第6話 鏡の角
朝、歯を磨きながら鏡を見る。
私の肩の上で、空気がひと瞬き、歪んだ。角の影のような何かが、光の端で揺れて、次の瞬間には消える。
歯ブラシを止めて、息を飲んだ。
(見間違い?)
けれど、背筋に走った微かな寒気は、本物の手触りだった。
出勤の支度をしながら、メモ帳に書く。
《鏡に、角みたいな影。怖くはない。念のため共有します。》
ポストに入れる。
エントランスを出たところで、野良猫が植え込みから出てきた。白と茶色のまだら。
普段は誰が近づいてもすぐ逃げるのに、今日に限って足元にまとわりつく。
「おはよう」
しゃがんで頭を撫でると、くるる、と喉が鳴る。
顔を上げると、階段の上に燈真がいた。
「人の“ざわめき”を、猫はよく知っています」
「今朝は、静かなんでしょうか」
「静かですが、“別のもの”に気づいた顔です」
彼は猫の額を一度だけ撫で、私に視線を戻す。
「メモ、受け取りました。ありがとう。仕事の帰りに、少しだけ実験をしましょう」
一日中、角の影が頭の片隅に引っかかった。
でも、怖くはない。不思議と。
夜、帰宅すると、ポストに白いカード。
《結界の目を、一箇所だけ粗くします。三十秒。外の風の“流儀”を、あなたに見てもらいたい。》
私は頷いて、部屋の中心に立つ。
「始めます」
壁越しに、彼の声がとても小さく届いた。
空気の網目が、ほどけるのが分かった。
部屋の温度が一度、下がる。外の音が、細かい砂みたいに入り込んで、窓の隙間でキラキラと光る。
怖さは来ない。代わりに、世界の輪郭が一瞬だけ濃くなる。
(これが、外)
三十秒が経つと、すっと網が戻った。静けさが、部屋の形に合う。
「ありがとう」
思わず声に出してしまい、慌てて口を押さえる。
すぐに、ポストにカードが落ちた。
《気づく力は、守る力になります。鏡の影は、封印の“縁”です。あなたに害はない。——気づいてくれて、ありがとう。》
読み終わる頃、玄関の前に小さな包み。
開けると、薄い羊羹が二つ。黒糖と抹茶。
《糖は、怖れを落ち着かせます。夜更けに少しだけ。》
私は黒糖を選び、熱いお茶を淹れて、窓を三秒だけ開けた。
外から、遠くの笑い声。どこかの家のテレビの音が一瞬だけこぼれて、すぐ消える。
(世の中の音が、平気だ)
こんな感覚、いつぶりだろう。
お礼のカードを書こうとして、ペン先が止まる。
書きたいことが多すぎた。
ありがとう、の前に、好きがこぼれそうになる。
慌てて、言葉を並べ替える。
《実験、楽しかったです。鏡のことも、怖くなくなりました。羊羹おいしかった。
追伸:今日のあなたは、猫に好かれていました。》
ポストに差して、ベッドに入る。
眠りの入口で、壁の向こうから、ほんの一拍だけ間があった。
次に届いたカードは、朝になってから。
《猫は賢い。あなたも。
追伸:好かれていたのは、今日のあなたです。——おやすみ。》
カードを胸に当てて、私は笑った。
きっと今は、私の方が先に、少しだけ、彼に寄っている。
(つづく)




