第17話 夜更けの呼吸
火曜の夜は、長かった。
定例の会議が押して、修正は雪だるま式。オフィスを出たのは二十三時を回っていて、風は乾いているのに、胸の中だけが湿って重い。
(吸う4、止める4、吐く6)
数字を並べても、今日は棚が崩れやすい。
遠回りを少しだけ短縮して、私は風見坂ハイツの階段を上がった。踊り場に、管理人さんの新しい掲示が一枚。
【静けさメモ】夜の廊下は“靴音ゆっくり”にご協力を。
紙一枚が、心に灯りを点ける。私はポストに青紙を差した。《います》
すぐに隣にも青。《います》
白いカードが落ちる。
《おかえりなさい。今日は“夜更けの呼吸”を。合図を出します。》
鍵は回さない。部屋の中心に立って、窓を三秒開ける。
遠くの交差点の電子音は、灰の点のせいでふっと鈍い。
掌の中心の点を親指でなぞり、明かりを落とす。
壁の向こうから、音にならない拍が届く。
(・ ・ ・ ・)
ゆっくり四つ。吸う。
(・・ ・・)
二と二。止める。
(・・・ ・・・)
三と三。吐く。六。
声ではない。けれど、確かに同じ呼吸に合う合図。
私はそれに合わせて、肩から力を下ろす。
(吸う4、止める4、吐く6)
二巡、三巡……四巡目で、胸のざわめきが層を落としていくのが分かった。
「……上手です」
ほんのかすかな声。
「今日は“数息”の形を少し変えます。——片方の掌だけを温めて」
「片方?」
「左右差をつけると、眠りの入口が見つかりやすい夜があります」
私は右手だけ湯呑みを両手で包むみたいに、左の掌をそっと覆った。
右は温かく、左は空気の温度。
体の重心が、ゆっくりと寝やすい側に傾く。
「うん……来てる」
「はい。——君の今日の“音”を、一つだけ教えてください」
「キーボードのEnter。押すたび、作業が終わらない音」
「では、今は私が“終わりのEnter”を押します」
壁の向こうで、指先が軽く一度だけ、結界の縁をなでた気配がした。
室内の空気が、音もなく一度だけ下がる。
(終わった)
名付けのない感覚が、名前をもらったみたいに、体に着地する。
沈黙。
いい沈黙。
私は壁にもたれた背中を少しずらして、寝やすい角度を探した。
「燈真さん」
「はい」
「今日、がんばった私に、単語をひとつください。胸に置くやつ」
彼はすぐには答えず、少しだけ間を置いてから言う。
「『余白』」
「余白」
「空白ではなく、余白。——使い切らずに残す、静けさ」
胸の奥に、丸い石が置かれる。冷たくない。
「好き。今日の単語にする」
窓の外を、風が薄く通る。
結界の膜がそれに合わせて、ほんの少しだけ呼吸した。
私は掌の点をなぞり、もう一度、合図に合わせて息を数える。
(・ ・ ・ ・)
(・・ ・・)
(・・・ ・・・)
「ねぇ、燈真さん」
「はい」
「もし、明日の夜も遅くなったら……また、これ、してくれる?」
「もちろん。何度でも。——君が自分で“押せるEnter”を見つけるまで」
「見つけられるかな」
「見つけられます。君は“決める”のが上手だ」
その言葉の端に、少し甘さが混じる。
私は、長い息をひとつ吐いた。
「……緊張、ほどけた」
「よかった。——猫が、今日は階段の踊り場で寝ていました」
「白と茶色?」
「はい。名前を付けるのは、少し先にしましょう。名前は、強いから」
「うん。未満のまま、もう少し」
言葉にしてみると、喉の奥で鈴が一度だけちりっと鳴った。
ベッドへ移る。布の音が、今日はやさしい。
目を閉じる直前、私は声を小さくした。
「おやすみ、燈真」
初めて、さんを落とした。
壁の向こうで、ほんの少しだけ気配が揺れて、すぐに落ち着いた。
低い声が、甘く、短く返ってくる。
「——おやすみ、真白」
名前を呼ばれただけで、眠りの入口が一段広がる。
窓の外の世界はただの風景になって、数字は数えなくても、呼吸は勝手に静けさの順番を守り始めた。
最後に浮かんだのは、今日の単語。
余白。
その言葉が、毛布の端みたいに私の肩をそっと覆って、夜更けは夜のまま、やさしく過ぎた。
(つづく)
次回予告:第18話「猫に名前を」——踊り場の住人に“呼び方”を決める日。距離は守って、甘さは一匙増しで。




