第19話 雨の余白
午後から、空が低くなった。
細い糸みたいな雨が、ベランダの手すりを等間隔に濡らしていく。
(今日は、遠回りはいらない)
神社へ行かず、私は早めに帰った。踊り場のてんは毛布のくぼみに丸くなり、しっぽの先だけが雨のリズムに合わせてぴと、ぴと動く。
ポストに青紙。《います》
隣にも青。《います》
すぐに白いカードが落ちた。
《おかえり。気圧が下がる。——“雨の余白”を作りましょう。》
(余白)
胸の奥で、あの夜の単語が小さく返事をする。
私は窓を一秒だけ開け、湿気を“顔見せ”程度に通して閉めた。
掌の点を親指でなぞり、湯呑みを両手で抱える。喉に、薄い紙が一枚貼りついたみたいな違和感がある。
もう一枚、カード。
《君の喉、少し乾いている音。今日は“とろみの杖”が良い。》
(とろみ)
私は戸棚から片栗粉と生姜、蜂蜜を出した。鍋に水を少し、薄く溶かして、弱火でとろんとさせる。生姜はすりおろしをほんの指先、蜂蜜はスプーンの背で壁に当てずに落とす。
湯気は控えめ。音は出ない。
できあがった生姜葛湯を小さめの碗に注ぎ、半分は私に、半分は薄紙に包んで棚へ。
入れ替わりに、細長い包みが滑り落ちる。
白い綿の袋に、温めた塩が詰まっていた。
カード。
《“耳のうしろ”に温度を。——怖れを吸った塩は、冷めたら捨てる》
私は電子レンジで袋を少しだけ温め、座って耳のうしろに当てる。
(あ……ほっとする)
雨の糸が外で増えていくのに、部屋の中では音が減る。
生姜のとろみが喉の紙をほどき、塩の温度が首筋の固さをほどく。
(余白ができる)
「——ましろ」
壁の向こうから、声が一段低く届いた。普段より薄く、少し遠い。
「とうま?」
「大丈夫。雨は、封印の縁を少し柔らかくする。——今日は“静かでいる”ほうが、私には良い」
「静かでいる」
「君の呼吸に合わせる。……君だけ、少し強めに吸って、ゆっくり吐いて」
私は頷き、(吸う4、止める4、吐く7)で数える。
結界の膜が、私の呼吸に合わせてひとつゆっくりになった。
カードが落ちる。
《今夜は“私の低い音”を減らす。かわりに、君の生活の音を少しだけ貸して》
(貸す音)
私は台所に立ち、ゆっくり水を注ぐ音を一度だけ置いた。
陶器の器が、こつんと軽く鳴る。
それから、棚の上でスプーンの背を一度だけ置く。
——鈴じゃない、生活の合図。
壁の向こうの気配が、少し楽になった気がした。
てんが毛布から顔を出し、私たちの部屋のあいだの空気を嗅いで、また丸くなる。
管理人さんの掲示板に、昼間貼られた新しい紙が目に入った。
【雨の日のお願い】共有廊下のモップがけは朝一回。転倒注意。
てんの水皿はぬるま湯で。
(生活の紙、更新)
私は小さく笑って、塩袋をいったん外し、首の後ろに当て直す。
雨脚が強くなってきた。ガターに水が集まり、細い滝ができる。
その音も、今夜は怖くない。
「とうま、なにか食べられる?」
「とろみのあるものがいい。……君の“生姜の杖”を、少しだけ」
私は葛湯を薄い器に分け、棚へそっと置いた。
返ってくるカード。
《ありがとう。——君の味だ》
喉の奥が、ほんの少し熱くなる。
(好き、が出そう)
私は蜂蜜の瓶を見て、蓋を一呼吸置いてから閉めた。
夜の八時。インターホンは使わない。扉を少しだけ開けると、燈真が立っていた。
今日は、ほんの少し顔色が白い。
「触れる。いい?」
その問いは、十話の夜と同じ形なのに、今夜は温度のためだけの響きがした。
「……いい」
彼は私の掌を両手で包み、三呼吸だけ温度を合わせた。
熱を渡すんじゃない。余白を分けるみたいに。
「ありがとう。——これで充分」
「私も、あったかい」
短い重なりが終わると、彼は一歩引いて、いつもの距離を整える。
「窓は今夜、開けなくていい。代わりに、“雨の音を一つだけ数える”」
「一つだけ」
「はい。数えたら、終わり」
私は頷き、扉を閉めた。鍵は回さない。
灯りを落とし、耳を澄ます。
ベランダの端で、一滴が手すりを打つ。
「いち」
それで終わり。
掌の点をなぞり、(吸う4、止める4、吐く7)。
喉の紙はもう溶けて、首の後ろは塩のぬくもり。
結界は私の呼吸でゆっくり呼吸して、向こう側の気配は静かにそこに在る。
「ましろ」
「なに」
「今日の単語を、一つ」
「お願い」
「『余熱』」
「余熱」
「火を落としてからも続く、やさしい温度。雨の日の静けさに似ています」
胸の真ん中に、その言葉が小さなストーブみたいに灯る。
「好き。——余熱」
眠りの入口が、雨で広がる夜があるなんて、知らなかった。
最後にもう一度だけ、扉の方へ小さく声を送る。
「おやすみ、とうま」
「おやすみ、ましろ」
てんが毛布の中でくるると喉を鳴らす。
雨は続く。でも、夜は静かだ。
余熱が、余白にやさしく溜まっていく。
次回予告:第20話「雨上がりの朝」——乾いた空気と新しい杖。“半分だけいっしょ”の次の一歩を、窓辺で確かめる。




