第16話 半分だけいっしょ
土曜の朝、七時四十五分。
台所のステンレスは、気温より少しだけ冷たい。私はパンを軽くトーストして、ゆで卵を刻み、マヨネーズを少なめ、塩をふたつまみ、胡椒は指先で一回転だけ。
(音を立てない朝ごはん)
ボウルの中で卵がぽそっとほどける気配を、木べらの重みで確かめる。パンにバターを薄く塗り、片側にレタスを一枚。卵をのせ、パンを合わせる。包丁の刃を温めてから、すーっと真ん中で切る。断面に卵の黄色が静かに並んだ。
ポストに青紙。《います》
隣にも青がのぞく。《います》
白いカードが落ちる。
《八時ちょうど。棚の上下で“いただきます”。》
私はスープも用意した。昨夜のポトフの残りを牛乳でのばし、塩は指先の半分。器は音が出ない陶器。スプーンは背だけを温めて、当たる音を柔らかくする。
七時五十八分。窓を三秒開ける。
朝の風は薄く冷たく、鳥の声が一度だけ。掌の中心の点をなぞり、呼吸の順番を確かめる。
(吸う4、止める4、吐く6)
棚の上段に、たまごサンドとスープのトレーをそっと置いた。カップの縁が棚に触れないよう、音を置かない距離。
八時。
「いただきます」
私は小さく言って、耳をすます。
同じ高さで、同じ言葉が重なった。
「いただきます」
しばらく、紙一枚ぶんの距離で食べる。
パンに歯が入る音は、ほとんどないのに、ふわりとレタスが割れて、卵のやわらかさが押し返してくる。
(半分だけいっしょ、って、こんなに満ちる)
スープをひと口。体内に静けさが落ちて、背筋が自然に伸びた。
棚の下段に、白い小瓶が置かれる気配。
カードが添えられている。
《粒マスタード+はちみつ、微量。中盤で片側にだけ。——“半分”の工夫。》
私は笑って、たまごサンドの片側だけに、ほんの爪先ほど塗った。
甘さが遠くで鈴みたいに鳴って、マスタードが点で目を覚ます。
(片側だけ、がいい。全部より、いまの距離に合う)
棚の上に、お返しの小皿を置く。
《レモンの皮、すりおろし一つまみ。最後の一口の前に》
数十秒後、下段ですりおろす音のしないレモンの香りが、ふっと立った。
食べ終わる頃、廊下の方で管理人さんの足音がして、新しい掲示を貼るぺたりという気配。
覗き穴から見ると、紙にはこうある。
【週末の知らせ】朝八時前後、甘い匂いがすることがあります。
近隣の方は換気は一秒×数回で。
生活の紙が一枚増える。その事実だけで、この場所がこちら側のものになっていくのが分かる。
食器を下げて、私は棚の上段に小さな包みをもう一つ。
中身は、昨夜作っておいた塩レモンの砂糖漬けを薄く切ったもの。
カード。
《“半分だけいっしょ”の記念。——レモンの輪、ひとつ。》
下段に落ちた返事は、短かった。
《嬉しい。》
それから、もう一行。
《……緊張しました。》
思わず、声を殺して笑ってしまう。
「わたしも」
壁に背中を預け、掌の点をなぞる。緊張という言葉が、心の表面でやっと良い意味に変わる。
(壊すかも、って思う距離は、守りたい距離の形)
昼前、神社まで遠回りをした。鳥居の影は短く、風は乾いている。祓い屋の兄妹の姿はない。代わりに、子どもが縄跳びをしていて、ぴょんという柔らかい着地音が公園の砂に吸われた。
帰り道、私はふと立ち止まり、今日のことをメモにする。
《半分はいっしょ、半分はそれぞれ。
その真ん中に“同居未満”の机がある。》
午後。少しだけ昼寝をし、夕方に起きた。
起き抜けに窓を三秒開けると、遠くの交差点の電子音がふっと鈍い。灰の点はまだ効いている。
ポストにカードが落ちる。
《今夜、少し歩きませんか。——各自、玄関を出て、踊り場の端で“星を見るふり”。》
私は頷き返し、マフラーを一本首に巻いた。
二十時、玄関を開ける。鍵は回さない。踊り場の端で空を見上げるふりをする。
燈真は反対側の端。距離は取る。でも、並んでいる。
空は薄い雲。星は見えない。
「星、ないね」
「見えない星も、仕事をしています」
「どんな」
「目に見えない静けさを支える。君の呼吸みたいに」
その言葉に、胸の奥の鈴が小さく鳴った。
数分だけ風に当たり、同じ時間を折りたたんで、各自の扉へ戻る。
扉のところで、私は振り返らずに言う。
「またね」
「またね」
夜。
湯呑みを両手で持ち、掌の温度を杖にして、眠りの入口に立つ。
壁の向こうの気配が、いつもより長くそばにある。
「……ねぇ、燈真さん」
「はい」
「“半分だけいっしょ”、また来週もしよう」
「ええ。毎週でも」
「毎週」
「約束しましょう」
「約束」
灯りを落とす。
目を閉じる直前、私は今日の紙を一行だけ書いて投函した。
《半分は、約束の形。》
返ってきたカードは、たった二文字。
《同意。》
眠りは、パンの白い部分みたいにやわらかく、ゆっくりと私を包んだ。
(つづく)
次回予告:第17話「夜更けの呼吸」——“半分の朝”のあとにくる、長い平日の夜。積み上げた杖で、もう一段甘く。




