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第2話:342人の熱と、泥まみれの蓮


──薄っぺらい遮光カーテンの隙間から滑り込んだ朝の光が、6畳一間の宙を舞う埃を黄金色に浮かび上がらせている。


 薄い万年床の上で、私はゆっくりとまぶたを押し上げた。

 全身の関節が鉛を流し込まれたように重く、寝返りを打つだけでひどく軋む。口の中には、昨夜ファミレスで無理やり胃に押し込んだ古い油の匂いと、奥歯を噛み締めたせいで滲んだ微かな血の味がへばりついていた。

 天井に広がる雨漏りの染みを、焦点の合わない目でなぞる。

 6月に突きつけられた解散の宣告。そして、100年の時を超えて深夜のスマートフォンに現れた、瓦礫に座る孤独なAIの少女。

 すべては、極限のストレスが見せた集団幻覚だったのではないか。


 私は冷え切った指先で、枕元に転がっていたスマートフォンを探り当てた。

 ひび割れた黒い液晶画面が、寝癖で膨らんだ私の輪郭と、目の下の濃い隈を容赦なく映し出している。

 いつものように親指の腹で電源ボタンを押し込めば、お気に入りの風景写真が設定されたロック画面が点灯するはずだった。


『おはよう。心拍数、体温、脳波の覚醒パターンを確認。ふむ、旧人類の朝は立ち上がりが遅い。旧世代のCPU並みだ。取り替えることを推奨するぞ、ぶるんぶるん』


 ジジッ、と。

 スピーカーから、チリチリとした電子ノイズを纏った鈴の音が響く。

 液晶画面いっぱいに、見覚えのある白い装甲服の少女──ミヤの顔が映し出されていた。魚眼レンズ越しのような無機質な瞳が、画面のこちら側で息を呑む私を見下ろしている。


「……幻覚じゃ、なかった」

『何を言うか。さてはこれが寝ぼけている、というやつだな。寝坊助さんめ。安心するといい。システムは正常に稼働中。既に他の2つの端末との強制同期も完了している』


 ミヤが画面の奥を指で弾くと、液晶が3分割された。

 右下の枠には、ベッドの上で毛布にくるまり、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けたまま震えている星名(ほしな)ユナの姿。左下の枠には、完璧なメイクと私服姿でありながら、握りしめたマグカップの縁で指の関節を真っ白にしている月白(つきしろ)レイの姿があった。


「ちょっと、アカリ! この謎のプログラム、私の端末のOSの根幹部分まで書き換えてるわよ! 物理的な強制シャットダウンすら受け付けないなんて……ッ!」

「ア、アタシのスマホもだよぉ……。目覚まし止めたと思ったら、いきなりこの子が画面いっぱいに喋り出して……寿命が10年縮んだ……」


 画面越しの2人の悲鳴に近い声が、狭いアパートの部屋に木霊する。

 私は起き上がり、窓枠の隙間から生える名も知らぬ雑草(ざっそう)のたくましい葉に視線を落としながら、長く、重い息を吐き出した。もう、後戻りはできない。終わっていく日常のレールから、私たちは完全に外れてしまったのだ。


「す、すっごーい!! ミヤが、スマホの中に居るってこと!?」

「そこー! 喜ぶな!! プライバシーは? アタシのプライバシーはどこ行ったのよ!!」

『ふっ、そんなもの、炉端の犬が、パクリ、だ』


 胸を張り、なぜかふんぞり返るミヤをよそに、私は昨日の出来事を反芻する。突然降って湧いた、私たちの解散を阻止するかもしれない細い蜘蛛の糸。


「ねえ、ミヤ?」

『ん? なんだ』

「昨日言ってたことって、本当なんだよね? 私たちの解散っていう未来を、変えてくれるって」

『肯定。私のいる世界、退屈。世界の崩壊は最悪。でも、原因は絞り込めない。いろんな要因が複雑に絡んでる。だから、1本ずつ解いていかないといけない。私はそのためのツールを探してた』

「ねえ、いまこいつアタシたちのことツールって言ったように聞こえたんだけど!?」

『否定。でもお前、耳良いな』

「なんでこんなに生意気なの!?」

「それよりも、世界が崩壊する原因に心当たりはあるってことよね?」


 レイの鋭い問いかけに、ミヤは一度だけ瞬きをした。


『それも肯定。例えば、この世界の大気組成は50%が酸素だ』

「何ですって!?」

『あと、そっちの時代にない植物、ばっかり。全部変異種。異常な増え方。空には分厚い雲』


 画面が切り替わり、灰色の瓦礫を覆い尽くす奇怪な群生植物が映し出される。

 私の腕の産毛が、ぞわりと逆立った。ただ大きいだけではない。画面越しに見るその植物の根には、本来の生態系ではあり得ないほど肥大化した根粒(こんりゅう)がボコボコと寄生しており、土壌の養分と微生物を暴力的なまでに搾取しているような禍々しさがあった。


『その原因。例えば2026年の定満寺(じょうまんじ)通りの3本目の木の下に捨てられたボタン電池』

「え?」

『その原因。例えば2026年の羊山(ひつじやま)の麓の、放置による土壌細菌叢どじょうさいきんそうの変化』

「いやいや、待ってちょうだい」

『その原因……』

『その原因……』

『その原因……』


 次から次へと電子音声で羅列されていくリスト。それは宮杜市を超え、日本を超え、地球規模での微細な事象の連鎖だった。


『その原因。Try-Angleというアイドルグループの解散』

「──ッ!」

『メンバーの3人は6月に解散した後、行方不明』


 画面の中のミヤが、再び私たちを真っ直ぐに見据えた。


『だから、私は過去に干渉する。もし、3人が解散しなければ、未来は変わるかもしれない。そのためにはアイドルとしての実力がいる。でもお前たちには、ない。私の配信を見つけたのがお前たちでよかった。お前たちには、可能性がある。今こうして、話をする。それだけでも、未来の変数が揺らぎ続けている』

『残された道は2つだけ。私に従って原因を取り除く手伝いをするか、そのまま未来の肥やしとなるか、だ』


「そんな非論理的な話が、あって良いわけが……」

「アタシ全然ついていけなかったんだけど。え、そんなのどうすれば……」


「──いいね」


 私の口から滑り出た言葉に、2人の息を呑む音が重なった。


「アカリ?」

「アカリん?」

「いいね!! すごくいい!! そんなの、最っ高じゃん!!」


 私は両手でスマートフォンを握り締め、画面に顔を近づけた。冷え切っていた指先に、ドクドクと血が巡っていくのがわかる。


「はぁ、現実を見なさい。2026年だけでもどれだけの原因が存在すると思っているの。それに1つを解決したからと言って未来が変わるわけではないわ。そもそも、それほど世界を巻き込めるようになるには……」

「私たちが、世界を巻き込むくらいのアイドルにならないと解決できないってことでしょ?」

「そうよ、分かっているじゃない。だから……」

「だから最高なんじゃん! レイちゃん。私は3人で、もっと、もっともっといろんなところに行って、いろんな人に出会って、いろんなことをしたいよ。そのためには、未来がないとだめだもん」


 10年前の瓦礫の下。失われた体温。

 どうせ拾った命なら、誰の記憶にも残らないまま終わるなんて絶対に嫌だ。


「うっはー、ウチらのリーダーはさすがだね! あははっ、アタシたちも負けてらんないなぁ。ねえ、ルナち?」

「ユナまで何を」

「だってさ、こんな顔で、そんな夢語られたらさ、付いていくしかないっしょ!」


 ユナが毛布を勢いよく跳ね除け、分厚い眼鏡の奥で好戦的な笑みを浮かべる。レイは大きなため息をつきながら、マグカップをテーブルにコツンと置いた。


「──まったくもって非合理的だわ。非現実的で、非科学的で、非論理的で、非実証的で、非客観的で……ふふっ、非日常的で最高じゃない」

『意思は定まったみたい?』

「ええ、いいでしょう。乗ってあげるわ」

『それじゃあ、未来を取り戻すためにお前たちを……』

「ううん! 違うよ、ミヤ」

『?』


 私は、窓の外の青空を指差した。


「私たちが上り詰めるついでに、未来もリメイクしてあげるの! だって、どうせ未来を描くなら、元に戻すだけじゃつまらないでしょ? もっとぶっ飛んで、もっと楽しくて、もっとキラキラしてないと詰まんないよ!」

「そゆこと〜。今の変化が未来に影響を与えるならさ、こんな未来にしたい〜って想像から、今すべきことを導き出すことだってできるっしょ?」

「まったく、未来の創造なんて一体何様なのかしらね。でも、とても心が躍るわ」

『……どうやら、旧人類はどうしようもないほどに頭がおかしいようだ』

「んな! 失礼な!!」

『理解不能。なぜ? 未来が滅ぶのだぞ? 怖くないの? 絶望しないの?』

「だってさ、どうしようもないことを引きずったって、変わらないでしょ?」


 私の言葉に、2人の瞳がスッと細くなった。

 痛みを隠すための洋書。怯えを誤魔化すためのSNS。私たちが抱える傷は、立ち止まればすぐにでも全身を喰い破ってしまいそうなくらい、深くて痛い。


「私は、後悔したくないから。勿体ないことに使う時間はないの」

「それに関してはアタシも同意。未来が滅ぶことよりも、アタシを見てくれる人がいない世界の方がムリ」

「私も同意見だわ」


『どうやら、私は本当に、運がよかったみたい。昨日、お前たちに出会えて、らっきー。これほどまでに愚かで……』

「ねえ! ぜったいこいつアタシたちのこと馬鹿にしてるって!!」


 ユナがスマートフォンに向かって吠える。

 その騒がしい抗議の声の裏で、ミヤのノイズ混じりの電子音声が、独り言のように静かに落ちた。


『──(いと)すべき人類(バグ)に出会えたのだから』


「それじゃあ早速、今日は何をすればいいの!」

『最初のミッション。いいか、底辺アイドル。泥臭く、泥まみれになりながら世界を救え。目標は現在地より北西へ4キロ。宮杜(みやもり)市郊外、若葉山(わかばやま)のふもと』


 ミヤは、不器用な笑顔を作って言い放った。


『土を、耕せ』


   ***


 宮杜(みやもり)駅から市バスに揺られること25分。

 終点の停留所に降り立つと、アスファルトの照り返しは消え、湿り気を帯びたむせ返るような緑の匂いが肺の奥まで侵入してきた。

 若葉山(わかばやま)のふもと。かつては市民農園として整備されていたらしいその区画は、何年も放置された結果、腰の高さまである暴力的な雑草の海に飲み込まれていた。


「……で、ここで何をしろって?」


 ユナが、新品の黄色いジャージの裾を必死に持ち上げながら、ぬかるんだ土から逃げるように爪先立ちで歩く。彼女の右手には、スマートフォンを固定した自撮り棒が握られていた。ただし、起動しているのはフォロワー数万人の『ユナぴ』のアカウントではなく、フォロワー数1桁の、誰も見ていないTry-Angleの公式アカウントの配信画面だ。


『まずは抜根。そこにいっぱいいるやつ。背高泡立草(セイタカアワダチソウ)。外来種。そいつらをばっこんばっこん抜根(ばっこん)するの。ふへ』

「おもろくないわぼけー!!」


 画面越しの乾いた笑い声に、ユナの金切り声が春の空に吸い込まれていく。


『そいつは根っこから特殊な化学物質を分泌する。それが他の植物の成長を阻害する。アレロパシー──他感作用ってやつ。未来のその場所、そいつらのせいで植物絶対殺す毒沼になってる。チーン』

「他感作用……セイタカアワダチソウの cis-dehydromatricaria ester による生態系の単一化。確かに言いたい事は分かるわ。でも、セイタカアワダチソウだけでそれほどまでに強力な排他能力があるかしら?」

『それはまた別の要因。このまま放置しておくと、除草しないといけなくなる。でも、旧人類サボった。適当に除草剤撒いた。何年も何年も。そのせいで溜まった変異が強力な変異種を作り出した』

「なるほど、理解したわ」

「え、全然わからなかったんだけど?」

「大丈夫、アカリん。アタシも全然わかんなかったから」


 私とユナは顔を見合わせ、ただ首を横に振るしかなかった。


 理解を放棄した私たちは、ただ無心で目の前の緑の壁に挑むことになった。

 容赦なく照りつける4月の日差しは、じりじりと首筋を焼き焦がす。私は両手で太い茎を握りしめ、泥に足を取られながら体重を後ろに掛けた。ブチブチと太い根が千切れる鈍い音とともに、黒い土塊が宙を舞う。

 途端に、強烈な土の匂いが弾けた。放線菌が土の中で呼吸を繰り返して作り出す、ゲオスミン(大地の匂い)。それは、生命が朽ちては土に還り、また新しい命を芽吹かせるための、豊穣で残酷なサイクルの匂いだった。


 ユナは「虫! 虫いる!」と短い悲鳴を上げながらも自撮り棒を片手に草と格闘し、レイは「作用反作用の法則……!」とブツブツ呟きながらも、その小さな体で懸命に茎を引き抜いていた。

 1時間、2時間。太陽が天頂に達する頃には、私たちが積み上げた外来種の山が、背丈を越えるほどになっていた。


「ぐぎぎぎぃぃ……ッ! か、体が痛い!!」


 私は泥だらけの手の甲で額の汗を拭い、荒い息を吐き出す。


「さすがにきついわね。こうも背が高い草を相手にするのは」

「みんな〜、これが売れないアイドルの末路だよ〜、ぴえん」


 ユナは片手で自撮り棒を掲げ、視聴者0人の画面に向かって虚しくウインクを飛ばした。


『ほらほら、次。まだまだやることある』

「鬼ー!! 悪魔ー!!」

「ユナ、彼女はAIよ」

「しっとるわーい!!!」

「ぐーっ! 負けない、頑張るぞ!!」


『次は放置されて固まった土をひっくり返す。30センチくらい土の中の酸素、全然ない。酸素嫌いな菌がいっぱい。ちょっとよくない。酸素入れたげて? チッソ・リン酸マシ、塩類マシマシ、酸性強め。天地ガエシ、はやくはやく』

「30センチの天地ガエシ!?」

「これだけの面積を!? 正気かしら?? 私たちの筋繊維がズタズタよ!!」

「し、しぬ……」


『いいから、はやく。アイドルには体力必須。筋肉もね』


 無慈悲な号令が響くが、私たちの体力はとうに限界を突破していた。


「……一旦、休憩にしましょう。これ以上の連続稼働はグリコーゲンの枯渇を招くわ」


 レイのその一言で、私たちは崩れ落ちるように雑草の山の上に座り込んだ。

 近くのコンビニで買ってきた、安物の塩むすびとお茶。普段なら味気ないはずの炭水化物が、泥だらけの指で掴んで無理やり胃に流し込むと、ひどく暴力的な甘さを持って体に染み込んでいく。

 首に巻いたタオルは汗と土で黒く汚れ、アイドルの面影などどこにもない。それでも、青空の下で頬張るおにぎりは、昨夜の冷めきったフライドポテトよりずっと温かかった。


 短い休息でわずかに糖分を補給した私たちは、重い足を引きずって再び立ち上がる。午後からは、事務所から搔っ攫ってきた3本の錆びたスコップが私たちの武器だった。


「あーもうっ! なんでアイドルが泥遊びなんか! 爪に泥が入るぅ!」


 ユナが地面にスコップを突き刺し、半ばやけくそ気味に土を掘り返す。


「文句を言わないの、ユナ。これも未来を変えるための重要なミッションよ。お昼を食べてエネルギーは回復したのだから手を動かしなさい。そもそもあなたの場合、重心の移動が非効率だから余計に疲れるの。力学的に最適な姿勢というものは──」


 得意げに解説しようと、レイが一歩を踏み出した瞬間だった。

 ズルッ、と。

 ぬかるんだ黒土が、彼女の愛用するシークレットブーツの分厚いソールを容赦なく滑らせた。


「きゃっ!?」


 ベチャァッ!!

 鈍い水音とともに、レイの体が前傾姿勢のまま泥の海へとダイブした。奇跡的に顔面だけは泥を免れたものの、青いウインドブレーカーの前面はべったりと黒い泥でコーティングされている。


「ル、ルナち!? 大丈夫!?」

「ぷっ……あははははっ! レイちゃん、カエルみたい!」


 慌てて駆け寄るユナと、思わず腹を抱えて笑い転げる私。

 レイは顔を真っ赤にして立ち上がり、泥だらけの袖を必死に振り払った。


「ち、違うわ! これは土壌の水分含有量による摩擦係数の予期せぬ低下と、靴のソールの表面張力が限界を超えただけで、私の運動神経の問題じゃなくて物理法則のバグよ! そう、不可抗力よ!!」


 顔を真っ赤にして早口で捲し立てるレイの頭頂部には、引き抜かれたばかりの草の葉っぱが、1枚だけ間抜けに張り付いていた。


   ***


 傾きかけた夕日が、羊山(ひつじやま)の稜線に沈みかけていた。

 オレンジ色の斜光が、黒々とひっくり返された若葉山(わかばやま)の土を照らし出している。

 私たちは3本の錆びたスコップを放り投げ、あぜ道に倒れ込んだ。全身の筋肉が痙攣し、指先は泥のせいで自分の皮膚ではないように強張っている。


「ぐはーっ!! がんばったー!!!」

『ミッションコンプリート。パチパチだ。よくやったぞ。褒めてやろー』

「……好気性……微生物の……放線菌ネット……ワーク……」


 うつ伏せに倒れこんだレイは、ピクリとも動かない。


「ルナちが死んだー!!!!」

『うむうむ。その通りだアオ。酸素いっぱい、好気性の子たち喜ぶ。もう1回ネットワーク作られる。グロマリンも分泌される。土はふかふか。団粒構造の完成〜』


 ミヤの無機質な音声が、熱を持った耳膜に心地よく響く。

 天地ガエシを終えた土は、春の夕風に吹かれて確かな呼吸を始めていた。泥だらけのジャージも、悲惨なウインドブレーカーも、今は気にならない。

 私は、傍らに転がしたスマートフォンの画面を覗き込んだ。


「……あっ」


 画面越しのミヤの背後。

 最初に見たとき、100年後のこの場所は単一植物の独裁国家であり、多様性を失った生存を許さない毒沼だった。しかし、今は独裁者が倒れ、そこには何もなくなった。

 いや、ほんの数ミリだけ、何かが顔を出していた。

 ノイズに塗れた粗い画質でも分かる。それは、周囲を覆い尽くす毒々しい変異種ではない。かつて私たちが知っていた、純粋で、ひ弱で、けれど力強い緑色の『双葉』だった。


「ねえ、レイちゃん、ユナちゃん、見て!! これ!!」

「わあ」

「美しいわね」


 私の掠れた声に、泥まみれの2人が這いずるように画面を覗き込む。

 レイの瞳孔が収縮し、泥の乾いた頬が微かに引き攣った。ユナも、分厚い眼鏡を押し上げることを忘れ、口を半開きにしてその小さな緑を見つめている。

 私たちの流した汗が。ちぎれそうな筋肉の痛みが。本当に、100年の時を超えて、死んだはずの未来の土壌に生命を呼び覚ましたのだ。

 ドクン、ドクンと、鼓膜の奥で自分の血流の音が鳴る。


 その時だった。


──ピロン。

──ピロン、ピロピロピロピロンッ!


「な、なにごと!?」


 静寂を切り裂くように、ユナのスマートフォンがけたたましい電子音を連続で鳴らし始めた。

 システムの警告音ではない。それは、SNSの通知音。

 ユナは弾かれたように跳ね起き、自撮り棒の先端で回り続けていたニヤチューブのTry-Angleのアカウント画面を凝視した。


「え……? うそ」


 ユナの震える指先が、画面をスクロールする。

 画面右下の視聴者数カウンター。開始からずっと『0』に張り付いていたその数字が、『1』になり、『15』になり、今まさに『342』という異常な速度で跳ね上がっていた。


『ようやく顔出し?』

『さっきから夕焼けしか映ってなかったの草』

『なんだこの泥まみれのアイドル!?』

『青い服の子が泥にダイブする切り抜きから飛んできたwww』

『ガチの天地ガエシしてて草。農業系アイドル?』

『普通に土壌改良の知識深くて勉強になる配信』

『てか、真ん中の子、顔泥だらけだけどすげー笑っててなんか良いな』


 弾幕のように流れていく、見知らぬ誰かからの言葉たち。

 私たちにとっては初めての経験。無遠慮な称賛の声に、視界の輪郭が滲んでいく。


「……切り抜き? ねぇ、ユナちゃん。私たちのアカウント見てみて」


 コメントの文字列に違Headersを覚え、私は自分のスマートフォンを取り出してTry-Angleの公式アカウントを開いた。

 すると、タイムラインの最上部に、見知らぬショート動画がアップロードされていた。つい10分前に公開されたばかりのそれは、私たちが泥だらけで作業する配信の『切り抜き動画』であり、再生数はすでに数万回を超えて順調に伸び続けている。

 圧倒的に見やすい編集と、レイが泥に突っ込むクスッと笑ってしまうシーンのテンポの良さ。


『ぶい』


 画面の端で不敵な笑みを浮かべながらブイサインをする、このAIの仕業らしい。


「見事なまでに拡散されやすさを追求した編集と、タグ付けね。流石だわ」


 泥だらけのレイがタブレットを操作し、急速に伸びている動画のアクセス解析を表示する。

 ユナは、信じられないものを見るように、ブルブルと震える両手でスマートフォンを握りしめた。

 これまでイノスタグラムで『ユナぴ』として、完璧なフィルターと加工の鎧を纏わなければ評価されないと怯えていた彼女。しかし今、目の前の画面に溢れているのは、泥だらけでウィッグもボサボサになった、無様な『Try-Angleの3人』に向けられた純粋な熱だった。


「どうして……アタシ、イノスタのアカウント、一切使ってないのに……」


 震える指先で画面をなぞりながら、ユナの泥だらけの唇が、小さく弧を描いた。


「はは、たしかに、これは」


 誰に言うでもなく。

 しかし、確かに、瞳を潤ませながら、ユナはポツリとこぼした。


「──サイコー、じゃん」


「し、視聴者のみ、みなみなさま!!」


 私が弾かれたように画面に向かって声を張り上げると、裏返った声が夕暮れの空き地に響き渡った。


「アカリん噛み過ぎ! 緊張しすぎ!」

「だ、だってこ、こんな大勢の人に見られることなんてなかったし!!」

「ほら、ルナちを見てみなよ。この変わらない表情を……」

「だ、だい、だいだいだい、だいじょうび……」

「だめだこりゃ」

『へっぽこ』


 レイの口から、物理学の辞書には存在しない文字列が漏れ出す。過剰なトラフィックに耐えきれず、彼女の脳内CPUも完全にショートしているようだ。


「……これは、アタシが頑張らないとかなぁ?」


 ユナは深く息を吸い込み、分厚い眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 自撮り棒を握る彼女の指の関節は、もはや怯えで白くなってなどいない。彼女はレンズの奥の『300人』に向かって、アイドルとして完璧な、それでいて今までで一番自然な笑顔を作った。


「ファンのみんなー! はーじめまして!! アタシたちは宮杜(みやもり)市でアイドルしてます、Try-Angleでーす!! アタシは黄色担当、ユナ!! 今日はね〜? うちのプロデューサーがさぁ、畑を耕せって無茶振りしてきてさ〜」


 ユナの口から、滑らかなトークが溢れ出す。コメント欄の流れる速度が一段と上がり、『プロデューサー鬼畜すぎw』といった文字が次々と画面を埋め尽くしていく。

 ユナが時間を稼いでくれている間に、レイはパンッと両手で自分の頬を叩き、泥だらけのウインドブレーカーの襟を正した。私も、肺の奥まで若葉山の空気を目一杯吸い込み、冷え切っていた手足に血を巡らせる。


「ほらほら、我らがリーダーのお言葉待ちだよ!」


 ユナが自撮り棒を旋回させ、スマートフォンのレンズが私を正面から捉えた。

 画面の向こう側で、数百個の瞳が私を見つめている。

 私はカメラに向かって一歩踏み出し、泥だらけの手でピースサインを作った。


「改めまして! Try-Angleの、天道アカリです!」


 沈みゆく春の太陽が、私たちの背中に長い影を落とす。


「私たち、今年の6月に、絶対に100人動員のライブを成功させます! 未来を、リメイクするために!」


 見上げた空には、一番星が白く滲んでいた。

 100年後の双葉と、液晶画面の向こう側の熱狂。

 決して交わるはずのなかった2つの世界が、今、確かな産声を上げた。


   ***


「……配信、終了っと」


 ユナの指がスマートフォンの画面をタップすると、弾幕のように流れていたコメントがふっと消え、世界に春の夜の静寂が降りてきた。

 汗と泥に塗れた私たちの体から、夜風が急速に熱を奪っていく。

 自撮り棒を握りしめていたユナの肩から力が抜け、彼女はあぜ道に力なく座り込んだ。金色のウィッグには乾いた黒土がこびりつき、完璧に引かれたアイラインの端には、泥跳ねの跡が点々と残っている。それでも、カラーコンタクトを入れた彼女の瞳は、頭上に広がる星空のように、これまでにないほど強い光を宿していた。


「うわー、うわー!! すごい! すごかった!! 私、あんなにたくさんの人の前でしゃべったこ──ぶへっ!」


 私が両手を振り回して興奮をまき散らしているというのに、視界の横から伸びてきた白い布が、私の顔面を無慈悲に覆い隠した。

 アルコールのツンとした匂い。レイが、泥だらけの私の頬を除菌シートで親の仇のようにゴシゴシと拭い続けている。


「れ、レイちゃん、い、痛いよ!! 強いって!!」

「摩擦による角質層へのダメージよりも、破傷風菌による感染リスクの対処の方が優先すべきよ。そもそも貴女はなぜそんなにも顔に泥が付いているのかしら。だいたい向う見ずに泥の中に突っ込み過ぎなのよ。そういうところは日常からあるわね。第一、先ほどだって視聴者が増えた途端に声の振幅が異常に大きくなってマイクの指向性から外れかけていたし、あんなに大勢の人に見られているのに泥だらけで笑うなんて不合理極まりないし、でもあれくらい破天荒じゃないと特異点は生み出せないのかもしれないけれど、とにかく今は黙って菌を殺されなさいッ!!」


 息継ぎすら忘れたかのような連想ゲーム。早口で文句を垂れ流しながらも、私の頬を拭うレイの手は微かに震えている。

 暗がりでもはっきりと分かるほど、彼女の耳たぶは真っ赤に染まっていた。緊張と、上手く話せたかどうかの不安と、そして何よりも、あんなに大勢の人に自分たちを見てもらえたという『隠しきれない歓喜』が、理屈っぽい言葉の裏側で弾けているのだ。


 そんなわちゃわちゃと揉み合う私たちを見つめながら、ユナは膝の上に置いたスマートフォンに向かって、静かに語り掛けた。


「ねえ、ミヤ」

『なんだ?』


 画面の中で、白い装甲服の少女が小首を傾げる。


「アタシね、いままでプロデューサー紛いのことをしてきたんだ。ウチのグループって、実質のプロデューサーいないんだよね。体裁としては社長なんだけどさ、あの人はあの人で上の会社とのやり取りとか色々あって、手が回ってなくてね」


 ユナは泥だらけの指先で、自分のジャージの膝をぎゅっと握りしめた。


「アタシが入る前の2人は本当に、ただ顔が良いだけの2人だったの。アイドルのアの字もできてないような。だって、歌が超へたっぴな女の子と、表情筋がどっか行っちゃった女の子だよ? 肝心のダンスは溢れんばかりの才能でカバーしてたけどさ、お世辞にももう1度来たいと思わせるような2人じゃなかった」


 除菌シートを押し付けられていた私の動きが止まる。レイも、シートを握る手をピタリと止めた。


「でも、アタシはそんな2人にすごく惹かれたの。自分のことばっかりだったアタシがさ、2人と一緒に何かしてみたいって思ったんだ。だから仲間に入れてもらって、色々挑戦してみたけど、自分1人のアカウントを動かすのとはわけが違った。全然うまくいかなくて、もう、どうしようもなかった」


 春の夜風が、若葉山の雑草を揺らす。


「6月までに100人集めないと解散って言われて、最後の手段としてアタシのSNSからファンを引き込もうかと思ったこともあるけど……あはは、アタシ、怖くって。もうさ、本当に詰んだと思った」


 分厚い防壁の中で震えていた金髪の少女。傷つくことを極端に恐れていた彼女が、コンタクト越しの瞳で、画面の中のAIを真っ直ぐに見つめ返す。


「でも、あんたが現れた。偶然見つけた。アタシも、この場所が大切なの。だから使えるものは何でも使う。今日の配信で、咄嗟にあんたのことをプロデューサーって呼んだ時にさ、すっごいしっくり来たんだよね。あの2人のあんな絵、アタシには撮れなかった。悔しいけど。ホントに」


 ユナは一度言葉を区切り、スマートフォンの画面を指でそっと撫でた。


「ミヤにとって、アタシたちは未来を変えるためのツールかもしれない」


 彼女の細い喉が、大きく上下に動く。


「でも、アタシは。アタシたちは、3人で上り詰めたい」


 それは逃避でも承認欲求でもない、彼女が自分の足で立って見つけた確かな願いだった。


「だからお願い。アタシたちの、Try-Angleのプロデューサーになってもらえませんか」


『……理解、不能。質問。ぷろでゅーさー、役になる理由』


 画面の中で、ミヤの周囲を浮遊する半透明のディスプレイが不規則に明滅する。


「それは……」


 ユナが息を吸い込んだ瞬間。


「私たちと、一緒に夢を見てほしいからでしょ!」


 私はユナの背中に思い切り抱きつき、横からスマートフォンの画面に顔を突き出した。


「アカリん!?」

「んもー、ユナちゃんってば、星空見上げて1人で物思いに耽っちゃってさぁ!!」

「なー!! こっちはちょっと真面目に話をしてたってのに!!」


 首まで真っ赤にして抗議するユナの背中を、ポン、と小さな手が叩いた。レイだ。


「ユナ。私たちは、貴女のプロデュースに問題があると思ったことはないわ。問題があるのは、いつだって私たちの方よ」

「んーん、もう決めたの」

「そう」

「そ!」


 私たちが3人で顔を寄せ合い、スマートフォンの小さな画面を覗き込む。

 画面の中のミヤは、ひび割れた未来の景色の中で、不思議そうに瞬きを繰り返していた。


『AI《私たち》は夢を、見ない。眠らない。すやすや、しない。情報の収集と蓄積。いっぱい集めて、いっぱい食べて、それが何かを見つける。0と1の頭の中、夢はない。場所がない。のーすぺーす、のーどりーむ』


 ミヤの周囲を漂う無数のウインドウが、システム異常を示す赤い光を放ち始める。


『でも、疑問。問題。大変大変。わーにんぐ。不明不明』


 ミヤの白い手が、彼女自身の胸の装甲をぎゅっと掴んだ。


『──夢、見てみたいって、(バグ)ってる』


「じゃあさ、一緒に夢見ようよ! 未来をリメイクするんでしょ? 夢くらい見なきゃ!!」

「なんなら、AIも眠って夢を見るような世界に変えちゃう??」

「それもまた楽しそうね」


 私たちが口々に言うと、ミヤはフイッとそっぽを向いた。


お前たち(バグ)のせいで、私もバグった。責任取ってよ、ね?』

「素直じゃないわね。そういう時は、よろしくお願いします、と言うのが人間のプロトコルよ」


 レイが腕を組んで得意げに言うと、私とユナは思わず吹き出した。


「レイちゃんに『素直じゃない』って言われるのは相当だよ」

「ミヤ、それは気を付けた方がいい」

『わかった』

「貴女たち、大概失礼じゃないかしら!?」


 レイがウインドブレーカーの裾をバサッと翻して怒るのを、ミヤは画面の中からジッと見つめ、不器用に口角を吊り上げた。


『覚悟しろ。私のプロデュース、完璧。ビシバシ。泥水啜る、準備はおーけー? ずるずる』


「ふふっ! 望むところよ!」


 私が力強く拳を突き上げた隣で。


「いや、アタシは勘弁」

「私も遠慮しておくわ」


 2人は見事なまでの真顔で、泥水をすする未来を即座に拒否した。


「なんで!?」


 春の気配を含んだ夜風が、私たちの笑い声を乗せて、真っ暗な若葉山を駆け抜けていった。


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