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第3話 静けさのルール

雨は午前中で上がった。

洗濯物をベランダに出して、私はポストを覗く。白い封筒。いつもの細い字。


《メモ、読みました。あなたの言葉は、よく眠る前の湯気に似ています。

ルールに一つ追加:

・私が不在のときは、ポストに青紙(安心マーク)。——赤紙(緊急)が投函されたら、どこにいても戻ります。

追伸:夕方、結界の調整を。可能なら5分だけ、部屋の中心に立って、呼吸を聴かせて。》


夕方。今日は在宅で、社内チャットの対応が中心だ。昼休み、スーパーに行き、卵とバターを買う。パンが美味しかったから、何か返したい。

戻ると隣の扉の前に、薄い青紙が差し込まれている。《います》。

私は自室の中心に立つ。5時ちょうど、チャイムは鳴らさない。呼吸を始める。吸う4、止める4、吐く6。

ふと、空気の“網目”が肌に触れる感じがした。ぴしり、と何かが整う。

壁の向こうから声は聞こえない。けれど、静けさが頷いた気がした。


キッチンで卵を割り、バターを落とし、砂糖は控えめに。厚焼きのスクランブルに、小さく刻んだパセリ。

皿に盛り、ふと迷って、ラップをして扉の前に置く。紙片に《お裾分けです。もし食べられないならスルーでOK》と書いた。


10分もしないうちに、返事が来た。

白いカードに、丁寧な礼と、下に丸いシール。《今宵》

——合図らしい。夜に少しだけ会いましょう、の印。


***


夜九時。インターホンは使わない。私は玄関の前で待つ。そっと、扉が開く。

「こんばんは」

「こんばんは」

久しぶりに直接、声を聴く。

燈真は黒いカーディガンに白シャツ。細い手首。首筋の下、鎖骨の影が静かだ。

「卵、とても美味しかった。熱の加減がやわらかい。ありがとう」

「よかった。あの、追加のルール、読みました」

「赤紙は、滅多に使わないで済むのが理想です」

彼は少し笑った。

「今夜は“入口”の話を。あなたの眠りの」

私たちはドアの間に立ったまま、声を落として話した。

寝入りの悪さ、目覚ましの前に起きる癖、夢の色。燈真は頷き、壁に指を当てる。

「ここに、あなたの最初の扉がある。開ける前に、毎晩同じ順番で二つのことを。

ひとつ、窓を三秒だけ開けて、外の音を一つ拾う。

ふたつ、湯呑みを両手で持ち、掌の温度を感じる」

「ルーティン」

「そう。儀式は、静けさの杖になる」

「杖」

「魔王の言い回しです」

小さな冗談に、喉の奥で笑いが広がった。


別れ際、燈真が少しだけ真顔になる。

「人が多い場所に入るとき、あなたの背に“ざわめき”が溜まる。今日は少し多い。明日、もし可能なら、帰りに無駄に遠回りをしてみて」

「遠回り?」

「静かな道を選ぶ。五分でいい。夜風に“ほどける場所”を作る」

「やってみます」

彼は頷き、ドアを閉めた。

鍵の音はしない。音のない閉じ方が、ここにはあるらしい。


ベッドに入る前、窓を三秒開ける。

遠くで、電車のレールがかすかに鳴った。湯呑みの温度が掌から、心に落ちていく。

杖を握ったみたいに、呼吸が整い、眠りはゆっくり降りてきた。


(つづく)

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