第20話 雨上がりの朝
朝。
雨は止み、空は思ったより背が高い。
ベランダの手すりには、昨夜の水滴がまだ等間隔に残り、陽に当たって小さな音もしないまま光っていた。
踊り場のてんは毛布から伸びをして、床に落ちた日向の楕円にすとんと座る。しっぽの先だけが、光のリズムに合わせてぴんと震えた。
ポストに青紙。《います》
隣にも青。《います》
白いカードが落ちる。
《おはよう、ましろ。——今日は“光の杖”をひとつ。
コップ半分の水を窓辺に置き、三秒見てから目を閉じて、残像を“1”と数える。》
私はコップに水を入れ、窓ぎわの陽の中へそっと置く。
三秒。
目を閉じると、まぶたの裏に淡い水色の円が広がり、ゆっくり薄くなる。
「いち」
声に出すと、胸の奥で何かが水平に戻った気がした。
掌の点をなぞり、呼吸の順番を確かめる。(吸う4、止める4、吐く6)
カードがもう一枚。
《“半分だけいっしょ”の朝を、窓辺で。
今日は柑橘を。——音の小さい果物です。》
私はオレンジを一個、包丁の刃を温めてからすーっと薄い輪に切った。
ヨーグルトを小鉢に、蜂蜜を糸みたいに落とす。
棚の上段に、白い皿と小鉢をそっと置く。器が棚に触れない距離で、音を置かない。
下段に落ちたのは、ちいさな陶器の器に入った白いチーズ。ラベルに《やわらかいリコッタ“未満”》。
カード。
《蜂蜜を“点”で。——全部ではなく、片側だけに》
私は笑って、オレンジの片側だけに、蜂蜜の点を落とす。
甘さが遠くで鈴みたいに鳴って、酸味の輪郭がきゅっと整う。
二人分の朝が、紙一枚の距離で静かに満ちる。
食べ終わるころ、管理人さんが掲示板に新しい紙を貼った。
【朝のお願い】洗濯機の使用は8:00以降。踊り場の植木に水やりOK(受け皿必須)。
てんの毛布、日向に一時間。
生活の紙が増えるたび、この建物が少しずつこちら側になる。
私はカードを書いた。
《窓辺の植木、置いていいなら、ハーブを一鉢どう? 静けさの杖にもなるやつ。》
返事。
《賛成。ミントかローズマリー。——“窓の右端から指三本”の位置に。
風の通りを邪魔しない、杖の位置です。》
私は昼休みに小さなポットを買い、帰ってすぐ、ローズマリーの鉢を窓辺に置いた。
右端から指三本。
指先で土の表面をそっと押すと、香りがほんの少し立つ。
(匂いが、うるさくない)
隣から、同じ高さにミントの鉢が置かれる気配。
半分だけいっしょの、緑。
午後、祓い屋の兄妹が遠くの通りを歩いていくのが見えた。
鈴はない。妹は空を見上げ、兄は手元で何かを書きつける。
足取りは仕事の速度で、こちらには来ない。
紙とルールと、生活の事実で、道は分かれている。
夕方、青紙を一度引いて、私は窓を二秒だけ開けた。
アスファルトの雨上がりの匂いが薄く入り、ローズマリーがそれをやさしく混ぜる。
掌の点をなぞる。
「とうま、今日の単語は?」
返ってきたカードは、短い。
《『透きま』——風も光も、通すためにある静けさ。》
「透きま」
口に含むと、声まで明るくなる。
私は手帳に書く。
《静けさの辞書:
・光の杖=コップの残像を“1”
・窓の右端から指三本
・透きまは、守るための穴》
夜。
てんの毛布を日向から下げて、タオルで手すりの水滴を拭う。音は出ない。
窓を三秒開けると、交差点の電子音は、灰の点のおかげでふっと鈍いまま。
壁の向こうの気配が、近い。
「ねえ、とうま」
「はい」
「“窓辺の朝”、好き」
「私も。君の残像の“1”が、こちらまで届きます」
「見えるの?」
「見えません。——でも、静けさは見える」
喉の奥で鈴がひとつちりっと鳴る。
私は勇気を少しだけ足して、カードをもう一枚。
《今度の“半分だけいっしょ”、窓辺の緑も合わせよう。
ローズマリーの葉を一枚、同じタイミングで指でちぎって、香りを“0.5”吸う。》
返事は、やさしい文字で。
《了解。“0.5”は良い。取り過ぎないのが、静けさの礼儀。》
灯りを落とす前に、コップの水をもう一度だけ見て、目を閉じる。
まぶたの裏に薄い水色がひろがり、ゆっくり薄れていく。
「いち」
掌の点をなぞり、呼吸の順番。(吸う4、止める4、吐く6)
眠りの入口が、雨上がりの空みたいにたしかに高い。
「おやすみ、とうま」
「おやすみ、ましろ」
てんが毛布のうえでくるると一度だけ喉を鳴らす。
透きまは開いている。
でも、風も光も、今日はどれもやさしい。
(つづく)
次回予告:第21話「窓辺のハーブ」——管理人さんの許可のもと、鉢がもう一つ。てんの“いたずら対策”と、香りの“0.5”。




