第26話 音の置き方
月曜の夜。
机の端に、温めたスプーンと、小さな陶器の器。
ポストに青紙。《います》
隣にも青。《います》
白いカードが落ちた。
《“背で一度”の練習。——合図は二つだけ。①呼吸を合わせる ②“一度”で終える》
私は窓を三秒開け、コップの残像を1と数えて目を閉じる。
掌の点をなぞり、(吸う4、止める4、吐く6)。
ローズマリーは触らない。レモンバームは0.25だけ鼻先で確かめる。
合図の丸いシール《今宵》。
インターホンは押さない。扉を少しだけ開けると、燈真が同じ高さに立っていた。
黒のカーディガン、袖口は整い、目はやわらかい。
「拍をそろえます」
「はい」
棚の上下で、無言のまま、四つの拍を数える。(・ ・ ・ ・)
「——どうぞ」
私はスプーンの背を、器の縁に一度だけそっと置く。
ことも言えないほど小さな、膜に触れる音。
下段でも、一度だけ。
空気が、ひと目盛り下がる。
「足りる?」
「足ります。今夜は“一度で足りる夜”です」
胸の奥で鈴が小さく鳴る。
(足りない夜に備えて、やり方だけ覚えておこう)
二巡目は、置かない練習。
拍を合わせて、何も置かない。
——置かないことが、置いたみたいに効く。
「無音の一度」
燈真が小さく言う。
「置かないを、置く」
「うん。作法の章、覚えた」
てんが毛布の窪みで身じろぎし、くるる。
管理人さんの掲示が踊り場でぺたりと一度だけ鳴る。
【追記】夜の共有廊下は“無音の一度”歓迎。——足音はゆっくり。
生活の紙が、こちら側にまた寄った。
三巡目。
今度は“背で一度”を、二人同時で置く。
拍を数える。(・ ・ ・ ・)
同時にそっ。
膜がふたつ重なって、やわらかい波になる。
私は思わず笑いそうになって、口元を押さえた。
「同時は、抱擁の未満だね」
「未満が良い。距離は守って、温度は分け合う」
四巡目で、外から不意の音。
上の階で何かが落ちるどん。
続けざまに、遠くの交差点の電子音。
灰の点が効いて、すぐふっと鈍る。
私と燈真は、視線を交わさず、拍を数え直した。(・ ・ ・ ・)
——置かない。
落ちた音に追い音を重ねないのが、今夜の正解。
(“足りない”気持ちは、呼吸で下げる)
(吸う4、止める4、吐く6)
「……上手です」
「教わったから」
「君は“決める”が速い。一度でやめる勇気がある」
(反則)
胸の鈴がちりと鳴って、余白が増える。
短い休憩。
棚の上下で“白いスープ未満”。ミルクを温め、蜂蜜を点、微塩をひと粒。
いただきますを小さく重ね、器の縁を棚に触れさせない。音を置かない作法。
「次、小節で合わせてみましょう」
「小節?」
「四拍=一小節。一度を置く位置を、二拍目にする」
「了解」
(・ ・ ・ ・)
二拍目にそっ。
下段も同じタイミングでそっ。
「二拍目は“返事”の位置です」
「返事」
「ええ。君が“1”を置く前に、私が準備を済ませられる」
次は三拍目。
(・ ・ ・ ・)
三拍目に置くと、終わりのEnterに似た安堵が来た。
「三拍目は“終わり”の位置だ」
「うん。心が引き取って、置ける感じ」
練習はここで終わり。
「一度で終える」は守る。
私は窓を二秒だけ開け、コップの残像を1。
レモンバームは0.25、ローズマリーは今日は触らない。
掌の点をなぞり、(吸う4、止める4、吐く6)。
てんが白い石をちょんと触れて、香箱に戻る。
掲示板には新しい紙が一枚。
【小さな音の作法】
・背で一度
・足りなければ、今日はやめる
・“無音の一度”もOK
(管理人さん、速い)
私は笑って、カードを一枚。
《“無音の一度”、好き。——置かないが、置ける》
返事。
《同意。置かない勇気は、静けさの味方》
胸に椅子がひとつ座る。
私は今日の締めを提案した。
《最後に、同時に置かないを一回だけ。——拍をそろえて、何もしない》
(・ ・ ・ ・)
何もしない。
——それが、いちばん効いた。
空気が、どこにも当たらずに、やさしく沈む。
「今日の単語は?」
「『一度』」
「じゃあ、私は『小節』」
「良い往復です」
結界がやわらいで、胸の鈴がちりと鳴る。
灯りを落とす前、私は“静けさの辞書”を一行ずつ。
《静けさの辞書:
・背で一度=足りなければ今日はやめる
・無音の一度=置かないを置く
・二拍目は返事/三拍目は終わり
・追い音は重ねない(呼吸で下げる)》
投函して、窓を三秒開ける。
交差点の電子音は灰の点でふっと鈍い。
掌の点をなぞり、(吸う4、止める4、吐く6)。
眠りの入口は、今夜練習した“角度”でやわらかくひらく。
「おやすみ、とうま」
「おやすみ、ましろ」
てんが毛布の窪みでくるる。
白い石は三つとも、音を立てずに在る。
——“一度”で、じゅうぶん甘い。
(つづく)
次回予告:第27話「小節の合図」——二人だけの“二拍目の返事”が日常に染みる。さりげない来訪者と、作法で守る距離。




