第1話 終電、壁一枚の出会い
終電を逃した夜の街は、思っていたより静かだった。
タクシーアプリの地図は空色の点をくるくる回し続け、私は諦めてヒールを手にぶら下げる。夏の終わりの空気はぬるく、遠くで踏切が一度だけ鳴いた。
「……歩こう」
会社の玄関で深呼吸を三回してから、私は商店街を抜け、いつものアパート「風見坂ハイツ」までの道を、足音を数えるみたいに進んだ。
二階の踊り場に上がると、薄い蛍光灯の下で風が紙を揺らした。ポストのチラシは“格安引っ越し”と“英会話”。隣の部屋の表札だけ新しく、久遠という二文字が、縦に、静かに貼られている。
今夜からの人だ、と朝の管理人さんが言っていた。
私は自室の鍵を回し、玄関に崩れ落ちるように座って、足先を拭ってから、冷蔵庫の麦茶を飲んだ。胃が熱く、脳だけがざわざわと起きている。寝たい、ただ寝たい――。
その時だ。
壁の向こうから、低い音が響いた。
重低音のスピーカーみたいに空気を撫でる、言葉にならない低周波。音楽とも機械音とも違う。耳ではなく、骨で聴く感じ。
「……なに、これ」
心臓の奥がムズムズする。眠気は一瞬で飛び、私はベッドから跳ね起きて壁に手を当てた。ドンドンと叩くのは違う。まずは丁寧に――と、スマホのメモに「隣人 騒音 やんわり」と打ち込んでから、深呼吸して玄関へ。
チャイムを押す指が少し震えた。
数秒ののち、ドアが開く。
そこに立っていたのは、夜の色をまとった人だった。背が高い。黒に近い深い色の髪は緩く流れ、細い目は光を吸うように暗い。無駄のない部屋着。首筋が涼しげだ。
「お休みのところ、すみません。隣の者です。あの、少し……音が」
「――失礼しました」
低く澄んだ声。彼はすぐに頭を下げた。
「結界の調整がうまくいっていなくて。あなたの眠りを妨げるつもりは、まったくありません」
結界? いま、結界って言った?
言葉の意味に追いつけない私をよそに、彼は室内に視線を滑らせ、指先で空気を撫でた。すると、さっきまで身体の奥で響いていた低音が、ふっと消えた。夜の輪郭が、はっきりする。
「どうでしょう。静かになったはずです」
「あ、はい……すごく。ていうか、いまのは――」
「説明は後ほどでも。まずは詫びを」
彼はドアチェーンが届く範囲まで一歩近づくと、薄い笑みを作り直した。
「私は久遠燈真。今日から隣に住みます。静けさを、大切にしています」
「さ、佐伯真白です。静けさ、私も大好きです」
口から出た言葉が、少し滑稽に思えた。けれど本心だった。
「よろしければ、今夜は安眠の手当を。あなたの部屋の空気に触れる許可をいただけますか」
「え?」
「眠れないのは音だけのせいではない。忙しさの熱と、心のざわめきが、体温に絡みついている。少し冷やしましょう」
占い師の売り文句みたいだ。けれど、彼の声は不思議と耳を圧迫しない。水面に小石を落とすみたいに、心に丸い波紋を広げる。
私は頷き、チェーンを外した。
部屋に入った彼は、靴を揃え、洗面所で手を洗って、窓際に立つ。指先が軽く動くたび、カーテンが風もないのに揺れ、空気の温度が一度ずつ下がっていく。においが薄まる。街の遠い音だけが、透明になる。
「これが……結界?」
「静けさの網のようなものです。あなたの眠りの形に合わせて目を詰める」
「眠りの形」
「人それぞれ違います。あなたは寝入りが難しく、夢は浅い。だから入口を柔らかく、奥を固く」
図星を刺されて、笑ってしまう。
「プロですね」
「ええ。静けさの、です」
燈真は短く言って、キッチンの時計を見た。
「熱の手当には温かい飲み物が良い。差し支えなければ、台所をお借りしても?」
「どうぞ」
やがて湯が鳴り、ハーブの香りが立った。マグを受け取ると、手のひらがほっと緩む。
「ありがとうございます。……その、さっきの音は?」
「封印の具合を整えていた音。こちら側へ漏れないよう配慮します」
「封印」
「ええ。私は言葉通りに申します。私は――」
彼は、微かに笑い、少しだけ目線を落とした。
「静かに暮らしたい魔王です」
脳が一瞬フリーズする。
「……魔王。なるほど、えっと、たとえば“夜更かしの王様”みたいな?」
「いいえ、文字通りの魔王。ただ、いまは力の多くが封じられている。だから、怒鳴り声よりも、電子音よりも、静けさを好みます」
さらりと言うな、と思った。けれど、不思議と怖くはない。今日初めて会った人――いや、魔王――の整った所作と、湯気の柔らかさと、部屋を満たす静けさが、全部で一つの毛布みたいに私を包む。
マグを半分ほど飲むと、まぶたが重くなった。
「眠っていいですよ」
「でも、お礼をちゃんと――」
「明日の朝、インターホンは鳴らさず、メモを投函します。これからの静けさのルールを書きますね」
「ルール」
「夜のインターホン禁止、壁叩き禁止、困ったらメモ。代わりに、私はあなたの眠りを守る。約束しましょう」
紫がかった黒の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。でも痛くない。
「……約束」
言葉にすると、胸の中の固い何かがほどけた。
ベッドに横たわる。カーテンの向こうで、風もないのに葉が揺れた気がした。
遠くの道路を走る車の音が、砂のように細かくなる。エアコンの唸りが、海の尾びれのようにゆっくり遠ざかる。呼吸が、深い。
最後にぼんやりと、玄関の方に視線をやる。燈真はドアの前で軽く会釈をし、音もなく部屋を出ていった。
眠りの底に落ちる直前、私は思った。
――都会の夜って、こんなに静かだったっけ。
(つづく)