第9話 過労ライン
朝一番の会議が延びて、昼の配信チェックが食い込み、夕方の修正が山になった。
(吸う4、止める4、吐く6)
数字を机の下でなぞっても、指先が冷たくて、うまく棚が出来ない。
「佐伯、これ“今日中”ね」
部長の“今日中”は、たいてい“いまから二時間”の意味だ。
(あと少し。帰ったら、窓を三秒)
目の前の文字が波打ち、椅子の背もたれが遠くなる。
(あ、だめ)
床の硬さだけが急にリアルになって、視界の白がせり上がった。
どこかで、海鳴りみたいな低音がした。
次の瞬間、温度が落ちる。頬に触れないのに、汗が引いていく。
「——真白さん」
名前を呼ばれた。声はすぐそば、けれど誰にも見えない距離。
私は目を閉じたまま、そこにある気配に体重を預けた。
「ここで大丈夫。呼吸だけ、私に合わせて」
吸う4、止める4、吐く6。
彼の声と同じ速度で、世界が戻ってくる。
膝に薄い毛布がかかったような感覚。
「すみません、どなた——」同僚の声。
「彼女の上司です。タクシーを呼びました」
低い声が嘘をやさしく包む。
「すぐ戻ります。——少し、彼女に静けさを」
私の肩に触れない距離で、体温が調律されていく。
エントランスまで、気づいたら出ていた。
外気に触れた瞬間、ほどける。
「無理をさせましたね」
「わたしが、した」
「赤紙の写真、届きました。よく送れました」
無意識にスマホを握っていたらしい。
タクシーに乗り込むと、彼は運転手に静かな住所を伝えた。窓の外の灯りが、滲まずに流れていく。
部屋に戻ると、結界が厚くなる音がわかった。
ベッドに座らされ、彼は水を差し出す。
「大丈夫。熱は下がります」
「規則、破った?」
「少しだけ。——あなたを迎えに行くのは、例外でもいい」
彼の声が、いつもより少し低い。
「ありがとう」
言った途端、涙が出た。悔しいとか怖いとかじゃなくて、張っていた糸が切れた涙。
燈真は手を伸ばさない。代わりに、空気がそっと肩に掛かる。見えない毛布。
「真白さん」
彼は、初めて名前を呼んだ。
それだけで、胸の奥の鈴が鳴る。
「眠りましょう。今夜は、私が入口を見張っておきます」
「うん」
眠りに落ちる直前、遠くで、誰かが廊下の匂いを嗅いでいる気配がした。
「——匂うな」
知らない声。男と女、二つ。
結界が、低く鳴って応えた。
(つづく)




