第5話 相合い傘のスープ
朝、雨は上がって、雲だけが低い。
ベランダの手すりに、夜の水滴が整列していた。私は洗濯物を干し、ポストに青紙——《います》を差す。
すぐに、隣の投函口から同じ青が覗いた。笑ってしまう。青が二つ、ただそこにあるだけで心が緩む。
出勤。駅までの道で、昨日の神社をもう一度通った。鳥居の木が濡れて、香りが強い。
会社に着くと、今日も部長のタスクは多い。
「佐伯、昼の会議、君が進行」
「承知しました」
声は小さく、でも揺れない。
(杖)
窓を三秒開けられない職場で、私は掌の温度を杖にする。湯呑みはないけれど、マグカップを両手で抱え、呼吸の順番を守る。
会議は、荒れなかった。必要な確認を、順番に。
終わって席に戻ると、タイピングの音が静かに聞こえる。世界が耳障りじゃない日の音。
帰り道、エントランスでまた鉢合わせた。
「おかえりなさい」
「ただいま、です」
この言葉を、誰かに言うのは久しぶりだと思った。
「買い足りないものがあって」
「私も」
自然に並んで歩いて、スーパーへ。店内は平日の夜で空いている。
「カモミール、減りが早いですね」
「使い道が、増えました」
「良い兆候です」
帰りは一本の傘。昨夜より距離が近い。肩が触れるか触れないか。
「小さな儀式は、すぐに効かなくなると考えがちですが」
「はい」
「続けると、“静けさの通り道”が太くなる。数日で変わります」
「もう、変わってます」
思ったより正直に答えてしまって、足元の水たまりを避けるふりで視線を落とした。
彼は何も言わない。けれど、傘の角度がほんの少し私寄りになった。
今夜も“互いに一品”。私は卵焼きの残りでサンドイッチ、燈真は野菜のポタージュ。
壁越しに、食器の当たる音が二度。ページをめくる紙の音が一度。湯の沸く音が小さく続く。
それらが混ざって、安心のBGMになる。
食後、私は初めておやすみだけのカードを作った。
《おやすみなさい。今日は、会議が荒れませんでした。カモミールのおかげかも。》
投函口にカードを滑らせると、十数秒で返ってきた。
《おやすみなさい。あなたが“順番”を守ったからです。——静けさは自分の側にも宿せます。》
(自分の側にも)
胸の奥の小さな鈴が鳴る。
明かりを落とし、杖を握る。窓三秒、掌の温度。
ベッドに入ると、壁の向こうから気配が近い。
お互い、同じ順番で眠りに入るのだと思うと、眠りの入口が広くなる。
まぶたが重くなり、落ちる寸前、ふっと思う。
——彼が、魔王だという事実は、どうしてこんなに静かなんだろう。
(つづく)




