第4話 雨の買い出し
午後四時、チャットの未読が山のように積み上がって、私は画面の角に小さく映る自分の顔を見た。少し青い。
部長からは「今日中に全案」と、再掲の指示。私一人で四人分の仕事をする術は、まだ持たない。
(吸う4、止める4、吐く6)
数字を指でなぞると、肺の底に小さな棚ができる。そこに焦りを置く。
夕方、遠回りをしてみた。
いつもは曲がらない小路へ。木造の家が並び、雨の匂いが濃い。小さな神社の鳥居の下に立つと、屋根に当たる雨粒が音階みたいに落ちてきた。
(ほどける場所)
燈真の言葉を思い出す。胸のひもが、ひとつずつ外れていく。
買い物をして帰ろうと、スーパーに入ったところで、黒い傘が視界の端を横切った。
「佐伯さん」
振り向くと、燈真がいた。濡れていない。傘の骨まで静かに整っている。
「こんばんは」
「こんばんは。遠回り、してみました」
「ええ、雨は良い遠回りです」
彼のカゴには、玉ねぎ、鶏むね肉、セロリ、ハーブの束。私は卵と牛乳と、いつもの安売り納豆。
「——同じハーブを」
彼と私の指が、棚の同じ瓶に触れた。カモミール。ほとんど同時に手を引っ込める。
「どうぞ」
「いえ、どうぞ」
一瞬の逡巡のあと、彼は微笑んで二つをカゴに入れた。
「分けましょう。雨の夜は、二人分の静けさが要ります」
会計を済ませ、エントランスで立ち止まると、雨脚が強くなった。
「傘を」
差し出された黒い傘に入る。思っていたより広い。肩が触れない距離で、雨の音だけが盛大に鳴っている。
アパートまでの道、話す必要のない歩幅で歩いた。
「今夜は、風が強い。結界を厚くします」
「お願いします」
頼りにしている、という言葉の直前で、舌が恥ずかしがる。
「卵を買ったので、厚焼き作ります。少し、置いてもいいですか」
「喜んで。私はスープを」
玄関前で、短い打ち合わせのように交換条件を決める。
“互いに一品”“ドアは使わずポストの棚”“インターホンは鳴らさない”。
ふたりの生活の音が、今夜だけ少し混ざる約束。
部屋に戻るとすぐ、卵を割った。砂糖は控えめ、だしを少し。ゆっくりと何層にも折り重ねる。
外の風が窓を叩くたび、キッチンの照明が微かに揺れる。
向こうの部屋から、包丁の規則正しい音と、鍋の蓋が震える小さな音。
(音が、安心になる)
焼き上がりをカットして、少しあたたかいうちにラップをかける。
ポストの棚に置くと、すぐに返礼が届いた。
細長いスープジャーと、白いカード。
《風が強いので、熱を逃がさないものを。具は柔らかい。口内の熱が下がる寸法です。》
ふう、と息がもれた。
卵焼きとスープ。テレビも音楽もつけない夜。窓の外の暴れる音に反して、部屋の中は静かに満ちていく。
食後、湯呑みを両手で持ち、三秒だけ窓を開ける。
雨の冷気が頬を撫で、遠くで救急車のサイレンが一度だけ。窓を閉めると、結界の膜が薄く振動して、すぐに落ち着いた。
(今夜も眠れる)
そう思うだけで、まぶたが重くなる。
ベッドに入る前に、メモを書いた。
《卵焼き、ほめてもらえて嬉しかったです。スープは、体の中が静かになる味でした。
雨の音なのに、怖くなかった。ありがとう。おやすみなさい。》
ポストに差したとき、壁の向こうから、ほんの少しだけ低い音。
昨夜よりもずっと柔らかい、海の呼吸みたいな低音。
それが一度だけ響いて、すぐに消えた。
(つづく)




