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第25話 作法の本

土曜の夜。

机の上に、薄い装丁の『作法の本』。目次は少ない単語でできていて、章題の余白が広い。

ポストに青紙。《います》

隣にも青。《います》

白いカードが落ちた。


《今夜も“同時に読む”。——めくりは昨日と同じ速さで。

一章目は『渡し方』。》


私は窓を三秒開け、コップの水の残像を1と数える。

掌の点をなぞり、(吸う4、止める4、吐く6)。

棚の上段に本を置くと、下段にもすとんと同じ本。

秒針の音はしない。部屋は、読むための静けさだけを持っている。


「はじめよう」

「うん」

私は頁の端をしゅと持ち上げて、最初のめくりを置く。

下段でもしゅ。半拍のほのかな遅れは、昨日と同じ、安心のズレ。


一章『渡し方』。

『取っ手のない器は、角度で渡す/落とさぬように、受け取りやすく/一呼吸だけ相手より先に重さを持ち、次の呼吸で手放す』

器……私は朝のスープを思い出す。棚の上下で、音を置かない渡し方を練習してきた気がする。

「とうま、これ、台所の“渡す”の作法?」

「ええ。眠りも同じです。——一呼吸だけ持って、次で手放す」

(終わりのEnter、と同じだ)

胸の奥の鈴が、ひとつだけ小さく鳴った。


二章『』。

『言葉は間で温度が決まる/早口は音を増やし、沈黙は椅子になる/0.5の長さで留めると、約束の形になる』

昨日の『余白の地図』が、ここに繋がる。

私は呼吸の止める4のうち2だけを意識して、うなずきを0.5遅らせた。

下段で、同じ0.5が返ってくる。

(往復、成立)


三章『触れずに温度を渡す』。

『掌の点を、並べる/重ねない、並べる/三呼吸だけ同じ高さに置き、四つ目で距離を戻す』

私は棚の上段に右手をそっと置き、点を本の端から指三本のところへ。

下段でも、同じ高さの気配。

三呼吸。(吸う4、止める4、吐く6)を三巡。四つ目で、そっと手を引いた。

温度は動かない。——動かないことが、動いたみたいに胸に届く。

「……ね、とうま」

「はい」

「並べるって、いい」

「うん。距離は守って、温度は分け合う」


四章『音の置き方』。

『鈴の代わりに、背を使う/スプーンの背で机を撫でるほどの音を一度/一度で足りないなら、今日はやめる』

私はスプーンを温め、棚の上で一度だけ、ほんのわずかに背を当てた。

ことも言えないほど小さな合図。

下段でも一度。

(足りる)

胸のざわめきが、そこで止まる。


五章『名と呼び名』。

『名は強く、呼び名は杖/呼び名は守るために置く/名で呼ぶのは、眠りの外で』

私は心の中で、とうま、ましろと呼び合い、名が結界をやわらかくするのを確かめた。

(眠りの外では、名に力がいる。眠りの中では、杖だけでいい)


六章『合図』。

『めくりは抱擁の未満/速度は温度/往復の数が何も起きないを作る』

昨日の頁の一行が、別の角度で再印刷されたみたいだ。

私は次の頁へのめくりを、いつもよりほんの0.25だけ遅らせる。

下段がその遅れに合わせて、0.25戻ってくる。

(抱擁の未満、成立)


——そこで、突然。

廊下の呼び鈴がちりんと鳴った。

静かすぎる金属音。

私と燈真は、同時にめくる手を止め、掌の点をなぞる。

管理人さんの足音が早歩きで近づき、掲示板の前でぺたりと紙を貼る気配。

扉の向こうから、落ち着いた声がした。

「呼び鈴は届いています。窓口時間外です。——お引き取りください」

言い争う音はない。しばらくして、遠ざかる足音。

(紙が、効いた)

胸の石がひとつ、少し軽くなる。


私は窓を二秒だけ開け、ローズマリーの0.25を通す。

コップの水の残像を1と数え、頁へ戻る。

七章『紙』。

『紙は杖/往復で強くなる/掲示は共通語』

さっきの一幕が、そのまま章の脚注みたいに見える。

私は笑って、下段へ小さくうなずきを送った。


最後の章『約束』。

『約束は点で書く/線にしない/半分だけいっしょの約束は、甘さを増やし、距離を壊さない』

私は心の地図の、空白に点を置く。(次の土曜八時/葉は一枚だけ/“同時に読む”は月に一度)

下段でも同じ点が置かれ、空白は地図になる。


本を閉じる。さらり

同時に、さらり

「今日の単語は?」

「『並べる』」

「じゃあ、私は『角度』」

「良い往復です」

結界がやわらぎ、胸の鈴がちりと鳴る。


そのとき、掲示が一枚、ポストにも配られた。管理人さんの手書き。


【廊下の作法】

・呼び鈴は管理人室のみ

・掲示の更新は日中

・夜は“靴音ゆっくり”

・植木の葉は一枚だけ(作法)


生活の紙が、またこちら側に寄った。


私は小さな器に牛乳を温め、蜂蜜を点で落として“白いスープ未満”を作る。

棚の上下で、いただきますを小さく重ねる。

「とうま、渡し方の章、好きだった」

「君は、手放すタイミングが正確です。だから、受け取りも上手」

(反則)

笑いを喉でほどいて、掌の点をなぞる。


「……ねぇ」

「はい」

「今度、“音の置き方”をもう少し練習しよう。背で一度だけ、の精度を」

「賛成。来週の夜、練習未満で」

「練習未満」

「境界は守る。甘さは増やす」

「うん」


灯りを落とす前、私は今日の紙を一枚。


《静けさの辞書:

・渡し方=一呼吸だけ持ち、次で手放す

・並べる(重ねない)=温度の共有

・背で一度=足りなければ今日はやめる》


投函して、窓を三秒開ける。

交差点の電子音は、灰の点のおかげでふっと鈍い。

呼吸の順番を一度だけ。(吸う4、止める4、吐く6)

眠りの入口は、今日覚えた“渡し方”みたいにやわらかい角度で私を招き入れた。


「おやすみ、とうま」

「おやすみ、ましろ」


てんが毛布の窪みでくるる。

白い石は三つとも、音を立てずに在る。

約束は、点。線にしない。——甘さは、きょうも増えた。


(つづく)

次回予告:第26話「音の置き方」——“背で一度”の精度をそろえる夜。抱擁の未満を、もう一段だけ甘く。

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