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第9話 封印の軋み

朝、部屋の空気が甘い。砂糖ではない。

封印が擦れる匂いだと、私の身体はもう知っている。

カーテン越しの光が少しだけ濃く、影の輪郭が揺れて見える。


ポストにカード。


《昨日はありがとう。大丈夫です。少し甘い匂いがします。》


返事は早かった。


《封印が軋みました。救出に力を使った余波です。——大事には至りません。》


大事には、至らない。

それでも、心は少しだけ騒ぐ。

出勤の支度をしながら、廊下の足音を気にしている自分に気づく。

昨日の声——“匂うな”。

誰だったのか。


夜、帰宅すると、燈真が扉の前にいた。黒いカーディガン。首元の影が、いつもより薄い。

「顔色は良い」

「あなたの方が、少し薄い」

小さく笑い合い、彼は真顔に戻る。

「ここを、出るべきかもしれません」

予感していた言葉が、実際に置かれると、胸の底がひゅっとする。

「……祓い屋?」

「近くにいます。兄妹。手際が良い。匂いで辿る術に長けている。私の封印が軋むと、甘い匂いが立つ。だから、あなたに気づかれた」

「出ていったら、静かに暮らせる?」

「しばらくは。けれど、あなたの眠りから私は離れることになる」

それは、嫌だ。条件反射みたいに思った。

「私、ここで寝たい。あなたの隣の部屋で」

言ってから、心臓が一度跳ねる。

燈真は驚いたように目を瞬き、すぐに柔らかく笑った。

「では、まず“杖”を増やしましょう。静けさは、増やせる」


私たちは、生活の工夫を積み上げた。

廊下の足音を吸う薄いマット。共用部に置く観葉植物を、管理人さんに相談して許可をもらう。郵便受けの目隠し。

隣り合う部屋の間取りを思い出し、小さな家具の配置を少し変えるだけで、音の流れが変わるのがわかる。

「これなら?」

「良いです。空気の川が細くなった」

「川」

「音も匂いも流れます。静けさは、堰です」


作業の合間、私は聞いた。

「祓い屋って、怖い人たち?」

「仕事に忠実な人たちです。私にとっては天敵に近いけれど、世界にとっては必要な人たち」

彼は自分の言葉を、自分で確かめるようにゆっくり話す。

「あなたを怖がらせたくはない。だから、可能な限り、ここで守る」

「うん」

「ただし——」

「ただし?」

「赤紙が投函されたら、私はどこにいても戻る。約束です」

「約束」


その夜、窓を三秒開けたとき、廊下の向こうで兄妹の会話が聞こえた。

「この建物だ」

「甘い。近い」

結界が、低い弦の音で応えた。

私は湯呑みを握り、掌の温度に意識を集める。

杖が増えた分だけ、怖れは薄くなる。

眠りの入口で、私はもう一度だけ、扉越しに小さく呼んだ。

「——おやすみ、燈真さん」

「おやすみ、真白さん」


(つづく)

次回予告:手の温度。選ぶということを、手のひらで確かめる夜。

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