黄色いお米と、ありがとうの気持ち
あのころ、わたしはまだ小学生。
1995年の1月、大きな地震がありました。
阪神・淡路大震災――。
いつも見ていたまちの景色が、あっという間にこわれていきました。
おうちも、学校も、いつもの“あたりまえ”が、次々となくなっていきました。
それは、ごはんもおなじでした。
白くてふっくらした、日本のおこめ。
まいにちのように食べていた、やさしい甘みのおこめ。
それが、ぱったりと、食卓からきえてしまったのです。
かわりに出てきたのは、すこし黄色くて、細ながいおこめ。
「タイ米」と呼ばれていました。
はじめて食べたとき、わたしは泣きました。
パサパサしているし、においもちがう。
冷めるとボロボロこぼれて、おにぎりにもならない。
「もう、黄色いお米はいや……」
「日本人なのに、なんで日本のおこめが食べられないの?」
そう言って、わたしはおはしをおきました。
おかあさんは何も言わなかったけれど、さびしそうな顔で、わたしのさらを見つめていました。
でも、それでも、食べるしかありませんでした。
食べものが、かんたんには手に入らなかったから。
学校のきゅうしょくでも、だまってタイ米を食べました。
「食べられるだけありがたい」って、まわりの大人たちは言っていたけど、
小さなわたしの心には、うまくとどかなかったのです。
──
それから、何十年もたちました。
大人になったわたしは、いま、こう思っています。
「お米ひとつぶも、もうぜったいにムダにしない」
炊飯器にのこったごはんは、ていねいにラップして冷凍庫へ。
おにぎりをつくるときは、こぼさないように、そっと手でにぎります。
茶わんを洗うまえに、さいごの一粒までおはしですくって、口に運びます。
あのとき泣いていた小さなわたしは、
いま、「ありがとう」って言いながら、ごはんを食べられる大人になりました。
もったいないオバケなんて、こなくても大丈夫。
だってわたしは、ちゃんと毎日、「ありがとう」って言ってるから。
──
つらかった思い出も、
なみだを流した日も、
ごはんが食べられなかった夜も、
ぜんぶ、ぜんぶ、いまのわたしをつくってくれました。
だから今日もわたしは、
茶わんのさいごの一粒まで、大切にいただきます。