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第18話 猫に名前を

朝、遠回りの神社まで行かなくても、踊り場に猫がいた。

白と茶色のまだら。昨日より安心しているのか、背中を丸めたまま、私の足音を聞いても逃げない。

「おはよう」

しゃがんで両手を見せる。音を立てないように動くと、猫はくるると喉を鳴らした。


ポストに青紙。《います》

隣にも青。《います》

白いカードが落ちる。


《おはようございます。踊り場に“住人”がいる。——水だけ、置きましょう。》


(餌ではなく、水)

管理人さんの掲示を思い出す。餌やりは禁止、短時間の水皿はOK(掃除必須)の生活の紙。

私は台所で浅い器を一つ選び、ぬるま湯に近い水を入れ、タオルを敷いて踊り場へ置いた。

猫は一瞥してから、慎重に近づき、静かに舌を動かす。音がしない飲み方だ。


隣の扉が静かに開いた。黒のカーディガンに白シャツ。

「おはよう、真白」

さんを落とした呼び方は、まだ胸の奥で鈴を鳴らす。

「おはよう、燈真」


二人で猫を見守る。距離は半歩。

「——呼び方を決めようか」

「名付け、じゃなくて?」

「うん。“名”は強い。けど、呼び方は杖になる。生活の合図」

猫の額に、茶色の点がある。私は自然に口にしていた。

「『てん』は?」

燈真が目を細めて笑う。

「点は、良い。小さくて、強すぎない。中心にもなる」

私は踊り場の空気をひとつ吸って、小さく言ってみた。

「——てん」

猫が顔を上げ、こちらを見て、またくるると喉を鳴らした。

(決まった)


そのとき、階段を上がる足音。管理人さんだ。

「お、朝から静かでよろしい。お水は一時間で下げておいてね」

「はい。タオルもあとで洗います」

掲示板に新しい紙が一枚増える。


【共同ルール】踊り場の水皿は一時間以内。終わったら拭き取り。


紙はやっぱり、私たちの側を強くする。

私は小声で言う。「てん、飲んだらおしまいね」

猫は皿を覗き込んで、しっぽの先を一度ぴんと立てた。


***


昼休み。私は短いメモを投函した。


《今日の夜、“てん”にタオルのベッドを。——未満のやつ、していい?》


返事は、すぐ。


《賛成。“未満のベッド”。——音の出ない素材で。》


夕方のスーパーで、小さなコットン毛布を一枚。帰宅して洗濯&乾燥。タオルと重ねると、音のしない巣ができた。

夜、窓を三秒だけ開け、掌の点をなぞる。

合図の丸いシール《今宵》。

扉を少しだけ開けると、燈真が同じ毛布を半分に折って持っていた。

「半分だけいっしょのベッドにしましょう」

「うん。棚の上下みたいに、布も半分」


踊り場で、二人でタオルと毛布を重ねる順番を決める。角が擦れないように、ゆっくり置く。

「ここが冷えるから、二重に」

「了解」

指先が一瞬、触れた。掌の点がふっと温かくなる。

距離は壊れない。けれど、温度は伝わる。


てんが近づき、毛布の端をくんくん嗅いで、すとん、と腰を落とした。

小さな丸い塊が、布の丸い窪みにぴたりとはまる。

「気に入ってくれた」

「うん。——よく眠ってね、てん」

猫の喉の音が、階段に吸われていく。


踊り場にしばらく立ったまま、私たちは声を落として話した。

「祓い屋、今週は動きがないね」

「仕事の報告が通って、生活の紙が効いている。匂いの“原因”が確定したから」

「原因はパンと砂糖」

「そして、君の生活」

燈真は、ほんの少しだけ笑う。

「名よりも、呼び方が杖になる。てんも、君も」

「私も?」

「うん。——“ましろ”って呼ぶだけで、私の結界は楽に呼吸できる」

胸の奥の鈴が、一度だけちりっと鳴った。


「じゃあ、わたし、呼んでいい?」

「どうぞ」

「——とうま」

名前が、夜気に小さく溶ける。

結界の膜が一枚、柔らかくなった気がした。

彼の目が、ほんの少しだけ驚いて、それから静かに嬉しそうになる。

「はい」

その一音で、眠りの入口がまた広がる。


水皿を下げ、タオルのベッドの縁を軽く整える。

てんは目を細め、前足を折って、香箱の形になった。

私は掌の点をなぞり、踊り場の空気をひと呼吸分だけ吸った。

「てん、おやすみ」

「おやすみ」燈真の声が、私に向いているのか、猫に向いているのか、境目のないやさしさで落ちる。


部屋に戻り、湯呑みを両手で包む。

壁越しの気配が近い。

「今日の単語は?」

「『呼び名』」

「うん。『呼び名』」

「名は強く、呼び名は杖。——どちらも扱い方しだいで、静けさになる」

手帳に一行書く。


《静けさの辞書:

・名は強い/呼び名は杖

・猫の水は一時間

・半分の布は、距離を壊さない》


灯りを落とす前に、小さな覚え書きをもう一枚。


《てん:白茶/額に点/くるる》


投函すると、返事が来た。


《追記:音は小さく、存在は豊か。——君に似ています。》


(ずるい)

声に出さず笑って、窓を三秒だけ開ける。

遠くの交差点の電子音は鈍く、夜風は牙を抜かれている。

掌の点をなぞって、ベッドに入る。

踊り場の小さな住人も、きっと今、毛布の窪みで同じ順番の呼吸をしている。


「おやすみ、とうま」

「おやすみ、ましろ」


呼び名は、静けさを厚くした。


(つづく)

次回予告:第19話「雨の余白」——降り始める雨の夜、少しだけ体調を崩す誰かと、少しだけ近づく温度。

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