第21話 窓辺のハーブ
朝。
掲示板の“洗濯は8:00以降”の紙が、風でぺたりと一度だけ鳴った。
てんは日向の楕円にすとんと座り、しっぽで空気のリズムをぴんと区切っている。
ポストに青紙。《います》
隣にも青。《います》
白いカードが落ちた。
《おはよう。——窓辺に、鉢をもう一つ。
今日は“レモンバーム”が良い。香りは0.5だけ。》
(0.5)
口の中で転がすと、昨日の“透きま”と相性がいい数字だと思えた。
私は管理人室へ行き、短く相談する。
「ハーブの鉢をもう一つ置いても?」
「受け皿と水こぼし対策があればOK。猫のいたずらは、小石を敷くといいよ」
生活の紙が一枚、追加された。
【窓辺の植木・追加ルール】
・受け皿必須/水は朝一回
・表土に小石を敷く(てん対策)
・窓の右端から指三本/左端から指三本
(紙は杖)
昼休み、私は小さなポットを買い、帰ってすぐ、表土に丸い小石を薄く並べた。
右端から指三本にローズマリー。
左端から指三本にレモンバーム。
指先で葉をなでない。香りは“0.5”だけだから。
ポストにカード。
《置きました。土の上に小石。受け皿は深め。》
《良い配置です。——夕方、“香りの0.5”をいっしょに。》
夕方の遠回りは短く、踊り場でてんがくるると喉を鳴らした。
水皿は一時間のルール通り、もう下げてある。
私は窓を二秒開け、掌の点をなぞって、呼吸の順番を確かめる。(吸う4、止める4、吐く6)
合図の丸いシール《今宵》。
インターホンは押さない。扉を少しだけ開けると、燈真が同じ高さに立っていた。
黒のカーディガン。手には小さな布袋。
「石の環、ありがとう。てんが土を掘らずに済む」
「管理人さんの知恵。……“香りの0.5”、やってみる?」
「はい。葉は一枚ずつ、ねじらずに“しゅ”とちぎる。——音を出さないやり方で」
棚の上下で、同じタイミング。
レモンバームの葉を一枚、指先でしゅと離す。
目の前で、葉脈が淡く光る。私は鼻に近づけて、半分だけ吸い込む。
0.5。
甘い青みが、胸の奥で水平に広がり、すぐ薄くなる。
(取りすぎない香りは、静けさの礼儀)
棚の下段に、燈真の小瓶が置かれた。
ラベルに《微塩+砂糖 5:1》
カード。
《香りの後は、舌に“点”。——甘さに塩ひと粒で落ち着く。》
私は指先で本当に一粒だけ舐め、続く甘さを点で止めた。
余韻が、暴れずに座る。
てんが窓辺の鉢に近づき、石の環の匂いを嗅いで、ふいと身を引いた。
「効いてる」
「小石は“音を立てない柵”です」
「……それ、好き」
言いながら、胸の鈴がちりと鳴る。
日が落ちかけ、廊下の足音が二つ。
覗き穴に、祓い屋の兄妹が遠くの階段を上がってくる姿が映る。
手には鈴も瓶もない。兄は片手で掲示を読む。
「受け皿必須……ふむ」
「猫の名前は書いてないの?」妹が小声で言う。
管理人さんが廊下の端から顔を出した。「呼び名は内緒だよ」
兄妹は苦笑して、踵を返した。
(紙は、こちらの側に風を吹かせる)
夜。
ローズマリーの葉をひとつ、やや厚めにちぎり、今度は“0.25”。
隣から同じ高さで、0.25の気配。
香りは、目立たず、でも確かにそこにある。
「——ましろ」
「なに」
「君の“0.5”は、私にとって1に近い」
「取りすぎ?」
「いいえ。私に効く、という意味です」
胸の奥で、今日いちばんはっきり鈴が鳴った。
私は棚に小さな皿を置く。
薄く焼いたパンの角に、微塩砂糖を点で。
《“0.5”のあとの“点”。半分だけお裾分け》
下段に落ちたのは、小さな布袋。
中には、白い丸い石が三つ。
カード。
《てんのベッドの端に一つ。窓辺の鉢の手前に一つ。君の掌の点の横に一つ。
——“中心”を見失った夜のために。》
私はてんの毛布の隅に石を一つ。
鉢の手前の受け皿に一つ。
そして、掌の点の横、机の上に一つ。
白は、音を立てずに在る。
(中心が増える)
灯りを落とす前、窓を三秒開ける。
交差点の電子音は、灰の点でふっと鈍い。
レモンバームの匂いが0.25だけ混ざる。
掌の点をなぞり、呼吸の順番。(吸う4、止める4、吐く6)
「ねぇ、とうま」
「はい」
「“半分だけいっしょ”の朝、次はハーブのトーストにしよう。
レモンバーム、一枚だけ散らすやつ」
「良い提案です。一枚だけが、ちょうどいい」
「ちょうどいい」
「土曜の八時」
「八時」
ベッドに入る。
てんが毛布の丸い窪みでくるると喉を鳴らし、白い石に前足をちょんと触れた。
私は今日の辞書を一行書く。
《静けさの辞書:
・香りは“0.5”(取りすぎない)
・石の環=音を立てない柵
・白い石=“中心”の予備》
投函して、掌の点をなぞる。
眠りは、窓辺の緑みたいに静かに茂る。
「おやすみ、とうま」
「おやすみ、ましろ」
(つづく)
第22話「静けさの手紙」——管理人室に一通の文書。仕事の人から届いた、礼儀正しい“お詫び”。生活で返す、やわらかな返信。




