第2話 お詫びの夜食
佐伯 真白:28歳。制作会社の進行管理。寝不足常習。家事は得意、自己評価は低め。
久遠 燈真:見目麗しい外国風の隣人。正体は力を封じられた“魔王”。静けさと規則正しい暮らしが好き。料理が異様に上手。
上司(部長):マイクロマネジメント気味。
朝の光は、静けさに輪郭を与える。
目が覚めた瞬間、体の芯にひんやりとした余白があって、私はしばらく天井を見た。昨日の――魔王。結界。ハーブティー。全部、夢じゃない。机の上に置かれた白い封筒が、証拠みたいに控えめにそこにあった。
表に細い字で《おはようございます。久遠》とある。封を切ると、一枚のメモと小さな布包み。
【静けさのルール/案】
・夜のインターホンは使わない(緊急はポストに赤紙)
・壁は叩かない(必要ならメモ)
・眠れない夜は、深呼吸×10回(方法は裏)
・私は週に三度、空気の手入れに入ります(不在時でも可/鍵は不要)
・何か気づいたら、あなたの言葉で知らせてください
裏面には呼吸のやり方。吸う4秒、止める4秒、吐く6秒。数字は小さく、線はやさしい。
布包みをほどくと、銀色のスプーンが出てきた。柄の先に小さな月の刻印。メモの下にさらに小さな字。
※夜食のスープを置きました。目覚めてすぐは塩分を。よければ、このスプーンで。
「夜食……朝だけど」
冷蔵庫を開けると、タッパーに入った琥珀色のスープ。温めると、玉ねぎと鶏の香りがやわらかく立ち上がった。ひと口、舌に触れた瞬間、肩の力が抜ける。胃が驚かないように細心の穏やかさで作られている。
私は時計を見て、現実に引き戻された。
「やば」
始業まで一時間。洗顔、着替え、メールチェック……玄関を出る直前、ポストに薄いカードが刺さっていた。
《良い一日を。夜、スープの感想を——メモで。》
くすっと笑ってしまう。返事用に、メモ帳をバッグに入れた。
***
昼休み、社内の休憩スペースでカップ麺を前にぼんやりしていると、部長がやって来た。
「佐伯、午後の進行、例の案件は今日先方に全案出しておけ」
「全案、ですか。取捨の確認がまだ——」
「いいから。あと、修正見積りも“さっき言ったとおり”な」
(さっき、言ってないです)
喉まで出かかった言葉は、寸前で飲み込んだ。昨夜の静けさを壊したくなくて。
私は机の引き出しからメモを取り出し、小さく数字を書いた。4—4—6。吸う、止める、吐く。
(夜に話そう。壁一枚向こうの人に)
***
終業は、もう夜の端っこだった。会社を出ると、雨。タクシーを探す気力はない。傘を差してアパートまで歩く。
階段を上がると、隣の扉の前に薄い木箱。ふたに《どうぞ》の紙片。中には、丸パンが二つと、小さな瓶。ラベルは《眠る前のミルクスープ素》。
私は自室に戻り、瓶の指示通りに温めた牛乳に溶かした。甘すぎないバニラと、ほんの少しのカルダモン。体内のざわめきが、ひとつずつ層を落としていくようだ。
机に向かい、メモを書く。
《スープ、とてもやさしかったです。パン、外はカリッと、中はしっとり。あと、ルール、全部賛成。
追伸:今日、会社で4-4-6を試しました。少しだけ、心が静かになりました。ありがとう。 佐伯》
ポストに投函して戻ると、壁の向こうから気配がした。音ではない。静けさが一段、深くなる。
ベッドに入ると、電気を消した暗闇が怖くない。目を閉じる。
呼吸を数えながら、眠りは湯気みたいに私を包んだ。
(つづく)




