第一話
「あ、一徹さん!おはようございます!」
「おはよう。今日も頑張ろな。」
劇場入りして楽屋に入ったところで、モラトリアムの香山七瀬が元気よく挨拶をしてくれた。特別なことをした覚えはないが、俺を慕ってくれている後輩の一人だ。そして相手が安全だと分かると懐に入り込んでくる犬みたいな性格をしている七瀬に、俺もだいぶ絆されて可愛がっている自覚がある。昨日、出番が一緒なことを思い出して連絡をしてしまうくらいには。
初めてモラトリアムと出会ったのも、この劇場だ。あの頃はこんなにも仲良くなるとは思っていなかったし、むしろ脅威だと認識していたくらいだった。
大阪から東京に進出して、様々な劇場に立たせてもらえるようになった。ここには各地から上京や進出してきた芸人が集まっているため、自ずとたくさんの情報が飛び交う。大阪で今人気の芸人は誰か、アイツらが東京に進出しようとしているらしい等、劇場に足を運ぶだけでいろんな話が漏れ聞こえてきた。そんな中でもモラトリアムの話題は良く耳にする。最近勢いのある後輩で、うかうかしているとすぐに追い越される、そんな内容が興味や妬みなどいろんな感情が混ざり合って飛び込んできた。まだ本人たちに会ったことはないが、全員が脅威の対象として見ているのだから、大層存在感のある後輩たちなんだろう。そう思っていた。今日、初めて挨拶をされるまでは。
「おはようございます。モラトリアムと申します。よろしくお願いします。」
俺たちの前でにこやかに挨拶をしてくれたモラトリアムは、噂話から想像されるものと随分かけ離れていた。初対面ということ、自分たちが若手であることを理解して、綺麗なお辞儀をしてくれるとても礼儀正しい子たちだ。二人から醸し出される雰囲気は年相応の女の子という感じがする。正直、前へ出たがるような主張の強い人間には到底思えなかった。
「十六夜の甲斐です。よろしく。」
甲斐が先に返事をする。続けて俺も挨拶をすれば、二人とも俺らに視線を合わせてから、再度頭を下げた。
「椎名です。ボケを担当してます。こっちがツッコミの香山です。」
ボケとツッコミの役割を聞いた時に、逆だと思っていたから驚いた。ぱっと見た印象だと身長が高くて大人っぽい椎名さんの方がツッコミをしていそうだし、世間的には童顔と言われるであろう香山さんの方が無邪気にボケをしていそうだったからだ。
「今日は前説を担当します。皆さんのネタを拝見して、勉強させていただきますね。」
周囲が話すモラトリアムという存在は、なんとも不気味で得体の知れない恐ろしさがあった。だが実際に会ってみればなんてことない若手芸人だ。むしろ実績がありながらも、地に足つけて芸を磨いている姿は好感を持てる。甲斐も同じだったのか、握手をする為に手を前に差し出しながら声を掛けていた。
「あんまり気張らんと頑張ったらええよ。」
俺も握手をしながら、肩の力が抜けるように一言添える。丁度握手をした香山さんは、俺の言葉に笑顔で元気よくお礼を言った。
俺たちも支度の途中だったし、彼女たちも他の先輩芸人に挨拶があるとのことだったので、その場はすぐに解散した。時間にしたら五分に満たないくらいだっただろう。だけどこの短い間にモラトリアムというコンビに持っていた先入観は大きく崩れて、新しいものが作り上げられた。
「モラトリアムって、なんだか普通の女の子やったね。」
彼女たちが別の楽屋に向かったことを確認した後、鏡に向かってネクタイを締めながら甲斐に言う。本当に普通の女の子だったのだ。それこそお笑い芸人を目指すようなタイプにも見えない。大学を卒業して、就職して、結婚して。そんな人生を歩みそうな子たちだった。
「しっかりしてたなあ。」
甲斐もベストのボタンをとめながら俺に返事をする。そこまで交友関係が広いというわけでもない俺がモラトリアムのことを知っていたのだから、甲斐だっていろいろ話は聞いていたんだろう。甲斐も俺みたいに印象がガラッと変わったんだろうか。
「どんなネタやるんやろ、興味あるなあ。」
その言葉に、俺は視線を彼に向ける。確かにあの子たちがどんなネタをやるのか想像がつかない。漫才が好きで、劇場でもよく漫才をしているということは知っているが、どんなネタをするのかは知らない。純粋に興味があった。そして興味があるという気持ちに驚く。普段そこまで人に執着するタイプではないし、人付き合いもこちらから積極的に関係性を作っていくこともしない。そんな自分が、モラトリアムについてこれだけの好奇心をくすぶらせていることが、信じられなかった。
顔には出ていなくても、どうやら相方には俺の動揺が伝わったらしい。ネクタイの結び目の位置を調整するために鏡に向かっている視線が、横に動いて俺の目を捉える。鏡越しに合った視線の先では、楽しそうに笑った甲斐の表情があった。
「珍しいな。後輩にそこまで興味持つなんて。」
いつもなら懐かれたから面倒見るってスタンスやのに、だなんて的を射たことを言ってくるからたちが悪い。その言葉には返事をせず、一服するためのタバコを手に取り、静かに楽屋を出た。
ビルの七階に劇場があり、その上の階に芸人が待機する楽屋がある。喫煙室などもそこに併設されているため、基本的には劇場の中に入ってしまえば外に出ることはない。
楽屋から出て、喫煙所へ向かうため廊下を歩いていると、途中にある階段の踊り場で、モラトリアムが壁に向かってネタ合わせをしていた。いや、タイミング的にはネタ合わせというより前説の練習だろう。ある程度言うべきことは決まっているが、そこにいかに自分たちらしさを交えていくか、どうやって笑いを取っていくかが若手芸人の悩みどころ。前説を見て応援しようと思ってくれるお客さんもいるから一ミリ足りとも気が抜けない。
「基本的な流れはだいたい決まってるから、あとはしぃちゃんが好きにボケてくれていいよ。私とりあえず全部拾うから。」
「了解。そうなってくるとなかなか稽古って感じでもないよね。」
「まあ一応もう一回やっとく?セリフも覚えてるか確認したいし。」
「そうしよっか。」
椎名さんの言葉を聞いて、香山さんのセリフから稽古が始まった。二人はこちらに背を向けているため、どんな表情で稽古をしているのか分からない。だけど、好きにボケていい、すべて拾うという香山さんの言葉と、それを受け止める椎名さんの信頼関係が芸歴一年目のうちから出来上がっていることに羨ましさを感じた。そして不思議に思ったのだ。ほかの若手芸人が同じことを言っていたら、舞台を甘く見るなと考えていたと思う。でも二人から出る雰囲気が、若手芸人としては安定感がありすぎて、確かにこの二人なら大丈夫なのではないかと思わされていた。それくらい、俺から見える背中が頼もしく、かっこよく見えた。
どのくらいその背中を見ていたんだろうか。
「東、そろそろネタ合わせしたいんやけど。……ってお前、タバコ吸いに行ったんちゃうの?」
衣装をしっかり着こなした甲斐が、廊下に立っていた俺に声をかける。近くに来てもタバコの匂いがしなかったからだろうか。俺が一本も吸えていないことに気付き、怪訝そうな顔をした。俺たちが廊下で喋っていても、彼女たちは気にする様子もなく稽古を続けていた。もしかしたら集中していて気付いていないのかもしれない。
「タバコはええわ。ネタ合わせしよ。」
さっき香盤表を確認したら、出番はラストから二番目だった。いつもならそんなに急ぐ必要はないと言うところだ。だけど、今日は早めに終わらせて舞台袖から前説を見たい。呼びに来た甲斐を置いて、俺は先に楽屋へと足を踏み出した。
「どうもー!モラトリアムと申します!よろしくお願いしますー!」
勢いよく彼女たちが緞帳の前に飛び出していき、前説が始まる。舞台袖には今日出演する先輩芸人が、モラトリアムへの好奇心を隠しきれずに集まっていた。その人数はスタッフさんも呆れて苦笑いしてしまうほど。そんなことを思っている俺も、その内の一人だった。
「皆さんの向かって右側にいるのが香山、左側が椎名です。名前だけでも覚えて帰ってくださるとうれしいですー!」
テンポの良い掛け合いで劇場内での注意事項を説明し、その後お客さんと共に行う拍手と声援の練習に移る。二人はお客さんの様子を見ながら、臨機応変に対応していた。椎名さんがボケつつ、劇場にいる全員の気持ちを高ぶらせる。それに笑いながら香山さんがツッコミをして、高まっている熱を制御する。すごいなと思った。何より二人が一番楽しそうなのだ。お客さんの緊張や期待につられて、こっちもがちがちになってしまう芸人だっている。そんな中、芸歴一年目でここまで楽しんで舞台に立てていることが、すごいと思った。
「それではそろそろ前説もお終いになりますので、先ほど練習したコール&レスポンスを元気よくお願いいたします!そうしますと私たちはここからいなくなって、お待ちかねの芸人たちが出てきます。ということで帰る頃には私たちモラトリアムのことなんて忘れてしまっているかもしれません!が!もし!カケラでも覚えてくださっていたら、またお会いした時に私たちへの声援を飛ばしていただけたら嬉しいです。ということで、準備はよろしいですか!」
自虐を含めながら、香山さんが笑いを取っていく。彼女たちはああ言っているが、全員とはいかないまでもきっとモラトリアムの名前と顔を覚えた人がたくさんいるのではないだろうか。それくらい、舞台上に自然体でいることは難しいし、魅力的に見える。
「ありがとうございました!モラトリアムでしたー!」
二人は元気よく掛け声を言って、お客さんがそれに応えて元気な声を出す。お客さんの期待感を最高潮まで持っていって、モラトリアムは前説を終えた。トップバッターで漫才をする芸人はとてもやりやすいだろう。これだけ劇場が温まっているのだから。
緞帳の隙間から二人が帰ってくる。と同時に、舞台袖の野次馬の多さに目を見開いていた。先輩である出演者が、こぞって自分たちの前説を見てるんだからそりゃ驚くだろう。
「なんだろ、はじめてのおつかいの子どもの気分ですね。」
椎名さんが笑いながらそう言う。香山さんも後ろで照れくさそう笑っていた。
「皆さん開演するので楽屋に戻ってくださーい!」
スタッフが集まっている芸人に向かって指示を出す。そろそろ幕も上がるだろう。モラトリアムの二人は全然関係ないのに謝りながら率先して楽屋に戻っていった。




