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第24話 余白の地図

夜八時五分前。

机の上に薄い詩集を置く。白い表紙に小さく『余白の地図』。行間が深く、ページは指でなでるとさらりと鳴る。

ポストに青紙。《います》

隣にも青。《います》

白いカードが落ちた。


《今夜、“同時に読む”。——めくりは、君の速度で。ページの端を“1”》


私は窓を三秒開け、コップの水の残像を1と数える。

掌の点を親指でなぞり、呼吸の順番。(吸う4、止める4、吐く6)

棚の上段に詩集を置き、下段に同じ表紙がすとんと置かれる気配。

合図の丸いシール《今宵》。

時計の秒針が、静かに進む。


「——始めようか」

「うん」

声は小さく、距離は紙一枚ぶん。

私は一頁目の端をしゅと持ち上げ、めくりを一度だけ置く。

下段で、同じしゅが重なる。

紙の音は鈴じゃない。日常の音のいちばん静かな種類だ。


一編目は、短い。

『ここが地図の余白/風が通るための穴/名ではなく、呼び名を書いておく』

私は黙読しながら、心の中でてんの額の点を思い、昨夜の白い石を思い、踊り場の毛布を思う。

呼び名は杖。名は強い。——この本は私たちの生活を、先に知っていたみたいだ。


二頁目をめくる。

下段のしゅが半拍遅れて重なり、私はその遅れを許すという形で胸の力が抜ける。

(速度は合図じゃなくて、温度なんだ)

次の詩は『点』について。

『指先に置く小さな点/中心の予備/おそれは点で止まり/甘さは点で落ち着く』

私は机の上の白い石に視線を一度だけ落とし、蜂蜜の点と微塩のひと粒を思い出す。

(生活の辞書、ちゃんと増えてる)


三頁目。

『半分だけいっしょに食べる朝/片側だけの香り/レモンの皮を一すり/作法はやわらかい境界』

胸の奥の鈴が、ひとつちりと鳴る。

思わず、棚の上下でいただきますの形に親指を合わせたくなる。

しない。——しないことも、作法。


「……ましろ」

「なに」

「君のめくりの速さ、良い」

「とうまの半拍、落ち着く」

声の往復は短く、詩の余白に沈む。


四頁目をめくる。

『眠りの入口には、順番がある/窓を三秒/掌の点/数息の拍』(吸う4、止める4、吐く6)

詩は知っている。知られている、という感じがこそばゆいのに、嫌ではない。

私は呼吸の順番を一度だけなぞり、詩の終わりに小さく頷いた。

下段で同じ高さの、うなずきの気配。

(読書の相槌って、音がいらない)


五頁目は白い。

言葉が一行だけ、中心から少しだけずれている。

『何も起きないために、往復する』

管理人室の“静けさの手紙”、掲示板の紙、祓い屋の文書、そして私たちの封筒。

(往復は静けさの礼儀)

胸の中で、あの単語が椅子になる。


窓の外、交差点の電子音がふっと鈍い。灰の点。

私は次の頁へ指をかけ、めくりを少しだけ遅らせた。

下段のしゅが、今度は半拍先に来て、すぐに私の速さへ戻る。

(速度のやりとりは、抱擁の未満)

言葉にしたらうるさいから、胸の中でだけそう言う。


六頁目。

『君の名を呼ぶ前に/呼び名で一度だけ触れる』

私は心の中で、とうまと呼び、次の行でましろを受け取る。

名前が結界の膜をやわらかくするのが、はっきり分かる。

(呼び名は杖)


七頁目。

『雨の日は一滴を数える/それで終わり』

昨夜の余熱が、碗の底にまだある。

喉の紙は溶け、塩の温度は抜け、でも記憶の温度は残っている。

私は掌の点をなぞり、一滴と心の中で数える。

下段でも、同じ一滴が数えられた気配。


八頁目は、短い散文のような詩。

『生活は、魔法に強い』

文字数の少ない一行が、今日いちばん重い。

作法、共通語、紙、往復、点。

私は次の頁へ指を置かず、半分だけ閉じかけてから、もう一度開く。ためらいもまた、余白の作法だから。


「ねえ、とうま」

「はい」

「“同時に読む”、好き。——黙って同じ場所を歩ける感じ」

「私も。歩幅は違っても、方向は同じ」

彼の声が低く落ちて、詩の行間を傷つけない。

私は頷き、九頁目をめくる。


『猫の呼び名は点/水は一時間/毛布は半分/白い石は三つ』

てんが踊り場でくるると鳴く音の記憶が、紙の白さをやさしく汚す。

(汚す、は悪い意味じゃない)

生活の染み。

私は笑って、ページ端をそっと押さえた。


十頁目は、最後の頁だった。

『余白の地図に、君の約束を一点』

私はペンを持たない。代わりに、心の中で点を一つ置く。

(半分だけいっしょ/毎週の朝八時/同時に読む夜は月に一度)

下段で、同じ点が置かれた気配。

——地図は、ふたりの胸にだけ印刷される。


本を閉じる。さらり

下段でも、さらり

棚の上下で、同時に深呼吸。(吸う4、止める4、吐く6)

窓を二秒だけ開けて、ローズマリーの“0.25”を通す。

香りは取りすぎない。余白は、守る。


「今日の単語は?」

「『地図』」

「じゃあ、私は『歩幅』」

「良い往復です」

結界がやわらいで、胸の鈴がちりと鳴る。


私はカードを一枚。


《“同時に読む”またやろう。次は『作法の本』の短い章。——めくりは今日と同じ速さで》


返事。


《了解。君の速さは、私にとって眠りの入口です。》


(反則)

笑いを噛み殺し、湯呑みを両手で抱える。掌の点は、今夜もあたたかい。

踊り場のてんが白い石をちょんと触れ、毛布の窪みにすとんと落ちる音のない動きを見た気がした。


灯りを落とす前、私はもう一枚だけ紙を書く。


《静けさの辞書:

・めくり=抱擁の未満

・速度は温度

・地図に置く約束は“点”ひとつ》


投函して、窓を三秒開ける。

交差点の電子音は、灰の点でふっと鈍い。

呼吸の順番を一度だけ。

眠りの入口は、読み終えた頁みたいに薄くて丈夫だ。


「おやすみ、とうま」

「おやすみ、ましろ」


本を閉じた後の静けさが、部屋いっぱいに満ちていった。


(つづく)

次回予告:第25話「作法の本」——二度目の“同時に読む”。手を触れずに、温度だけをそっと増やす練習。

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