第12話 静けさの交渉
午前、ポストに青紙を差してから、私はメモを書いた。
《行ってきます。今日15時、管理人室。——“人として”会おう。》
隣の投函口から、同じ青がのぞく。《います》の合図。
呼吸が一段、深くなる。湯呑みを両手で包み、掌の温度を確かめてから外に出た。
***
十五時、管理人室。四角いテーブルの向こうに管理人さん、手前に私。その斜めに、黒いカーディガンに白シャツの久遠燈真。今日は髪も前に流し、完全に“普通の隣人”の装いだ。
ほどなくして、兄妹が現れた。兄は落ち着いた目をしていて、妹は視線が速い。昨日の鈴はバッグの奥にしまわれている。
「どうも。昨日はご挨拶もなく失礼しました」
兄が名刺を差し出す。管理人さんは目を細め、受け取った名刺を光に透かす。
「で、環境調査ってのは、何をどう調べるの」
「近隣で“音”や“匂い”の相談が続いておりまして。配慮のお願いができないかと」
管理人さんは私たちを見る。私は頷き、あらかじめ用意してきた紙を一枚、兄妹の前に置いた。
【風見坂ハイツ・来訪時のお願い】
・平日9〜18時、管理人室経由で訪問ください。
・住戸の玄関前での鈴・拍子木など“音の術具”は使用不可。
・調査目的を文書で提出(必要時、録音記録)
・住民の睡眠・生活に配慮を。緊急時は管理会社から一斉連絡
兄は紙面を目でなぞり、口角をわずかに上げた。「きっちりされますね」
妹は私を見る。「静かすぎる部屋があると、歪みが集まる。——知ってます?」
「知りません。けど、静かに暮らしたいだけです」
「それは尊重します」兄が制す。「必要以上に荒らすのは本意じゃない」
燈真が控えめに口を開いた。
「私は久遠。隣室の者です。夜は早めに休み、朝は静かに出ます。騒ぐ趣味はありません」
淡々とした言い方なのに、声はよく通る。人らしい質感が、部屋の空気にちゃんと馴染む。
妹が首を傾げる。「でも匂いが——」
「甘いクリームブリュレを昨夜焦がしました」
私が被せると、管理人さんが「おいしそうだねぇ」と笑った。
燈真も「砂糖の匂いは、廊下に長く残ります」とゆっくり頷く。嘘は言っていない。たぶん。
兄はペンを取り出し、私の紙に小さく二行書いた。
・本件、調査記録は管理人室にのみ保管
・再訪が必要な場合は事前通告
「これでどうでしょう」
「助かります」
握手はしない。代わりに、兄は胸の前で軽く会釈した。職人の礼。
場がほどけかけたそのとき、妹が少し身を乗り出した。
「ひとつだけ。あなたの部屋、眠りが強い。誰かが見張ってるみたいに」
喉がひゅっと鳴った。
燈真は穏やかに言う。「眠りは、互いに守り合うものだと、そう学びました」
妹は私を見て、わずかに笑う。「——じゃあ、よく寝て」
それで引いた。兄妹は管理人さんと日程の連絡方法を確認し、ドアへ向かう。
去り際、兄が振り返る。
「余計なお世話ですが。甘さに塩、覚えておくと良いですよ」
「覚えました」
扉が閉まる。部屋には、古いエアコンの送風だけが続いた。
管理人さんが肩を回した。「いやぁ、あのくらい理屈が通る相手なら、まだやりようがあるさ」
「すみません、巻き込んで」
「なに。マンションのルールを守ってもらうのは本来の仕事だよ。鈴はダメ。これ、貼っとく」
壁に“玄関前での術具禁止”のプリントが一枚、増えた。日常の紙に紛れて、効きそうな紙だ。
***
夕暮れの廊下を並んで歩く。
「おつかれさま」
「おつかれさま」
ルールを紙にして渡すだけで、体の力が抜ける。
「人として、ちゃんと上手だった」
「長い時間、練習しました。——静けさが壊れない話し方を」
部屋の前に着く。私は鍵を回さず、扉の前で小さく深呼吸した。
「行ってきます、って今朝言えなかったから」
「じゃあ、改めて」
顔を見ない高さで、言葉だけを交わす。
「行ってきます」
「おかえりなさい」
そのやりとりが、胸の中の何かをやわらかく決定した気がした。
夜。窓を三秒開けると、風が乾いている。遠くの交差点の音が、ただの点になる。
湯呑みを両手で抱え、掌の温度を杖にする。
壁の向こうで、同じ呼吸。
「怖かった?」
「すこし。でも、紙があると強い」
「紙は杖になります」
「うん。——ねぇ、燈真さん」
「はい」
「明日、パンを焼く。焦がして本当に甘い匂いさせても、いい?」
笑いが降りてくる。
「ほどほどに、どうぞ」
灯りを落とす。
眠りの入口で、指先にふと手の温度が蘇る。昨日重ねた記憶の熱が、今日の静けさを厚くする。
鈴の残響は、もうどこにもない。
(つづく)
次回予告:第13話「甘い匂いのパン」——。朝の台所で、二人の距離が一歩だけ縮む。