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第13話 甘い匂いのパン

朝六時。まだ空が薄い色のうちに、ボウルに粉を落とした。

ぬるま湯、砂糖ひとさじ、ドライイースト。木べらでゆっくり混ぜると、ぼそぼそだった生地が、やがて“もったり”に変わる。

(音がしない料理、いいな)

こね台を出すと金属のきしみが出るから、今日はこねないパン。時間が静かにやってくれるやつ。


ポストに青紙を差す。《います》

すぐに、隣の投函口にも青がのぞいた。

白いカードが一枚、すっと落ちる。


《おはようございます。発酵の気配がします。台所の窓を二秒だけ開けて、酵母の呼吸を通してください。》


「二秒」

私はスマホで秒針を見て、窓を開け、パンと外気を挨拶させる。

閉めると、結界が薄く揺れて、すぐ馴染んだ。

(ここでパン、焼けるんだ)

台所に朝の光が斜めに差し込み、ボウルの生地の表面に小さな泡がぽこぽこと上がる。泡の音は聞こえない。だけど、音のない嵩が増えていくのが楽しい。


一次発酵を待つ間に、私はメモを書いた。


《今日こそ“本当に”甘い匂いさせます。焦げを少し。》


返ってきたカードは、角に小さな丸いシール。《了解》

下に、さらに一行。


《甘さには塩を。そのままでも、少しの塩で“静かに”際立ちます。》


(塩)

引き出しからフレークソルトの小瓶を出して、手のひらで軽く振った。

掌の温度。——それだけで、昨夜の手の記憶が、薄く灯る。


二次発酵。生地はぷっくり膨らみ、指で押すとゆっくり戻る。

オーブンを予熱しながら、表面にナイフで浅く切り込み。霧吹きを一本。

「いってらっしゃい」

オーブンに入れると、数分で台所の空気が変わる。

小麦の香りの奥に、キャラメルの予感。

(ここから、少しだけ焦がす)


タイマーを一分だけ延長。

目を離さない。庫内の色が、蜂蜜から琥珀、そしてカラメルに近づく。

ピピッ。

取り出した瞬間、甘い気配が廊下まで流れたのが分かった。

(これで、昨日の言い訳が、今日の事実になる)


粗熱をとるために網にのせ、包丁で端を切ってみる。

パリッ。

断面から湯気が立ち、気泡の穴が均一に並ぶ。

その静かな景色が、やけに愛おしい。


投函口がカタリと鳴り、細長い紙包みが落ちた。

中身は小さな陶器の器。淡い灰色。

カードが添えられている。


《塩バターを作りました。ひとかけ載せて、溶ける音を“聞いて”ください。》


私、笑った。

バターの白を薄く削って、焼きたての断面に落とす。

じゅ、と音はほとんど立たないのに、香りの立ち上がりで“音”が分かる。

フレークソルトを数粒、指先から落とすと、それだけで匂いの輪郭が締まった。


ひと切れを皿にのせ、もうひと切れを紙に包んでポストの棚へ。


《できたて半分、お裾分けです。焦げは意図的です。》

棚に置いたすぐあと、向こうの棚に何かが置かれる気配。

白いスープジャー。ラベルに**《朝のポトフ》**。

「交換成立」

誰にも見られていないのに、にやけた。


食卓で、私はパンに歯を入れる。

外は薄く強く、内はふわり。

塩バターが溶けて、甘さがひそやかに広がる。

(静かな贅沢って、こういう)


スープジャーの蓋を開けると、じゃがいも、にんじん、セロリ、透明なスープ。

驚くほど軽い。塩は控えめで、パンに合わせるための温度と濃度。

(この人、本当に“静けさの料理”をする)


食べ終わる頃、廊下に気配。

覗き穴から覗くと、管理人さんが掲示板の新しいプリントを指で伸ばしていた。

“玄関前での術具禁止”。

そこへ、通りがかった近所のおばあさんが言う。「あら、いい匂いねぇ」

私は慌ててキッチンへ戻り、窓を一秒だけ開けて笑いを噛み殺した。


午前の仕事を片付け、昼前、青紙をゆっくり引いてから、私は壁に向かって座った。

「……美味しかった?」

「とても。焦げの具合が正確です。君は、火を見て迷わない」

「迷ってたよ。タイマー、二回くらい押し直した」

「それでも“決める”のは上手です」

褒められるのに、拍手じゃないから、うるさくない。

胸の奥で鈴がひとつだけ、柔らかく鳴った。


私は、ずっと言いたかったことを、カードに書く。


《いっしょに、食べた気がした。壁越しなのに。》


少しして、返事。


《私も、そうでした。——“同居未満”は、良い言葉ですね。》


同居未満。

今日の台所は、確かに未満だ。でも、未満のまま満ちている。


午後、仕事の合間に、祓い屋の兄妹から管理人室宛の事前通告が入ったとチャットが来た。

「週明けにもう一度、環境確認だけさせてください、とのこと」

胸はさわぐけれど、怖くはない。

廊下の甘い匂いは、もうただのパンの記憶になっている。

(紙がある。ルールがある。匂いにも“言い訳”じゃない事実がある)


夕方、冷めたパンを薄く切り、軽くトーストして、蜂蜜を細い糸で垂らす。

掌の温度で、蜂蜜がすぐにゆるむ。

私は唐突に、昨夜の手の温度を思い出した。

指の位置、皮膚の厚み、重ねた時間。

——好き、の形は、静けさを壊さない。むしろすこし厚くする。

第十話で気づいたことを、もう一度ゆっくり確かめる。


夜。窓を三秒開けると、空は高く、風は乾いている。

「パン、また焼いていい?」

「毎朝でも。——でも、二秒の窓は守って」

「守る」

「それから、今日はおやすみの前に、ひとつだけお願いを」

「なに?」

「君の“いただきます”を、もう一度。壁越しに聴かせてください」

「そんなのでいいの?」

「それがいいんです」


私は深呼吸して、壁の前で、掌を合わせた。

声は小さく、でもまっすぐに。

「いただきます」

向こう側で、同じ言葉が、同じ高さで重なった気がした。

眠りの入口が、少し広くなる。


灯りを落とす。

甘い匂いは、もうただの今日の出来事だ。

そして、今日の出来事は、静けさの一部になった。


(つづく)

次回予告:第14話「グラニュー糖の魔法」——“同居未満”の朝ごはん計画。週明けの再調査に向けて、静けさのレシピをもう一つ。

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