表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/26

第4話 雨の買い出し

午後四時、チャットの未読が山のように積み上がって、私は画面の角に小さく映る自分の顔を見た。少し青い。

部長からは「今日中に全案」と、再掲の指示。私一人で四人分の仕事をする術は、まだ持たない。

(吸う4、止める4、吐く6)

数字を指でなぞると、肺の底に小さな棚ができる。そこに焦りを置く。


夕方、遠回りをしてみた。

いつもは曲がらない小路へ。木造の家が並び、雨の匂いが濃い。小さな神社の鳥居の下に立つと、屋根に当たる雨粒が音階みたいに落ちてきた。

(ほどける場所)

燈真の言葉を思い出す。胸のひもが、ひとつずつ外れていく。


買い物をして帰ろうと、スーパーに入ったところで、黒い傘が視界の端を横切った。

「佐伯さん」

振り向くと、燈真がいた。濡れていない。傘の骨まで静かに整っている。

「こんばんは」

「こんばんは。遠回り、してみました」

「ええ、雨は良い遠回りです」

彼のカゴには、玉ねぎ、鶏むね肉、セロリ、ハーブの束。私は卵と牛乳と、いつもの安売り納豆。

「——同じハーブを」

彼と私の指が、棚の同じ瓶に触れた。カモミール。ほとんど同時に手を引っ込める。

「どうぞ」

「いえ、どうぞ」

一瞬の逡巡のあと、彼は微笑んで二つをカゴに入れた。

「分けましょう。雨の夜は、二人分の静けさが要ります」


会計を済ませ、エントランスで立ち止まると、雨脚が強くなった。

「傘を」

差し出された黒い傘に入る。思っていたより広い。肩が触れない距離で、雨の音だけが盛大に鳴っている。

アパートまでの道、話す必要のない歩幅で歩いた。

「今夜は、風が強い。結界を厚くします」

「お願いします」

頼りにしている、という言葉の直前で、舌が恥ずかしがる。

「卵を買ったので、厚焼き作ります。少し、置いてもいいですか」

「喜んで。私はスープを」


玄関前で、短い打ち合わせのように交換条件を決める。

“互いに一品”“ドアは使わずポストの棚”“インターホンは鳴らさない”。

ふたりの生活の音が、今夜だけ少し混ざる約束。


部屋に戻るとすぐ、卵を割った。砂糖は控えめ、だしを少し。ゆっくりと何層にも折り重ねる。

外の風が窓を叩くたび、キッチンの照明が微かに揺れる。

向こうの部屋から、包丁の規則正しい音と、鍋の蓋が震える小さな音。

(音が、安心になる)

焼き上がりをカットして、少しあたたかいうちにラップをかける。


ポストの棚に置くと、すぐに返礼が届いた。

細長いスープジャーと、白いカード。


《風が強いので、熱を逃がさないものを。具は柔らかい。口内の熱が下がる寸法です。》


ふう、と息がもれた。

卵焼きとスープ。テレビも音楽もつけない夜。窓の外の暴れる音に反して、部屋の中は静かに満ちていく。


食後、湯呑みを両手で持ち、三秒だけ窓を開ける。

雨の冷気が頬を撫で、遠くで救急車のサイレンが一度だけ。窓を閉めると、結界の膜が薄く振動して、すぐに落ち着いた。

(今夜も眠れる)

そう思うだけで、まぶたが重くなる。


ベッドに入る前に、メモを書いた。


《卵焼き、ほめてもらえて嬉しかったです。スープは、体の中が静かになる味でした。

雨の音なのに、怖くなかった。ありがとう。おやすみなさい。》


ポストに差したとき、壁の向こうから、ほんの少しだけ低い音。

昨夜よりもずっと柔らかい、海の呼吸みたいな低音。

それが一度だけ響いて、すぐに消えた。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ