第14話 グラニュー糖の魔法
朝の光が白くて、台所のステンレスが静かに明るい。
私はパンを薄く切って、指先でひとつまみのグラニュー糖をつまんだ。
(同居“未満”の朝ごはん計画、第二弾)
昨日の塩に対して、今日は砂糖。火を使わず、音も出さず、でも少しだけ“魔法っぽい”ことがしたかった。
ポストに青紙。《います》。
隣からすぐに同じ青。《います》。
白いカードが一枚、すっと落ちる。
《おはようございます。——砂糖は“光”です。薄く、広く。》
私は笑って、パンの表面に均一に散らし、ガス台の火を使わずスプーンを熱湯で温めてから、背で砂糖をなでた。
じんわり溶ける。パリッとは言わない。けれど、ガラスみたいな薄い膜が朝にだけ分かる角度で光る。
(これが、グラニュー糖の魔法)
出来たてを一切れ、薄紙に包んで棚へ。
《試作ブリュレトースト“未満”。音が小さいやり方で》
入れ替わりで落ちたのは、小さな瓶。ラベルに《シナモン+カルダモン微粉》。
カード。
《魔法には“香りの杖”を。ふた呼吸、瓶を開けてから使うと角が立ちません。》
瓶の蓋を開け、ふた呼吸。
匂いが、急がない。
指先で粉をつまんで、砂糖の膜にほんの気持ちだけ振ると、甘さの輪郭がきゅっと整った。
(静かに立つ香りは、やさしい)
朝を食べ終え、洗い物をしながら、来週の再調査のことを考える。
管理人さん経由で“月曜の午後、環境確認のみ”の通知。
紙がある。ルールがある。だけど、胸のどこかは落ち着ききらない。
《月曜、また来るって》
《承知しました。今日は“杖”をもうひとつ増やしましょう。》
昼前、合図の丸いシール《今宵》。
私は午後の仕事を詰め、夕方の遠回りを少しだけ長くした。
神社の鳥居。乾いた鈴の代わりに、風が葉をこすって音を出す。
掌の温度が杖になって、胸の糸がゆるむ。
夜九時。インターホンは押さない。扉を少しだけ開けると、燈真が立っていた。
黒のカーディガン。手には、細いガラスの小瓶が二つ。
「音を吸う砂と、光を鈍くする灰です」
「……魔法の材料の名前がすぎる」
「名称は比喩です」
彼は笑い、説明を続けた。
「砂は、玄関マットの下に薄く撒く。足音の“立ち上がり”を吸います。灰は、ポストの内側に綿棒で点をいくつか。金属音の反射を曖昧にする」
「やる」
私たちは、廊下の灯りに気をつけながら、無言で手分けした。
音を立てないゆっくりの動き。
(ふたりでやると、怖くない)
作業の合間、私は聞いた。
「再調査、どうなると思う?」
「“人として”のやりとりが通じる範囲です。彼らも仕事で来る。——私たちは、生活で迎える」
生活。
この言葉は、私にとって魔法の呪文みたいだ。
「じゃあ、生活の準備、もうひとつしていい?」
「どうぞ」
「月曜の午後、台所で砂糖を焦がす。ちゃんと。管理人さんの掲示板の下に、“本日の掲示:焼き菓子予定”ってメモを出す」
燈真の目がわずかに笑う。
「事実で上書きするのですね」
「うん。甘い匂いの正体が、最初から“パン”だった世界線にする。音も匂いも、生活で埋める」
瓶を片付け、玄関に戻る。
ふいに、燈真が言った。
「真白さん。——手」
差し出されたのは、昨夜みたいに重ねる合図じゃなく、掌を見せてのお願い。
私はひらりと出す。
彼は親指で、私の手の中心に点を一つ書く仕草をした。実際には何もつかない。ただ、温度だけ。
「ここが、今夜の中心。怖さが来たら、指でこの点をなぞる」
「……はい」
「明確な“中心”は、音よりも強い」
胸の奥に、灯りがひとつともった。
扉を閉める前、私は小声で言った。
「今日は、“またね”って、言っていい?」
「もちろん」
「またね」
「またね」
灯りを落とし、窓を三秒開ける。
遠くの交差点の青に変わる電子音が、ふっと鈍くなった。
灰の点が効いてる。
掌の中心の点を親指でなぞると、眠りの入口が一段広がる。
(杖が増えた)
ベッドに入る。
壁の向こうの気配が、いつもより近い。
「……さっきの“点”、あったかいね」
「君が“中心に居る”と、私の結界は楽に呼吸できます」
「じゃあ、ずっとここに居る」
言ってから、心臓が一度跳ねて、でも跳ねた音もすぐに静かになった。
「ありがとう」
燈真の声は、砂糖の膜みたいに薄く、甘く、壊れない。
まぶたが落ちる直前、私は今日のメモを一行だけ書いて投函した。
《生活は、魔法に強い。》
朝になって返ってきたカードには、たった二文字。
《同意。》
私は、笑った。
(つづく)
次回予告:第15話「再調査の日」——“生活”で迎える月曜の午後。台所に立つ音と、鈴の代わりのスプーン。
作者は最近触発されて埃かぶってたホームベーカリーを引っ張り出してきました。
が、材料が足りなかったのでまたの機会に・・・。