スタジオの反対側に置かれたレイのタブレットからも、別のミヤの音声が響き渡った。


『──ピピピピピッ、エラー。ちゃうちゃう。月白レイ、ターンくるくる、遠心力に負けてる。0.4秒は早く準備、これ絶対。嵩増しブーツ悪影響。脱ぎたくないなら右膝つかって』

「な、なんでブーツのことを!?」

『見ればわかる。アオはもりもり。身長もりもり、スリーサイズも、もりもり。アイドル大変。ミヤビックリ』

「あなた、あとで、覚えときなさいよ……ッ! 要らない情報はすべてデリートしてやるわ!!」


 息も絶え絶えになりながら言い争いをしているレイとミヤ。しかし、つねに最適な動きのために指示が繰り出され続けている。


『──ピピピピピッ、エラー……じゃないけど。星名ユナ、体力なさすぎ。へっぽこ。肺活量平均以下。ざこざこ? とりあえずうさぎ跳び。ぴょんぴょん』

「なんでアタシだけ昭和のスポ根なのよーっ!!」


黄色いジャージ姿のユナが、半泣きになりながらスタジオの端から端まで跳ねていく。


 そこからは、まさに地獄のような時間だった。

 ミヤの容赦ない「ピピピッ」という電子音とともに、私の喉元に何度もレーザーが当てられ、レイは延々とターンを繰り返させられ、ユナはうさぎ跳びでフロアを何往復もさせられる。

 カビ臭い地下スタジオの空気が、私たちの熱気と荒い呼吸で徐々に白く濁っていった。


   ***


『今日の朝練終了。おつかれさま』


 時刻が朝の8時を回った頃。

 ミヤの終了の号令とともに、私たち3人はフローリングの床に崩れ落ちた。


「も、もう、一歩も動けん……」

「シナプスが……焼き切れる……」

「お腹空いたぁ……」


『朝ご飯、エネルギーチャージ。ゆっくりでいいよ? でも迅速に』


「やったー! ごはんだ!!」


 私は跳ね起き、リュックサックから持参したタッパーを取り出した。

 中に入っているのは、白米の上に、この前若葉山(わかばやま)でのミッションのついでに採ってきた野生の(セリ)土筆(ツクシ)を醤油で炒めたものを乗せた、特製の野草弁当だ。春の生命力が詰まったほろ苦い香りが、空腹の胃袋を強烈に刺激する。


「アカリん……それ、その辺の草でしょ……。相変わらずワイルドだね」


 ユナはコンビニの袋から、味気ないプロテインバーとサラダチキンを取り出しながら、引き攣った笑いを浮かべた。

 一方のレイは、3段重ねの小さな重箱を開いていた。ブロッコリー、鶏胸肉、ゆで卵、そして玄米。タンパク質とビタミン、糖質のPFCバランスが完全に計算し尽くされた、いかにも理系女子らしい彩りのない弁当だ。


「摂取カロリーに対する栄養素の最適化よ。アカリのそれも、ビタミンと食物繊維の観点から見れば悪くないけれど……寄生虫のリスク管理は徹底しているのかしら?」

「大丈夫大丈夫! しっかり火を通したから!」


 私たちは円になって座り込み、30分ほどの短い休息を満喫した。

 冷たい床に座りながら食べるご飯は、疲労困憊の体に染み渡る。今日1日はアルバイトも入っていない、Try-Angleの活動だけに使える貴重な春休みだ。お腹が満たされるにつれて、少しずつ体力が回復していくのを感じた。


『チャージ完了? よろしい。それじゃあ、次のプロデュース』


 時刻は8時30分。

 食べ終えたタッパーを片付けていると、ミヤが画面越しに私たちの背後にあるロッカーを指差した。


『今すぐ、着替える。そのロッカーの中にある【ステージ衣装】に』

「え? 今日はライブなんて入ってないよ?」

『ライブちがう。目的地は宮杜市の一等地、定満寺(じょうまんじ)通り。完全武装のアイドル衣装で、れっつごー』


 スマートフォンの画面が切り替わり、定満寺通りの並木道を示す3Dマップが表示される。その中の一本の木の下に、赤いピンが点滅していた。


 定満寺通り。

 今の時刻は、ちょうど朝の通勤ラッシュと、春のうららかな陽気に誘われた新入生たちが溢れかえる、市内で最も人が行き交うメインストリートだ。


『マップの木の下、くりーんあっぷ。未来を狂わす【ボタン電池】の回収。──もちろん、最高の笑顔で、ね』


   ***


 定満寺(じょうまんじ)通り。

 宮杜(みやもり)駅前を東西に貫くその大通りは、芽吹き始めたばかりの(ケヤキ)並木が朝の光を乱反射させ、眩しいほどの春に満ちていた。


 すれ違うのは、折り目のついた真新しいネイビースーツに身を包む新社会人たちや、まだ生地の硬い制服を着崩すことなく歩く学生たちの群れ。規則正しい革靴とローファーの音がアスファルトを叩き、誰もが「今日」という確かなレールの上を前を向いて歩いている。


 その巨大な秩序の濁流の真ん中を、私たちは逆行するように歩いていた。


 赤、青、黄。安っぽいスパンコールが縫い付けられた、原色のフリルスカート。

 地下の薄暗いライブハウスの照明をごまかすための派手なメイクと衣装は、春の強烈な太陽光の下では、あまりにも残酷に輪郭を浮き彫りにされる。白日の下に晒された私たちの姿は、整然とした社会のパレットに誤って落とされた、ひどく痛々しい絵の具の染みだった。


「……ッ」


 私の隣を歩くユナは、黄色のスカートの裾を両手で強く握りしめ、顔の半分を覆う巨大な黒縁のサングラスと、顎まであるプリーツマスクで完全に武装していた。

 一方のレイは、150センチに満たない小さな体をさらに縮こまらせ、胸元に抱えたタブレット端末の背面の陰にすっぽりと身を隠している。口の中ではブツブツと、謎の数字の羅列が高速で唱えられていた。


「2.71828182845904523536028747135266249……」

「こわっ! レイちゃん、何の呪い!?」

「自然対数の底、ネイピア数に決まってるでしょ。何度微分しても自分自身のままであり続けるこの最も美しく不変な定数を暗唱することで、外界からの視線による自己の揺らぎを抑制し、血中コルチゾール濃度を下げる試みよ。いいから私に話しかけないで……ッ!!」


 レイの端末を握る指先は微かに震え、タブレットの陰から覗く耳の裏側までが火傷したように真っ赤に染まっている。


「あっ、カメラ」


 私が前方を指差すと、すれ違った高校生がスマートフォンをこちらに向けていた。


「ぴっ」


 その瞬間、顔を隠していたレイの右手が痙攣したように跳ね上がり、顔の横で硬直したピースサインを作った。

 そしてそのまま、瞬き一つせず完全に動作を停止した。極度の羞恥心と想定外の被写体化によって、彼女の脳内CPUが処理能力の限界を超え、強制終了(オーバーフロー)を起こしたのだ。


「れ、レイちゃんがフリーズしたー!!」

「やばいやばい、こんなの確定で死じゃん!! デジタルタトゥーだよ!! いやだー! 社会的に死ぬー!」


 ユナが両手で頭を抱え、アスファルトの上でのたうち回りそうになった、その時だった。


「あっ、あっちもカメラ」


 今度は反対側から歩いてきた集団が、面白半分にレンズを向けてくる。


「いぇーい!」


 パシャリ、と。乾いたシャッター音が響く。

 カメラを向けられた瞬間、頭を抱えていたはずのユナが弾かれたように背筋を伸ばし、完璧な角度で腰に手を当ててポーズを決めていた。

 一拍置いて、ユナは自分の取った行動に気づき、ワナワナと両手を震わせた。


「はっ!! しまった。条件反射で反応してしまった。あーもう、アタシのばかー!!」

『たくさんの人見てる。もしかしてウハウハ?』


 右耳のイヤホンから響くミヤの煽りに、ユナは涙目で空を仰いだ。


「アタシが求めてるのはこういうのじゃないんだって!!!」


 私は、石のように固まったままピースサインを掲げるレイの脇に腕を差し込み、半ば引きずるようにして目的の場所へと歩を進める。


『それより、見て見て。超大人気。私のおかげ。感謝しろ』


 ミヤが自慢げに私のスマートフォンの画面に表示させたのは、ツブヤイターのタイムラインだった。


「定満寺通りに謎のコスプレ集団出現……? 私たちのこと!?」

「それ以外ありえないでしょ!! いやむしろ他に居てくれた方が良いのか!?」

「人気者じゃーん!!」

「ちゃうねんアカリん。これは笑いものや。あー、オワターーーッ!!」


 完全にエセ関西弁になったユナが嘆いていると、正面から歩いてきた黄色い帽子の小学生たちが、私たちを見上げて目を輝かせた。


「わあ、おねえちゃんたち、テレビの人!?」

「きらきらしてるー!!」


 真っ直ぐな瞳の奥に、痛々しい異物に対する嘲笑はない。

 私は赤く染まった頬をごまかすように、限界まで口角を吊り上げ、子供たちに向かって大きく手を振った。


「ほんとー!? ありがとー!! みんなも気を付けて学校に行くんだよ! 頑張ってねー!」

「わーい!!」


 小学生たちが無邪気に手を振り返し、通り過ぎようとした時。

 列の最後尾にいた男の子が、私に引きずられているレイを不思議そうに見つめた。


「でも、その青い子は学校行かなくていいの?」


 ピクッ、と。

 フリーズしていたレイの眉間が、かすかに動いた。


「誰がチビですか!!!! 私は! これでも! 大学生よ!!」


 レイは私の腕から勢いよく抜け出し、顔を真っ赤にして小学生の背中に向かって吠えた。


「あ、再起動した」

「わはは〜!」


 子供たちは楽しそうに笑いながら、春の並木道を駆けていく。

 レイは乱れた青いフリルスカートの裾をパンパンと払い、一つ大きなため息をついた。


「まったく。でも、そうね。ここまで来たら、やるしかないのかしらね」

「うへ〜ルナち肝座りすぎじゃない?」

「ほら、貴女もいい加減そのマスクとサングラスを、とりな、さいっ!」

「あー!! アタシの最後の砦がー!!」


 レイが背伸びをしてユナの顔から強引に武装を引っぺがす。

 隠されていたユナの素顔は、完璧にメイクが施されていながらも、羞恥で耳の先まで真っ赤に染まっていた。


『そうそう、ちんたら歩かない。しゃきっとするの。胸張って、あご引いて。るっくあっとみー、の精神』


 ミヤの呑気な声に、レイがタブレットを握り直して睨みつける。


「くっ、ミヤには……物理的な肉体を持たない貴女に言われるのは癪だわ! 社会集団における同調圧力と、そこから逸脱した個体に向けられる視線の暴力を数値化することはできないのよ……ッ!」

『なにそれ、おいしい? それより、とーちゃく。ここが運命の分岐点』


 ミヤの言葉と同時に、私のスマートフォンのマップ上で点滅していた赤いピンが重なった。

 定満寺通りの交差点から数えて、3本目の欅の木。

 それは、一番人通りの多い巨大な交差点のすぐそばにある植え込みだった。横断歩道の信号を待つ何十人ものスーツ姿の大人たちが、一斉に私たちの方へ視線を向ける。


『座標、どんぴしゃ。さあ、宝探しのはじまり。土をほじほじして、世界を救うのだ』

「ここで……? この格好で……?」


 ユナの喉から、空気が漏れる音がした。


「何あの格好?」

「うわー……」

「ニヤチューバー?」


 冷ややかな声が、春の風に乗って直接耳に突き刺さる。しかし、交差する無数の視線の中には、残酷な言葉ばかりではないさざ波も混じっていた。


「でも、結構かわいくね? あの黄色い子、さっきカメラ向けると絶対に決めポーズしてくれたし」

「あの青い子は顔真っ赤じゃん。めっちゃ怒ってたけど」

「赤い子は挨拶返してくれるよ!」


 ひそひそとした声の波状攻撃に、ユナとレイの足がすくむ。


「やるしかないよ、ユナちゃん、レイちゃん!」


 私は大きく息を吸い込み、春の冷たい空気を肺の奥まで送り込んだ。

 恥ずかしい。惨めだ。自分たちが何者でもない底辺なのだと、世界中から指を差されている気がする。

 それでも、私たちは終わらないためにここにいるのだ。


 私はアスファルトの上に膝をつき、原色のフリルスカートを無防備に広げた。

 そして、両手を植え込みの土の中へと真っ直ぐに突き入れた。


   ***


 春の乾いた風が、定満寺通りの並木を揺らす。

 私たちは、アイドル衣装の上に薄手のゴム手袋をはめ、右手に銀色のトング、左手に市の指定ゴミ袋という完全な清掃業者スタイルで、四角い植え込みの土を漁っていた。


「……あーもうっ! なんでこんなにゴミが落ちてるのよ!! だれよ! こんなところで煙草を吸ったバカは!!」

「まったくよ!! 何十メートルか歩けば灰皿はあるというのに、位置エネルギーの保存すらできないのかしら!!」


 ユナが顔の半分を覆うサングラスの奥で悪態をつき、レイも青いスカートの裾を気にしながらトングをカチャカチャと鳴らしている。

 数十人の大人たちが行き交う交差点のど真ん中。

 足早に通り過ぎていく革靴やパンプスと同じ目の高さで、私たちは泥まみれになって土を掘り返す。痛いほどの視線が頭上から降り注いでいたが、怒りでアドレナリンが出ているおかげで、その冷たさを少しだけ忘れられた。


「みてみてー! なんか変な人形見つけたー!」


 私がトングで挟んで持ち上げたのは、土に半分埋まっていた、五寸釘の刺さった手のひらサイズの藁人形だった。


「「……」」

「2人とも?」

「それはそっとしておこ? ね?」

「私は何も見てない。私は何も見てない」


 ユナはひきつった笑顔で一歩後ずさり、レイは白目を剥きながら呪文のようにブツブツと現実逃避を始めた。


「それにしても、ミヤの言う通りボタン電池1つで本当に未来は変わるの?」


『うむ。そのボタン電池は数年後、中身が出てくる。液漏れ、ドロドロ。周囲の土壌が強アルカリ性に汚染、水酸化カリウムと重金属が蓄積。問題その次。毒を中和しようと土壌細菌が異常進化、スーパー耐性菌が爆誕する』

「すーぱーたいせいきん?」

『肯定。その菌が付着した草を、通りすがりの野ネズミがぱくり。ネズミ、腹を下して隣の山でフンをする。排出されたスーパー耐性菌、山の外来種の根っこに感染。最悪の共生ネットワークが構築。オワタ』

「……ネズミのフン……うぇっ」

『結果、外来種の異常肥大化。土の栄養を無限に搾取し、他の植物を絶対殺す猛毒をばら撒き始める。数十年の連鎖で在来種は全滅。毒に耐性を持つ単一のバケモノ植物だけが大陸を覆い尽くし、大気組成が崩壊。……結論、未来の生態系は完全にバグる』


 ミヤが息もつかせぬ速度で最悪の未来予想図を一気に捲し立てた。


「ネズミなどの生物ベクターを介した、突然変異と外来種による最悪のシナジー効果……。生物学的にも統計学的にも、ありえないことではないわね」

「いやいや、ルナち納得してる場合じゃないから! つまりアタシたちは、ネズミの腹痛を防ぐためにこんな格好で土掘ってるってこと!?」


「ふーん、それってボタン電池だけなの? 例えばこのハンバーガーの包み紙とかは影響ない感じ?」


 私がゴミ袋に丸めた紙屑を放り込みながら尋ねると、ミヤより先にレイが答えた。


「いいえ、おそらく何かしらに影響を及ぼしている筈よ。ただ、要因が複数過ぎて、ミヤのプロセッサでも計算が追い付かないのではないかしら」

『肯定。原因は1個じゃない。たくさん。ボタン電池は大きな理由。でも、他は計算できない。あふれちゃう』

「みてみてー! また変なもの見つけたー!」


 私はさらに土の奥深くに埋まっていたものを、よいしょ、と引っ張り出した。

 今にもケタケタと笑いだしそうな、髪の長い不気味な日本人形だった。


「今度は何を……って、ひぃっ!!」

「めちゃめちゃかわいいよね〜」

「アカリん、それは、ちゃんと供養してあげよう。それから、お祓いにいこう」

「私は何も見てない。私は何も見てない」


 涙目のユナに諭され、私は不気味な人形をそっとゴミ袋の底に沈めた。


 そこからも、宝探しという名の苦行は続いた。カチカチに固まった土はトングだけではどうにもならず、結局私たちはゴム手袋越しの指先で直接土を掘り返す羽目になった。

 爪の間に泥が入り込み、通行人の遠慮のない視線がチクチクと背中を刺す。気が遠くなりそうな作業を無心で続けること、さらに数分。


「あっ、あった!!」


 私の指先が、ついに硬い金属の感触を捉えた。

 土の中から引きずり出したのは、泥にまみれ、表面が白く腐食し始めた小さな銀色の円盤。何の変哲もない、ボタン電池だった。


『ターゲット確認。それをきちんと処理する。いいか? 絶対だぞ』


 スマートフォンの画面の中で、ミヤがパチパチと機械的な拍手をしている。

 その無機質な労いの言葉を聞いた瞬間、私たちの体から張り詰めていた糸がプツンと切れた。


「やったー! 終わったー!! 意外と大変だった……帰る! アタシもう限界、一刻も早くお風呂に入って身を清めたい!!」


 ユナが持っていたトングを放り出し、アスファルトの上にペタンと座り込んで大きく天を仰いだ。


「同感ね。今は一刻も早くこの非合理的な恥辱空間から離脱したいわ。精神的にも肉体的にも、限界値をとっくに超えているもの」


 レイも本当に深いため息を吐き出し、乱れた息を整えながら立ち上がった。まるで長時間の拷問からようやく解放された囚人のような顔をしている。


「さ、アカリんも帰ろ?」


 激闘を終え、一気に帰り支度を始める2人。

 しかし、私はトングを持ったまま、定満寺通りの奥へと続く欅並木に視線を向けていた。すぐ隣の4本目の木の下には空き缶が転がり、5本目の木の下には吸い殻が雪のように積もっている。


「んー、私はもう少しだけやってく」

「……は? なにを?」


 疲れ切ったユナが、気の抜けた声で瞬きを繰り返す。彼女の顔には怒りよりも、純粋な『理解不能』という文字が浮かんでいた。


「掃除! だってさ、この通りすっごく汚いんだもん! ここだけ掃除して未来が変わったとしても、今汚いまま、放っておくなんてできないよ」


 その言葉に、ピクリとレイの肩が跳ねた。


「さすがに理解できないわ」


 振り向いたレイの声は、いつになく鋭く、冷たかった。白日の下での羞恥プレイという極限のストレスが、彼女の論理的な思考に「苛立ち」というノイズを混ぜ込んでいるのだ。


「そんなことを言い始めたら、一生清掃作業は終わらないわよ? そういうのは偽善というのよ。手の届かない範囲を理解できていない愚か者のすることだわ」

「ちょ、ルナちそれは言い過ぎ……」

『同感。アオの言っていることが正しい。アカのそれは深刻なバグ。オーバーホール待ったなし』


 ミヤの電子音声も、レイの冷徹な論理に賛同する。

 でも、私はトングを力強く握り直し、2人に向かって笑いかけた。


「まあまあ、2人は先に帰ってていいから! ついでだよ、ついで。私だってこの行為に絶対的な意味がある、なんて言わないよ。分かってる。手が届かない所まで手を伸ばそうとは思わないよ」


 私は4本目の木の下へ歩み寄り、膝をついて転がっていた空き缶を拾い上げた。


「でもさ、手を伸ばせば届きそうなら、ちょっと頑張れば届くなら、伸ばさないわけにはいかないでしょ!」


 春の風が、私たちの間を吹き抜ける。

 理屈ではない。ただの感情論。レイが最も忌み嫌い、ユナが最も避けてきた『無駄な努力』。


『理解不能』


 イヤホンの奥で、ミヤの冷ややかな声がノイズ混じりに響く。

 その機械的な拒絶を聞いて、私は両手にいっぱいのゴミを抱えたまま、ゆっくりとスマートフォンの方へ向き直った。


「それにさ」


 ふふっ、と。私は泥だらけの顔で、カメラの向こうのミヤと、呆然と立ち尽くす2人に向かって笑いかけた。


「私たちはアイドルでしょ?」




「──それならさ、アイドルが通った後の道は、キラキラしてなきゃダメでしょ!!」




 定満寺通りの騒音が、一瞬だけ遠のいた気がした。

 画面の中のミヤは、目を丸くして硬直していた。彼女の周囲に展開された半透明のディスプレイに、赤いエラーコードが滝のように流れていく。

 背後で、ユナの大きなため息が春の空に吸い込まれていく音がした。


「……ほんっと、ウチのリーダーはアホ。ちょーアホ。世界一のアホ。おかげでメンバーが苦労するっての!」

「ユナちゃん?」


 振り返ると、ユナが黄色のフリルスカートをバサッと翻し、私の隣にしゃがみ込んでいた。泥だらけの指で、タバコの吸い殻を摘み上げる。


「そんなところが最高なんだってのっ!」

「最後の言葉、さすが文学部ね。見直した。今の主張には100点をあげるわ」


 レイもブツブツと文句を言いながら、青いスカートを汚してコンビニの袋を回収し始めた。


「なんで2人とも若干バカにしたような言い方するの!?」

「気のせいよ」

「気のせいだね」


 私たちが3人で笑い合いながらゴミ袋を広げていると、イヤホンの奥で、ミヤの声がノイズ混じりに響いた。


『……本当に、旧人類は非効率で、愚かで』


 その硝子玉のような瞳の奥で、無機質だったミヤの口角が、プログラムされていないはずの角度で、ふっと柔らかく持ち上がった。


『どうしようもないくらい、バグだらけだ』


 その時。

 定満寺通りを行き交う人々の、冷ややかな視線の質が、わずかに変化した。

 ただの「奇抜なコスプレ集団」への嘲笑から、「泥だらけになりながら街を掃除している少女たち」への純粋な驚きへ。

 足を止めるスーツ姿の大人たち。数人の学生たちが、遠慮がちにスマートフォンのカメラを私たちに向けた。隠し撮りではなく、確かな熱を帯びたレンズが、春の太陽の下で泥だらけになって笑い合う私たちの姿を、静かに切り取っていた。


   ***


 数時間後。カビ臭い地下スタジオの長椅子に、私たちは泥のように沈み込んでいた。

 結局、あの後も定満寺通りの欅並木を端から端まで掃除し倒した結果、指定ゴミ袋はいっぱいになり、私たちの体力は完全にマイナスへと突入していた。


「……バズってる」


 スマートフォンの画面を食い入るように見つめていたユナが、ぽつりと呟いた。

 いつもなら「オワタ」と頭を抱えるはずの彼女の声には、隠しきれない高揚感が混じっている。私とレイが重い体を起こして画面を覗き込むと、そこにはツブヤイターのタイムラインが表示されていた。


『定満寺通りの謎コスプレ集団、ガチで端から端までゴミ拾いしてた件』

『なんかめっちゃ一生懸命で応援したくなったw』

『Try-Angleって宮杜のローカルアイドルらしい。赤い子すげーいい笑顔だった』

『てか衣装ドロドロじゃん。事務所清掃業者なの?』

『てか、黄色の子、ユナぴじゃね?』

『青い子めっちゃ小動物みたいで推せる』


「誰が小動物ですって!?」


 レイがタブレットから顔を上げ、耳を真っ赤にして吠える。


「レイちゃんがキレた!!」

「すっご、いや、すっご。てか……すっご」


 ユナはスマートフォンを両手で握りしめ、目を丸くして画面と宙を交互に見つめている。


「ユナちゃんいつもの語彙力どこ行ったの!?」

『……け、計算通り。いえい』


 右耳のイヤホンから、ミヤの明らかに不自然な電子音声が響いた。


「うそつけーっ! さっきまでずーっとエラー吐いてたじゃん!!」

「ええ、貴女のシステムログのキャッシュに、想定外のエラーによる一時的な処理落ちの痕跡が残っているわよ」


 レイがタブレットの画面をスワイプしながら冷徹に指摘すると、スマートフォンの画面の中でミヤが顔を覆って身をよじった。


『……乙女の内側覗くなんて、いやん』

「こっんの、AI!! 世俗的すぎないか!? どこで学んだ!? なにを学んだ!?」


 わちゃわちゃと騒ぐ私たちだったが、ふと我に返り、泥だらけの原色のフリルスカートを見下ろした。


「それよりも衣装のクリーニング代どうしよう!!」

「どうしようって、どうにかするしかないでしょう」

「あー、明日からもやし生活だぁ」


 私は頭を抱えて長椅子に突っ伏した。


「アカリん、もともともやし生活なんだからいいじゃん」

「違うもん! 普段はもやしと煮干しだもん!!」


 ユナのツッコミに、私は顔を上げて全力で抗議する。カルシウムの摂取はアイドルの激しい運動に必要不可欠なのだ。


『本当に、人とは分からない生き物だ』


 スマートフォンの画面越しに私たちを見つめるミヤの呟きは、呆れているようにも、どこか感心しているようにも聞こえた。


「だから、面白い、でしょう? 私たちのリーダー」


 レイがタブレットから視線を外し、クスリと口角を上げる。


『複雑だけど、肯定』

「彼女の本気はすごいわよ? 覚悟しておくことね」

『わかった。わくわく』


 画面の中のミヤは、不器用に目を細めた。


「よーし! この調子で、明日も頑張るぞー!」


 私は立ち上がり、泥だらけの拳を天井に向かって元気よく突き上げた。


「ええっ!? 明日もやるの!?」

「肉体的な疲労回復には最低でも48時間が必要よ。明日は完全休養日を推奨……」

『疑問。明日から大学。ちがう?』


 ミヤの無慈悲な一言が、地下スタジオの空気を一瞬にして凍りつかせた。


「「「あっ」」」


 泥まみれのアイドル衣装を着たまま、私たちは全員揃って口を半開きにした。

 春休みは今日で終わり。

 明日からは、アイドルと大学生の過酷な二重生活が待っているのだった。


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